008 白衣の男、ガルム
王立図書館を訪れたのち、八雲はひとり帰路に着いていた。愛華はまだまだ読みたい本があったらしく、クルトはそれに付き合わされている、というわけである。
陽はすでに傾き、すぐそこまで夕闇が迫っている。燃えるような朱色が王城を鮮やかに彩る。子供たちが母親と手を繋いで歩いていたり、見たところ傭兵風の男たちが酒場に入って行く。
「なんか、いいところだよな、ここ」
一週間経ったことで、それなりに余裕が持てるようになったのかもしれない。ずっと自分を追い込んでいてもダメだ、と教えてくれたのは、意外や麗華だった。むしろ、楽しめるときに楽しまないと狂ってしまう、とも言っていた。
まさか麗華がそんなことを言うとは思ってもみなかった。が、麗華がそう指摘したのは、きっと八雲を心配してくれてのことだろう。
苦笑の欠片を忍ばせつつ歩いていると、突然肩を叩かれた。振り向くと、いつか見た男が立っている。よれよれの白衣を着こんで、丸眼鏡を掛けている、線の細い、いかにも研究者然とした風貌だ。
「……えっと」
「ああ、すみません、お呼びとめしてしまって」
「いや、それは大丈夫ですが」
「服部八雲くん、ですよね?」
白衣の男は眉尻を下げながら八雲に尋ねる。なんというか、頼りない印象の男である。八雲は心中疑念を抱きつつ、「ええ」と答えた。
「そうですが、どうかされましたか」
「実はね、君とは一度話をしてみたかったんです」
男は街の一角を指さして、
「あそこの料亭に行きませんか? もちろん私の驕りです」
「……いいんですか?」
八雲が訊くと、男はたちまち笑顔になる。誘いに乗ったのが嬉しかったらしい。
──ん……?
直感したのは、そのアンバランスさ。
なんだか、この男はバランスが取れていない。見た目に反して少し幼い感じがする。
「もちろん! というより、君はお金を持っていないでしょう?」
そういえばそうだった。
勇者として優遇されてはいるが、お金などは一切渡されていない。もっとも、もし馬鹿な盗人に攻撃でもされたら、と心配してのことらしいが。
「えっと……」
心苦しくなって、八雲は渋面を浮かべた。それを見た男は、くふふ、と笑う。八雲は途端に恥ずかしくなって、耳まで真っ赤になってしまう。
それから少しの会話をして、二人は料亭「吠える仔犬亭」に訪れた。入り口を抜けると、恰幅のいい女主人が二人を出迎えた。
「いらっしゃい! ……あれ、勇者様じゃないかい!」
「……どうも?」
「そんな他人行儀じゃなくていいさ! あんたは若いんだから生意気なくらいが丁度いいよ!」
なぜ顔ばれしているのかわからないが、どうやら先方は八雲を知っていたらしい。もしかすると、五日前に街を案内してもらったときに見られたのかもしれない。
「二人かい、ならカウンターにしてくれるとありがたいね!」
「ええ。では八雲くん、そこにしましょう」
八雲と男はカウンターでも端の席に座った。男は女主人に何か八雲の聞きなれない料理を頼むと、出されていたエールをぐっと一息に呷る。ごくり、ごくりと喉が鳴る。ぷはっと息を吐いて、男は八雲に向き直った。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね」
男は女主人にエールをもう一杯頼む。ついでに、と言って男は、八雲のためにジュースを頼んだ。エールがくると、男はまた一気に飲み干し、八雲に向かって頭を下げた。
「王城にてある研究をしております、ガルムと申します」
年上に頭を下げられるなんて初めてだった。ガルムは顔を上げて、にこりと笑う。どうすればいいか困って、一応八雲も頭を下げる。
「ご存知かと思いますが、この世界に召喚されました、服部八雲です」
思ったよりも固い口調になってしまった。だが、一応の礼節は尽くすべきだろう。年長者に対する敬意は忘れてはならない、とは祖父の教えである。
八雲が次の言葉を探していると、ドン、とカウンターにプレート皿が置かれた。八雲が視線を上げると、女主人が楽しげな笑みを見せていた。
「はいお待ち! 大狼のステーキだよ!」
八雲は驚いた。それは、鼻腔をくすぐる香辛料のいい匂いや、女主人の声の大きさに、というわけではない。八雲が驚いたのは、その量だ。
八雲の顔よりも大きいプレート皿に乗せられた、まだ焼ける音のする一枚肉。付け合わせの、皿に盛られたサラダは少なめで――もしかすると肉が大きいからそう見えるのかもしれない――なんと言っても、その肉は分厚い。教科書なんかよりずっと分厚いのでは、と錯覚するくらいだ。
「すごいでしょう? でも、とても美味しいんですよ」
フォークとナイフを持ってから、ガルムは忘れていたとばかりに瞑目する。せわしなく唇を動かしていた。
何を言っているのかは聞こえなかったが、食事前に祈りを捧げる習慣でもあるのだろう。
手を合わせて、いただきます、と言うと、八雲は早速ナイフとフォークで肉を切りにかかる。
フォークを突き刺すと、存外柔らかい。焼き加減はミディアム。ナイフで肉を分けると、パチッ、パチチッ、と肉汁が弾けた。ごくり、と生唾を呑む。
見た目はもちろんのこと、少量掛けられた香辛料が食欲を引き立てる。肉を一口大に切る。フォークで、肉を口に放り込んだ。
──……美味い。
噛めば、またしても肉汁が弾ける。じゅわり、と溢れ出る肉の旨みが舌をとろけさせる。火傷してしまいそうな熱さだが、それがまたいい。鼻腔を突き抜ける香辛料は唾液を分泌させる。しつこすぎない味が八雲の食指を早めさせた。
付け合わせのサラダを口に運ぶ。こちらは、日本で言う紫蘇か何か、とにかくさっぱりとしたドレッシングを使っているらしかった。しゃきしゃきとした野菜はほどよいリズムを生み、また、爽やかな風味が舌を、鼻腔を刺激する。
食べ進めていくうちに、いつの間にか肉はもう半切れしかなくなっていた。そこへ、手が伸びる。女主人だ。
「あんた、まだうちのステーキの醍醐味を知らないね?」
唇の端を悪戯に吊り上げ、女主人は八雲のプレートをかっさらう。あ、と八雲が漏らすと、ガルムが八雲の肩に手を置く。
「ここからあのステーキは変わりますよ」
厨房に立ち、フライパンを握る女主人を見つめる。その眼光は鋭い。タイミングを計っているようだ。八雲はその姿に興味津々だった。
とそのとき、女主人の眼光が一段と鋭さを増す。
フライパンの中の肉が、パチ、とほんの少し、目ではわからないくらい少しだけ、跳ねた。
瞬間、女主人はフライパンにボトルを振った。液体が少量、肉にかかる。酒だ。
すると、途端に炎が立ち上る。
女主人は小刻みにフライパンを動かし、蒸発しきる前に酒を肉に絡ませる。
フランベ。時間にして数秒ほどで、女主人はその工程を終えた。
「はいよ! これがうちのステーキさ」
再び、八雲の目の前に置かれるプレート。今度は、香辛料よりも酒の香りが強い。とは言っても、上品な香りだ。決して酒臭いわけではない。
八雲は肉を切り分け、口に入れる。風味が、まるで変わっていた。今回は肉の味わいが深まっている感じがする。
しかも、焼き加減が微妙に変わっている。ウェルダン寄りになったことで、先ほどよりも噛みごたえがある。風味が豊かになった肉汁が、噛めば噛むほど沁みだしてくる……。
そうして八雲は一心不乱に食べ続けた。
食べ終わる頃には、すでに外は真っ暗だった。隣のガルムも、いつの間にか、食後の一服を楽しんでいる。見た目に反して食べるのが早い。
勘定を済ませたのち、八雲たちは女主人に礼を言って外へ出た。昼間とは打って変わって、夜の空は雲に覆われている。
風は吹いていないが、少し肌寒かった。
「ごちそうさまでした。すみません、おごってもらっちゃって」
「気にしないでください。これでも王に仕えている身です、それなりにお給金をもらっていますから」
「ありがとうございます、美味しかったです」
「それはよかった」
ガルムは微笑む。
そういえば、ガルムは研究者だというが、どのような研究をしているのだろうか。魔法の存在する世界では研究も何もないのではないだろうか?
「研究って、何をしているんですか?」
八雲が尋ねる。ガルムは間をおかずに答えた。
「魔法について、ですよ」
「どうやって?」
「簡単なことです、実験をするだけ。本当に単純明快なものですからね、魔法というのは」
八雲は、また訊きたくなった。が、訊くわけにはいかない。「そうですか」と返して、八雲は歩き出す。
魔法を使えるようにするには、なんて訊いたところで、ガルムを困らせるだけ。それに、なにより自分が惨めになるだけだ。
そわそわする八雲を見かねてか、ガルムは新たな話題を切り出した。
「白っていう色はね、一番すごい色なんですよ」
「え?」
「白はね、一番すごいんです。赤や青、緑や黄色なんかより、ずっとすごい色なんですよ」
ガルムは横目で八雲を見遣る。──くしゃ、とバランスが崩れる。大人の風貌の中に、まるで無邪気な子供が住んでいるような、そんな、アンバランス。陰のある笑み。
八雲はそのとき、たしかな戦慄を覚えた。首筋にナイフを当てられたような。そんなおぞましい感覚が起こっている。
「だってそうじゃないですか。白は何色にでも染まることができる。他の色にはできないことができる。いや、絵の具ならばたしかに混ぜ合わせることができるでしょう。赤と青を混ぜれば紫ができる。でも、その色は上辺だけの色だ。どんなメッキもいつかは剥がれてしまう。なら、根底からその色を変える、いや、剥がれることのないよう植え付けられる色とは? ──それは、白のみ。赤も青も緑も、黄色も黒もその色を変えることはできない。白ならば、その色を赤にだって青にだって、どんな色にだって染め上げられる!」
血走った眼。均整の取れた顔は歪んで、形容しがたい不気味な印象に変わる。あえて形容するならば、その薄く裂けた唇は、宵に浮く三日月だった。
狂っている。このガルムという男は、魅せられている。それも、完全に虜になっていた。
本能が怯えている、それくらい恐ろしい表情だった。
八雲は、思わず身震いした。そんな八雲を慮ってか、ガルムは調子を取り戻す。
「ああ、すみません、つい興奮してしまって……。目的はそんなことではないというのに、どうしてこう私は目先の物事に囚われてしまうのでしょう」
力なく笑うガルムには、先のようなおぞましさを感じなかった。そして、今のガルムの言葉には共感できるところがあった。
「だれだってそうですよ」
八雲とて同じことなのだ。だが、それは大事なことなのだと思う。いつだって道を逸れて、間違えて、悩んで。でも、そうすることで、たしかな目標を見定めることができるのだろう。
「君は、本当にすごい子です」
ガルムは双眸を細めて八雲を見ていた。まるで親鳥が雛を見つめるときの眼差しである。
なんだか八雲は、その視線に後押しされている気がしてきた。いつも言えなかったことを、今なら、口に出せそうだ。
しかしなんだか、不思議なまでに気力が漲る。
まるですべてが演劇の台本のように、言葉がすらすらと脳裏に浮かび上がった。
「……俺はいつも、頼ってばかりなんです。だから今度は、なんて思ったけど、俺には力がなかった」
昼間の愛華を思い出す。愛華は八雲に理想を抱いて、憧憬を浮かべて、期待を寄せている。ほとんど何もすることができないというのに、それでも愛華は八雲に否定を許さなかった。勝手なものだと言えばそれまでだが、その一言で片づけるのはいささか寂しいものではないか。
それに、もう道はないのだ。才無くして生きられる世界ではないのなら、努力をするほか道は用意されていない。
「こんな俺でも、期待して信頼してくれる奴がいる」
だからこそ、諦められない。諦めてはいけない。八雲は拳を握りしめて、歯を食いしばる。言葉にしないと、意思は形を成さない。言葉は、ある種の形なのだ。
「ここでまた諦めたら、絶対にダメなんです。どんなに惨めだっていいから、とにかく諦めたらいけないんだ」
ここで諦めたら、きっともう戻れなくなる。落とした手をもう一度伸ばすことさえもできなくなってしまう、そんな予感が八雲にはあった。
「今までずっと諦めてきた。諦め続けて、けど、ふいに憧れて、でも、絶対に掴めなくて、──結局全部諦めた」
言っていて、だんだんと悔しくなってくる。八つ当たりしそうになってばかりの自分に苛々してくる。
ロクな努力をしてこなかった。周囲に貼られたレッテルに甘んじて、すべてを自らの運命のせいだとしてきた。いつも悪いのは自分の運命で、悪いのは自分ではないと、そうやって逃げ続けてきた。
ここで変わらなかったら、もう変わることなどできない。
「目を逸らすのは終わりなんです。だから、俺は変わってみせます」
言い切って、八雲はその場に立ち尽くした。ガルムは八雲の肩に手を置いて、
「君はすごい子です。でも、無理だけはいけない。……私は見守っていますよ」
「……ありがとうございます」
ガルムは八雲の背を押した。「わっ」と転びかけて、八雲はガルムを軽く睨んだ。
「何するんですか……」
「驚きましたか?」
「そりゃあ驚きますよ、転びかけたんですから」
いかにも不服である。なにせ、いきなり突き飛ばされたようなものだ。いや、宣言してから突き飛ばされてもむろん不服なのだが。
八雲が顔を顰めると、ガルムはいたって真面目な顔になる。
「でも、転びませんでしたよ?」
「……まあ、そうですけど」
「転ばないうちはいいんですよ」
とガルムは陽気に言った。
結果論だ。そう言いたかったが、ここでそんなことを言うのも子供っぽくて馬鹿らしい。それに、ガルムはガルムで意図があったのかもしれない。八雲は考えたが、それこそ勘繰りすぎかと思って苦笑した。
それからガルムは「さあ」と歩き出す。八雲はそれに続いた。すでに、王城は目の前だ。塔の遥か上空では、雲の切れ間から三日月が顔を出している。
「もう王城に着きましたよ。中に入ってください」
「ガルムさんは?」
問うと、ガルムは首を横に振る。くたびれた白衣とあいまって、その仕草はなんだかガルムの性に合っていそうな気がした。
「私の研究室はここではないですからね」
「そうなんですか」
「ええ、今日も考察を深めねばなりません。今の観察対象はいろいろと複雑なんです」
やはり今も実験の最中であるらしい。魔法についての研究をしているから、もしかすると魔力だの魔素だのの話を聞くことができるかもしれない。
しかし、もう夜だ。それにガルムにも都合があるのだから、今からまた話をしだすのも迷惑だろう。
八雲はその疑問を後回しにすることにした。いずれ会うのだろうから、焦らずともよい。
扉を開けて、八雲は振り返る。眼鏡の奥の双眸は、いやに澄んでいる。いっそ無邪気なまでだ。八雲は会釈して、
「おやすみなさい」
と挨拶した。
ガルムは軽く手を上げて応える。
あの、不気味な雰囲気はもう霧散している。今となっては欠片も残っていない。あるのは、人の良さそうな微笑みだけだ。
八雲が中に入ったとき、ふとガルムの声が聞こえた。いや、先ほど言っていたことを思い出したから、それが幻聴となって聞こえたのかもしれない。まあ、どちらでもいいことだ。いずれにせよ、ガルムはこう言っていたのだから。
「君は、本当にすごい子ですよ」