027 襲撃
外に出ると、そこはまさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。赤く赤く燃える焔があたりを包み、地には焼死体が転がっている。遠くからは悲鳴が聞こえては、家々の倒壊音と炎の轟音にかき消えていく。
まだ幼いラルカには見せられない光景だ。ラルカを抱えながら、八雲はリリカを連れて走る。
そこへ、
「勇者殿ッ!」
「──キリシュ!」
声を掛けてきたのは騎士団員である青年だった。キリシュは必死の形相で、顔には乾いた血がこびりついていた。それだけで何者かとの戦闘があったのだと悟る。
「何が起こってるっ!」
「詳細は走りながらお伝えします! とにかく私についてきてください!」
走り出したキリシュに八雲たちも続く。
──クソッ! 何なんだッ!
悲惨な光景が続いている。
道中には見知った人たちの死体もあった。リリカは懸命に走りながらも、それらを見て吐き気を催していた。必死に口許を抑えているのは、彼らへのせめてもの情けか。
「何が起こってる!」
「盗賊の襲撃です!」
「騎士団はっ」
「自分を含めて二十人弱ッ! うち十五名は襲撃者との戦闘です!」
襲撃。
そのフレーズを聞いた途端に八雲の胸中がざわめく。後ろを走るリリカが息を呑んだ。
「畜生ッ!」
リリカは青ざめきっていた。あたりから押し寄せる熱波があるにもかかわらず、その顔色は血の気も引いて蒼白である。
早くこの状況を抜け出さねばならない。
「このまま村の外に向かいます! そこに皆が!」
まるで灼熱地獄にいるかのようだ。腕の中のラルカは怯えきっていて、歯の根が合っていない。八雲はまたしても、少女の死ぬ嫌な幻影を見る。
──絶対に死なせやしない……!
歯を食いしばり、八雲はラルカをぎゅっと抱く。か細い声でラルカは、
「おかあさん……おとうさん……やだ……」
その瞳はすでに八雲を見ておらず、虚ろな光を灯していた。八雲の脳裏に、部屋に飾られた一枚の絵が思い起こされる。
「大丈夫だっ……大丈夫、護るから……!」
音を立てて家が倒壊していく。じりじりと熱が肌を焼く。息を吸い込むたびに肺に火がつきそうだ。
どこからともなく悲鳴が続いている。
八雲の心に不安が募っていく。親友と言ってくれるあの男と、その妻は大丈夫だろうかと、八雲の胸が叫んでいる。
緋色の猛火が舞い、その度に破裂音が鳴る。心臓が張り裂けそうなくらい、息を吸い込むのをやめない。焦るなと、生きているはずだ、と言い聞かせてもなお、八雲の脈動は激しい。
「もうすぐですっ」
キリシュが叫んだそのとき、八雲の視界で何かが動く。ハッとしてそちらを向くと、倒壊した木材に埋もれた、力ない手のひらが見えた。
しかしその手は、動いた。まだ生きていると、そう主張したのだ。
一瞬で頭に血が上った。
「頼む」
腕に抱いた小さな女の子をその姉に預ける。顎をしゃくって先に行けと促すと、
「八雲さんっ!?」
背後からの制止を振り切って、八雲は猛然と駆け出した。追いかけようとするリリカを、キリシュが止めて引っ張っていく。
八雲はすべてを忘れ、無我夢中で小さな手を目指した。
「待ってろ、今出してやるっ!」
× × × ×
リリカは憔悴しきっていた。それでも、妹を逃がすために騎士とともに走る。
──怖い。
妹の命を失うことが怖い。自分の命がなくなってしまうのも怖い。けれどそれ以上に恐ろしかったのは、一人走っていった青年だ。
八雲が向かった先にいたのは年端もいかぬ子供だった。助けを求めた小さな手を、藁にもすがろうと挙げられた小さな手はリリカにもはっきり見えた。
リリカはそれを見たとき、瞬時に思ってしまった。
──ああ、助けられない、と。
けれど八雲は違った。すぐにラルカを預けると、必死の形相で駆けだしていってしまった。それが、ひどく恐ろしくて、そして、哀しくもあった。
リリカは諦めてしまった。彼か彼女か、その小さな命を諦めてしまったのだ。それに引き換え、八雲はどうだろう。あの絶望的な状況で助けに向かってしまった。
声は震えていた。顔は蒼白だった。ラルカを預けたときの手は恐怖に打ち震えていた。
それでも、彼は行った。自分の命が失われる恐怖を抑えつけて、もう助けられる可能性も少ない命を助けに向かった。
溢れ出そうになる涙を堪えて、リリカはひたすら走る。キリシュの励ましを受けつつ、ラルカを抱きしめて走り続ける。
すると、前方に村の出入り口が見えた。次いで、人の集団が見える。
「あそこにみんながいますっ!」
リリカは安心した。これで助かると思って、安堵の息を吐いた。
直後、疑念が湧き起こる。
──え?
自分が信じられなかった。どうして安心などできるものか。
「リリカちゃん! それにラルカちゃん!」
「助かってよかった! 怪我はないかい!?」
村民たちが口々に心配の言葉を掛ける。だがそれも、リリカにとっては恐ろしいものに思えた。誰も彼のことを心配しないのが恐ろしかった。一目見ればわかるはずなのに、八雲の不在を気にする人は誰もいなかった。
付き合いの長かった自分たちにまず心配を向けるのは当然なのだろうが、それにしたって半年も一緒に過ごしてきた八雲のことも心配するのが普通だろう。
しかし村民のみなは、そうではない。いや、きっと混乱しきっているから目の前のことしか頭にないのだ、と自分に言い聞かせる。
「セリカさんたちは……?」
「…………」
「…………」
村民たちがそろって閉口する。
見回したかぎり、テグスとセリカはおらず、村長もいなかった。ということは、もしかすると……、
「……っ」
悔やんでも悔やみきれない。だが死んでしまったと決めつけるのは早計だ。きっと生きてこの場に来てくれるはず。それは先ほど飛び出した彼についても同じで、
「八雲さん……っ」
意識を失ってしまった妹を抱きしめながら、リリカは膝を折った。
早くここに来てほしい。傷一つない彼の姿が見たかった。自分でも残酷だと思うが、彼が無事なのであればそれでいいと思った。
彼らの無事を祈り続けてどれだけ時間が経ったろう。体感にして一時間を超えたように思えたが、そんなに長くはなかったかもしれない。
「無事だったか!」
村民の歓喜の声に、リリカは勢いよく振り返る。
そこには、紛れもない彼の姿があった。顔中煤にまみれ、、裂傷だらけではあるが、服部八雲は一人そこに立っていた。
「八雲さんっ!」
嬉しさで胸がいっぱいになっていた。ラルカを寝かせると、リリカは八雲に駆け寄って、
「よかった……!」
勢いのまま抱きついた。八雲は何も言わずにそれを受け止める。
八雲が無事で本当に嬉しかった。リリカの顔に血の気が戻ってきて、目尻に涙が溜まり始める。しかし、
──あれ?
八雲は一人だった。先ほどの少年はおらず、後から誰かがやってくる気配もない。
「八雲さん……?」
見上げてようやく気づく。
八雲は虚ろな瞳のまま泣いていた。煤にまみれた頬に涙の流れた跡がある。そして彼の瞳には、深い悲しみが見て取れた。
彼は、助けられなかったのだ。
「死んだんだ」
八雲の口からぼそりと呟かれた、何の抑揚もない、感情さえも殺してしまった声。
「二人とも助けられなかった。俺は彼女の願いすらも果たせなかった」
今の彼は危険だとリリカは直感した。皮を破るほどに拳を握りしめている八雲は、ともすれば自ら命を絶ってしまいそうな雰囲気を纏っている。
何か言葉を掛けねばと思うものの、リリカにはそれが見つけられない。
「俺が悪かったんだ。俺が全部、悪かった。全部、全部、俺のせいだ」
「それは違う! 八雲さんは助けようとしたんですから……ね?」
八雲を抱く力を強めつつ、リリカは涙を流す。
「そうじゃないんだよ、リリカ。根本から俺が悪かったんだ」
なぜこうもすべてを背負ってしまうのだろう。その小さくない、けれど大きくもない背中に、どれだけ背負おうとするのだろう。
それではいつか、いつか──、
「折れちゃうよ……」
八雲の身体から熱が伝わってくる。表情とは反対に激しい心臓の鼓動もリリカの胸に響いてくる。彼の体温を感じると、リリカの涙腺はさらに刺激される。
「ラルカは無事か?」
「意識を失ってますけど、怪我はないです」
「よかった。……心配させて悪い。ごめんな」
突然、八雲は不自然なまでに感情を灯す。
リリカはその言葉に嘘の気配を感じた。八雲はきっと自分たちに心配をかけないためにそうしているのだ。
──私たちも、重荷になっちゃってるのかな……。
先ほどの虚ろな状態が、今の八雲の心に違いなかった。リリカには、八雲が壊れてしまいそうな予感がしてきた。
「テグスとセリカはどこだ?」
笑顔で問う八雲。その雰囲気にリリカは異常だと思った。へらへらと笑うなんてこと、今までの八雲にはあり得ない。そう思いながらもリリカは、
「それが……いないんです」
「いないのか? あの二人が?」
無言で肯定する。すると八雲は歯を食いしばって、あたりを探し始めた。しかしそのとき、騎士団員の一人が声を張りあげた。
「ここから退避します!」
リリカは絶句した。騎士団員の言ったそれは、言外に村にいるかもしれない生き残りを切りすてるという宣告だ。八雲は残ろうとしたが、キリシュがそれを許さなかった。
すぐに騎士団のメンバーが集団の周りを囲う。リリカたちは最後尾で、その後ろでキリシュが殿を務める。八雲は自らラルカを預かって歩いている。
「待てっ!」
聞き覚えのある声に、リリカと八雲はそちらを向く。
くすんだ金色の髪。精悍な顔立ちは煤で汚れている。背負った大剣は無骨で、いかにも武人らしい。
リリカは口許を抑えて泣き、八雲は信じられないと言わんばかりに目を見開く。
「早くそこから離れろ八雲ッ!」
双眸に苛烈な怒りを宿したテグスが背の大剣を抜く。業火に煌めく鈍色の剣に、一瞬だけ八雲とリリカが映される。
「逃げろぉおおおおお──ッ!!」
必死の形相で叫ぶテグスにリリカは違和感を覚えた。そしてテグスの視線は真っ直ぐにリリカの隣へと向けられている。気がつけば、キリシュがどこにもいない。
リリカは八雲の方を向こうとして――気づいた。その瞬間、身体が動く。
「──ッ!?」
――そんなの、許さない……っ!
リリカはすぐに飛び込んだ。
瞬間、閃光が弾けた。左胸に激痛を感じて、リリカの顔が苦悶に歪む。
一瞬だけ視界が真っ白になって、それからまた世界が元通りになる。リリカの視界は何の異変もない、大好きな世界を映していた。
愛する妹と、大好きな彼。目の前にいる二人は家族。
妹はすごく強がりで意地っ張りで、だけどすごく怖がりの臆病な子。いつも自分のことを「俺」だなんて言って強がる。一人称を「俺」にしたのは両親がいなくなってからだった。強がっているなんて、ばか。ほんとうに、ばか。ばかだけど、すごく優しい子。
あの絵、持ってこれなかったなぁ……。
彼はすごく優しくて臆病で、けれど誰よりも強い男の子。王子様みたいに華麗にお姫様を助けることはできないけれど、でも、誰にでも手を差し伸べることのできる人。誰でも笑わせてしまう道化みたい。
彼は誰よりも強いけど、すごく弱いから、誰かが支えてあげないと。そうしないと、いつか本当に壊れてしまうから。誰か、支えてくれるひとを見つけてほしい。
もっと、もっと一緒にいられれば、って思ってしまう。
「りりか……? え?」
お願いだから、泣かないで。私も泣きそうになっちゃうから。
滲む視界に映るのは、妹を抱きかかえてこちらを見つめる彼の姿。愛おしい。
「そこをどけぇぇえええええ!!」
上手く動かない身体を精いっぱい動かして、彼に寄り添った。腕のなかにいる妹の額に、幸福を祈るキスを。
「あいしてるよ、ラルカ」
幸せになってほしい。この子にはまだ将来があると信じているから。
「無駄だぜ? もう心臓は潰したんだからな」
そして彼には、さっきも贈った言葉を。
「だいすき」
唇がふれあうと、すごく幸せになった。彼もそうだとうれしい。
彼の姿が霞んでいく。けれど、怖くない。ああ、ひとつだけ、怖いことがあった。
どうか、忘れないで。片隅にでも、ぼんやりとでもいいから、私のことを、いつまでも憶えていて。そうしてくれるなら、わたしはきっと、これからさきもしあわせだ。
小鳥がついばむような口づけを交わすと、もう身体が動かなくなった。
もう少しだけでいいから。あとすこしだけ、うごいて。
「おれ、……は、おれは……」
ほら。言わせちゃだめだよ。だから、うごいてよ、わたし。
「おれも……」
それ以上はだめ。言ったらぜったいに、あなたをしばってしまうから。
わたしがねがうと、身体がうごいてくれて、彼のくちをふさぐ。二度目の口づけは、すごくしあわせだ。
「すき、なの」
これはわたしの身勝手な恋。彼の重荷になりたくないから、これはわたしの身勝手な初恋だ。
お願いだから泣かないで。あなたが泣いたら、わたしはまだいっしょにいたくなっちゃう。
「らる、かを……おねが、い……」
ねえ、神様。
「りりか……? りりかっ!」
彼と出逢わせてくれて、ありがとう。
でも、もう少しだけ、いっしょに――、
いたかったな。
× × × ×
目の前で起きた光景が信じられなかった。
いきなりリリカに突き飛ばされたかと思うと、彼女の胸からは赤黒く染まった剣が突き抜けていた。剣の先からは、まだ暖かい血液が滴っていた。
八雲の世界が氷結した。
どうして? 一体なにが?
八雲の脳は視覚情報の処理に戸惑った。
リリカの胸から剣が抜かれて、傷口からはどくどくと血が流れてきている。しかしリリカの瞳は嬉しそうで、その美麗な顔には微笑みを残していた。
「りりか……? え?」
八雲の顔がくしゃりと歪む。訳が分からないと否定する感情と、淡々と出来事を処理する理性とがせめぎ合っているみたいに、どうしていいかわからなくなって、泣きたくなる。
ただただ腕の中のラルカを抱きしめることしか出来なくて。
リリカの眦に涙が溜まって、落ちていく。彼女の唇は静かに血をこぼしていく。
「そこをどけぇぇえええええ!!」
テグスが叫んでいる。叫んでいて、でも、なんで叫んでいるのか、わからない。
そんなことより、どうして? どうして彼女は泣いているんだろう。
彼女はそのおぼつかない足取りで近づくと、ラルカの額に口づけを落とした。幸せそうに、けれど泣きながら笑うその表情は、すべてを知っている。
「愛してるよ、ラルカ」
八雲は相変わらず、心が絶叫するのを止められずにいた。脳がしきりに処理するのを、どこにあるかもわからない心がしつこく否定する。
「無駄だぜ? もう心臓は潰したんだからな」
なんだこれは。これは、悪い夢じゃないのか。そうだ、きっと悪い夢に違いない。そうじゃなかったら、こんなにひどいことが起きるはずがないから。
現実を認めない八雲を醒ましたのは、
「だいすき」
非常にも、リリカの口づけだった。柔らかな唇と付着した鉄の味は、八雲に現実を認めさせるには充分すぎて、酷すぎる仕打ちだった。
完全に血色を失ったリリカは、八雲とラルカを愛おしそうに見つめている。しかしその瞳は焦点が定まらなくなってきていた。
「おれ、は……、おれは……」
君のことが好きなんだ。
そう口に出したいのに、唇は震えるばかりで、言葉を紡がない。嫌だ。想いも告げられないなんて、そんなのは絶対に、嫌だ。
「おれも……」
言いかけた唇をふさいだのは、二度目の口づけだった。血の味はどうしようもなく彼女の死を予期させて、絶望を与えてくる。
暖かな血と冷え切った唇が、ひどく残酷だった。
「すき、なの」
そう言ったきり崩れ落ちたリリカを、八雲はしっかと受け止めた。
急速に失われていく彼女の体温。弛緩していく彼女の身体。伝わってくる彼女の荒い呼吸と、弱々しく拍動する心臓の音。
「らる、かを……おねが、い……」
すべてが彼女で、すべてが彼女でないようだった。
八雲の知るリリカはこんなに弱くない。いつもラルカには厳しくも甘くて、八雲には優しくもからかってきたりする、普通の女の子だ。
こっちがからかえば照れたり顔を赤らめたりするし、怒ることだってある。両親を失ってしまって、けれど一人でラルカの面倒を見ていた、強い女の子だ。
誰かに頼るのが怖いと言っていて、しかし八雲のことを頼ってくれた、気難しい妹想いのお姉ちゃんだ。
料理が上手で、手料理を食べてもらえるとニコニコしてしまう、可愛らしい女の子だ。
意外と教えるのも上手で、八雲にいろんなことを教えてくれた、優しい女の子だ。
時折見せる可憐さやあどけなさ、大人っぽさ、妖艶さ、狡さ……そのすべてを含めて、八雲の大好きな、初恋の女の子だ。
リリカは、誰よりも強がりで、誰よりも弱い女の子だった。
キッチンに立つ後ろ姿。おかえりなさいと言って向けてくれた微笑み。独白とともに見せてくれた涙。妹を慈しむ姉としての顔。
初めて会ったときの、向日葵のような、明るい笑顔。
すべてが、愛おしかった。
「りりか……? りりかっ!」
幸せそうな微笑みを絶やさないまま、リリカは目を閉じた。身体に残っていた彼女の温もりは、風に消え去っていった。
信じられなかった。――信じたくなかった。
リリカが、死んだ。