026 リリカと八雲
「これはなんでこーなってるんだ?」
「えっとな、林檎が二つあって、一つを俺が食べたとするだろ? そうしたら余った林檎の数は一つになるよな。それを計算式に表してるのさ」
「八雲は一つで足りたの?」
「どうだろうな……」
帰宅して夕飯を食べた後、八雲はラルカに算術を教えていた。算術と言っても、別段難しいものではなく、足し算や引き算などの初歩的なものである。
この村にも寺子屋のようなものはあるのだが、いかんせん学びにくる子供が多くて、講師であるセリカもひとりひとりにしっかり教える余裕がない。
そこで八雲に白羽の矢が立った。異世界からきた勇者である八雲は、子供たちにとっても興味の対象であり、教えてもらう意欲も倍増するとの算段だったのだろう。
むろん断れるはずもなく、八雲は講師を務めることとなった。しかしこれが存外難しいもので、なかなか上手く教えることができない。身近なもので教えたりもするのだが、さすがは想像力豊かな子供たち、突拍子もない質問をしてくることがある。
ラルカもそんな子供たちの一人だ。
「もう一回問題を出すぞ。林檎が五個あったとする。二つ食べて一つ買い足すと残りはいくつになる?」
「でもでも八雲はおっきいから二つじゃ足りないよ! だから全部食べちゃって残りはぜろ!」
「そういうことじゃないんだがな……」
「ん?」
小首を傾げて可愛らしく問う姿は、まだ幼いひとりの女の子である証に見える。
──徐々に慣らしていくとするか……。
時間はまだあるのだ、焦る必要もない。すっかり脱力しきった八雲は、とりあえずラルカの頭をなでておく。黒髪がくしゃっとたわんで、手に心地よい感触を与えた。
「なでるなよー」
口では抗議するものの、抜け出そうとはしない。それどころかみるみるうちに笑顔になって楽しそうだ。なんだか小動物みたいで可愛く見える。
それにしても、本当によかった。
しかし八雲の不思議だったのは、ラルカの心が折れていないことだ。
あの事件の直後を八雲は知らない。話によれば、ラルカは無事村に着くことができ、真っ先にテグスに助けを求めたらしい。そこでぱったり倒れてしまったとのことだ。
結果的に生き残った子鹿は、今やラルカのペット兼相棒としてともに生活している。しかも子鹿には、ラルカによって『ヘリオス』という名前が付けられた。
彼女らは仲良しで、毎朝早くに起きては村中を駆け回っている。ヘリオスは温厚な性格で、村中の人気者だ。
「いいや、その気遣いは嬉しいよ」
「きづかい?」
「ラルカが優しいってことだ」
「ほんと!?」
と、ラルカは椅子から飛び降りる。その目は輝いていて、「もっと褒めて!」と言わんばかりだ。
「もちろん。ラルカは優しい子だ」
「やたっ!」
花が咲いたような笑顔で飛び跳ねるラルカに、八雲も思わず頬が緩んでしまう。そこへ、軽やかな声が掛けられた。
「そろそろ寝る時間だよ、ラルカ」
リリカだった。
火照った頬と濡れた髪には、少女に似合わぬ妖艶さがある。思わず見惚れそうになって、八雲はすぐ目を逸らした。
「ほら、ベッドに入っとけ。眠いんだろ?」
「ん……わかった。おやすみ」
「おやすみラルカ」
「ああ、おやすみ」
ラルカが自室に入るのを見届けたリリカは、八雲の隣に腰を下ろした。はらりと髪先が踊って、淡い香りが鼻先をくすぐる。
「いつもありがとうございます。……じゃあ、始めましょうか」
「……っ」
最近、リリカの笑顔を見るだけで八雲はすぐ赤面してしまうのだ。
あどけなさを残した微笑を見たり、ときには一言二言交わしたり……、それだけでかぁっと顔が熱くなって、胸がくっと苦しくなってしまう。
「まだ緊張してるんですか?」
「……年下の子相手だとどうも、な」
なかなか照れくささが抜けきらない。
「別に気にしなくてもいいのに。私だって教わってるんですから」
「そうは言ってもさ……やっぱり照れるもんだよ」
八雲はこの世界で使われている言語の文字、文法などを教わっている。その代わりに、リリカには算術を教えているのだ。リリカはもともと聡明なのもあって飲み込みが早く、少し難しい解法を教えるのも容易い。
反対に八雲はと言えば……、
「ここの読み方は少し特殊なんです。それに文法も間違えてますね」
「結構難しいもんだ」
絶賛苦戦中である。この世界の言語は簡単に見えて結構難しいのだ。
文字はどことなくアルファベットに似ている気もするが、少し違う。文法だって複雑で、こちらの言語よりかは英語の方が断然楽だと思えてくる。
「八雲さんの上達速度はすごいと思いますよ?」
「俺の幼馴染なんかはもうマスターしてたよ」
「それはすごすぎです……」
リリカは苦笑した。それから、麗華たちのことを思い浮かべてか渋面になり、かと思えば八雲にチラチラ視線を送ったりしてくる。
何か不安を残す面差しで、リリカは、
「あと半年、ですね」
「……ああ」
「わたしには何もできないけど、ううん……できないから、毎日お祈りします」
心なしか、リリカの瞳がいっそう潤んだ。長い睫毛に乗った涙の欠片は、宵闇を照らす月の薄明かりを浴びてきらきらしていた。
そうなると、当然八雲は目を奪われてしまう。じっと見つめていると、こちらに気づいたリリカが笑顔を作る。朝露をこぼすようにしずくが落ちて、彼女の袖をわずかに濡らした。
水たまりのごとく八雲の胸中にも波紋が広がっていく。
「すごく不謹慎だと思うんですけど……、できれば頑張ってほしくないです」
「どうしてだ?」
「……怖いから」
リリカは八雲の袖を握りしめてそう言った。かすかに震える指が、彼女のなかにある怖さの度合いを知らせてくれた。
気持ちを汲んだ八雲は励まそうとして、しかしたちどころに何も言えなくなって黙り込む。
「あのときもすごく怖かったんです。死んじゃうんじゃないかって、そう考えたら胸が苦しくなって……」
静謐さを孕んだ独白。その雰囲気を悟ると、八雲は少女の右手に左手を重ねる。彼女の震えも直に伝わってくるから、八雲はその小さな手をしかと強く握った。
指と指とを絡め合わせれば、それはまるで固い結び目のようだ。
「…………」
「…………」
言おうと思っていた言葉も出なくなってしまう。
気恥ずかしさで脈が速くなる。顔が赤くなるのもわかって、耳まで熱くなってくる。
横目に見遣ればリリカの耳は真っ赤で、しかし彼女の顔は愁いを帯びていた。唇がわなわなと震えていて、頬には流涙の跡がある。
高鳴っていた心臓の騒動は、すぐに治まった。
「いかないで……」
呟きとも言えなさそうなくらい小さな囁き。それはきっと八雲に聴かせるつもりもなかったのだろう。
リリカの言葉は甘い誘惑だった。八雲だってここの生活に馴染んで、毎日が充実している。できることならばここに残ってみなと共に過ごしていたくもある。
しかし答えは決まっていた。だから八雲は。
「……悪い」
すべてを投げ出してでも護ると誓った存在がいる。そのなかにはむろんリリカやラルカもいる。どちらも護りたいからこそ、八雲は最前線にいなければならない。
戦う幼馴染を護りたいから。最前線でともに戦っていられれば、リリカたちを護ることにも繋がるし、幼馴染を護ることもできる。
ここにはいられない。それが八雲の出した答えだった。
「すみません……少しだけ、このままで……」
肩に添えられた小さな感触。しなだれかかったリリカの瞳は濡れていて、ときおり暖かな雫が染みてくる。
別れはいつだって突然で、どうしようもない。
だがその先にまだ未来が残っているのなら、再び会うことができる。隣に座りあって時間を過ごせる。あんなこともあったねと笑いあえる。
そんな未来を作るためならば、多少の犠牲などは厭わない。
今はまだ、静かな夜だった。だから八雲も思ってしまう。
──もう少しだけ、この時間を──
× × × ×
約束の時間が近づくと、次第にリリカも元気を取り戻し始めていた。空元気だとすぐにわかったが、八雲はあえて触れずにいることにした。
ほんの少しの気恥ずかしさが残っているが、リリカのためを思うならば表に出さない方がいい。
「テグスさんたちのところへ行くんですよね?」
「結婚前夜ってとこだ。二人とも、すごく嬉しそうだった。セリカさんも満面の笑みでさ」
思い出せば、自然と顔が綻んでしまう。羞恥に赤く染まりそうになるが、八雲には笑顔を崩すことはできなかった。
「女の子の夢ですからね、結婚は」
「やっぱりそうなのか?」
「もちろん! 一生に一度の晴れ舞台と言ってもいいくらいですからね」
二人の結婚のことを伝えたときは、リリカは可憐な顔を輝かせて喜んでいた。それを見て八雲自身も喜んでしまったのは秘密の話。
「八雲さんも、嬉しいんですね」
「……そう見えるか?」
「当たり前じゃないですか。だって、今までに見たことがないくらいの笑顔ですもん」
「なっ……」
指摘されて、八雲は口を閉ざす。
今度は耳まで羞恥に染まっていく気がした。言われてしまうと、どうにも恥ずかしさが勝ってしまう。先ほどの行為もあいまって羞恥二倍だ。
しかしそうまで顔に出てしまうのだろうか。いや、嬉しいのだから笑顔になるのは仕方ないだろう。問題はそれ以外、普段が顔に出過ぎだということだ。いずれ治さないと、なんて考えてみる。
すると、静寂が現れた。リリカも八雲も無言になって、お互いに何か言うそぶりも見せなくなる。
この静寂に包まれたひとときが、八雲にここでの生活を思い浮かばせた。
最初に出てきたのはラルカとの出会いだ。どこか抜けた感じの少年だな、というのが第一印象で、遊んでいくうちにラルカの人となりもわかった。
寂しがり屋なのだ。推測でしかないが、ラルカはひととのつながりを求めている。一人称が『俺』になったのは、そういうところからも来ているのだろう。
そんなラルカを支えるのが、姉であるリリカ。彼女の第一印象は、明るく笑える女の子。実際は困った顔もするし、怒ったときは意外と迫力がある。
しっかりした女の子だと思っていたが、その実不安定な一面も垣間見えた。親からの愛情を受けた期間が長いだけにラルカへの愛情も多分だ。だからこそ、自分しかいない、親と過ごした期間が短いラルカを不憫に思っているのだろう。
でもきっと、ラルカは姉がいればそれだけで幸せだと感じているはずだ。だってラルカは、世界の誰よりもお姉ちゃんが大好きなのだから。
そうだ。明日の主役であるテグスとセリカも大切な人たちだ。出会いはなかなか強烈で、初顔合わせのときのテグスは真面目な好青年を装っていた。まあ十分もしないうちにボロが出たのだが。
セリカはテグスの妻となる人物であり、目が眩むほどの美人である。一言で表すのなら『計算高い淑女』と言ったところか。今日の昼にも彼女の怖さは身をもって知ることができた。
二人とも、命の恩人である。彼らがいなかったのなら八雲はいまごろこの世にいない。
感謝してもしきれないほどの恩をこの身に受けた。いつか、いや、一生を通して恩を返していかねばなるまい。だがテグスには少し仇で返してもいいかな、なんて思う。
思い返せば幸せな記憶ばかりだ。無意識に柔らかく微笑んでいて、しかし八雲自身はそのことに気がついていない。
「愛華さんたちを護ってあげてください」
ハッとしてリリカを見る。
すっかり思い出にふけっていた八雲は、突然握られた手とリリカの言葉に驚いた。当然と言えば当然だが、彼女は八雲が滞在を断った理由もお見通しらしい。
「絶対に護ってあげてくださいね、みなさんのこと」
「……もちろんだ」
決意がまた固くなる。今度はリリカを意識しすぎて、八雲の顔は強張ってしまっている。凝り固まった感じがしているが、まったく嫌な感覚ではない。
「ふふ、約束ですよ?」
「わかったよ」
苦笑まじりに了承すると、リリカは嬉しそうにはにかんだ。それから突然、悲嘆にくれたような顔になって、かと思えば満足そうに笑みを浮かべる。
視線が惹かれる。
「よかったです」
リリカは窓の外を眺めた。愁いげな彼女の姿は一枚の絵のように美しく、それと同時に儚い印象。
ずっと外を眺める彼女につられて外を見てみると、──そこには、真っ暗な世界があった。
「八雲さんが、八雲さんでよかったです」
その黒の瞳は、何を捉えているのだろう。何を見て、何を感じているのだろう。
無性に知りたくなった。けれどその先へ、踏み込んでもいいのだろうか?
「どういう意味だよ」
笑いながら訊き返す。しかし何か、しこりのような、暗然としたものが胸に残った。
「いいえ、なんでもないですよ」
「なにかありそうだったけどな?」
「なにもないですって」
どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。この約半年をともに過ごしてきただけだというのに、胸が苦しくて、泣きたくなってしまう。
その答えは、簡単なものなのだろうか。
「ただ――、」
ふいに、八雲を見つめる。
窓の外、月の薄明かり。静寂に沈んだ夜の空気が部屋を満たす。
ほのかな香り。舞う髪、潤みを帯びた瞳。華奢で柔らかな少女の肢体。震える唇が、次の音を紡ぎだすのを、見た。
「――き」
耳を疑った。その三文字が、途轍もなくおそろしい何かであるようだった。
言葉も失って、頭のなかが空白のページに埋め尽くされる。白紙に刻まれていく彼女の言葉。もう一度聴きたくなる、しかしもう二度と聴きたくない一言。
ある種の呪いの言葉。
そのときだった。
爆音と悲鳴が木霊したのは。