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後編

■■ もう一つの顔

 いつもと違う匂い。

 まだ頭がぼんやりしている。

 トントンという一定のリズムが刻まれる。

 ゆったりと白い世界から浮上していく。

 いい匂いに誘われて目がさめた。

 久しぶりにぐっすり眠れたような気がする。

 なんか、見たことのない部屋だった。

 すごく殺風景。

 小さい頃に母さんにねだって買ってもらったお気に入りの人形が本棚の上に並んでない。

 あたしの部屋ってこんなだっけ?

「起きたのね。もう少ししたら朝ご飯ができるから顔でも洗ってきたら」

「……うん、わかった」

 もぞもぞと布団から起きだす。

 低血圧気味なので朝はいつもつらい。洗面台に行くまでにもふらふらしてしまう。

 なんか普段と違う。

 妹と色違いの歯ブラシはどこにいったのかな?なんて探しながら少しずつ意識が覚醒してくるのを理解する。

「あ、そっか。昨日はミソラさんのところに泊めてもらったんだっけ?」

 ぼんやりと鏡に映った自分の姿を見て、顔が赤くなった。

「うわっ!」

「どうしたの? 大丈夫?」

「だ、大丈夫だから!」

 洗面所のドアを慌てて閉めた。

 あたし、パンツしかはいてなかったよ……。


 部屋の真中に置いてあるテーブルには二人分の朝食が並んでいた。

 白くてつやつやなご飯は炊き上がったばかり、隣のおそらくはあわせ味噌を使ったであろうお味噌汁。具はワカメと豆腐。分厚くてふっくらと焼きあがった卵焼きと、ふんわりと食欲をそそる香りの立ち上る鮭の塩焼き。

 まさに完璧なまでの日本の朝ご飯だった。

「これ、ミソラさんが作ったの?」

「ええ。これぐらいできないとね」

「うわー、すごー」

 勉強ができて、家事もできてって超人ですか、あなたは。

「お口にあうといいんだけど」

「じゃあ、いただきます」

 まずはお味噌汁に口をつける。

 うん、美味しい。うちは赤味噌を使っているからあわせ味噌の味っていうのは慣れていないんだけど、これはこれで美味しい。

 小皿に移した卵焼きは箸で小さくしてから食べてみる。ちょっと甘い感じ。

「卵焼き、甘いね」

「それは砂糖を少し入れているからよ。甘すぎたかしら?」

「ううん、ちょっとだけだから大丈夫。ミソラさんは卵焼きに砂糖入れたりするんだ。でも美味しい~」

 うちはダシと醤油をちょっと加えた味付けなんだけど、ふんわりしていてこれはこれで美味しかった。

「母さんがそうやって作っていたから、自然とわたしもそうするようになったの」

「へえ。じゃあ、これがお袋の味ってやつ?」

「かもしれないわね」

 普段は朝ご飯って食べられないんだけど、今日は環境や作ってくれた人が違ったせいか全部食べることができた。

「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした。洗い物をするから流しまで運んでもらえるかしら?」

「あ、手伝うよ。っていうか、洗い物ぐらいあたしにやらせて? 昨日泊めてもらったお礼に」

「そう。じゃあ、お願いしようかしら」

「まっかせて!」

 流しに二人分の食器を運び込んで洗う。

 流しの前にある窓から外が見える。黒い雲が空を覆い尽くしていた。今日は雨が降るのかもしれない。

「あ、そういえば今日の制服どうするの? 昨日のは使えないでしょ?」

 あたしだったら他人の血で汚れた服を二度と着たいとは思わない。

「それなのだけれど……今日は学校を休もうかと思っているの。気分も優れないし、替わりに着ていく制服もないから。さすがに冬物を着ていくわけにはいかないでしょう」

「うーん、それがいいかもね。落ち着くまでは学校休んだ方がいいんじゃない?」

 洗い終えた食器を布巾で拭いて水切り篭の中に並べた。

「あたしはどうしようかな」

 正直、学校に行こうという気にはなれなかった。どうしても、ミソラさんが出会ったという殺人鬼に襲われたらどうしようと考えてしまう。

「そうだ! 新聞とってない? 昨日の事件が載ってるかもしれないじゃない」

「新聞はとってないわ。それに、夜遅くに起きたことが朝刊に載ったりするのかしら?」

「そう言われてみればそうよね。あ、でもテレビだったら……って、テレビないんだっけ」

「ごめんなさい。普段からテレビを見ない生活だから」

「あ、ううん。別に悪いことじゃないし。あたしもミソラさんを見習ってテレビを見る時間を減らそうかなー。あはは……」

 よくよく考えてみたら、ミソラさんの部屋には娯楽のためのものはまったく置いてない。本当に生活するために必要なものしかなかった。あたしなら、こんな部屋では息苦しくて生きていけないだろう。

「でも、どうなったのか気になるよね。その……無事じゃないとしても」

「そうね」

 ミソラさんはその被害者の人に会っているというか抱きつかれているわけで、あたしなんかよりよっぽどショックを受けているんじゃないだろうか。だとしたら、この話題には触れないほうがいいのかもしれない。

「……よければ、今日は部屋に一緒にいてくれないかしら?」

「いいの?」

「ええ。少し不安だから……ダメかしら?」

「あ、それわかるわかる。実はあたしも不安だったのよね。むしろこんな状態で学校にいけって言われてもイヤだったかも。だからむしろ賛成かな」

「そう、よかった」

 ミソラさんはほっと胸をなでおろしたみたいだった。やっぱり表に出ていないだけでミソラさんも怖かったのだとわかって安心する。

「あたし、学校さぼるの初めてかも」

「あら、わたしもそうよ」

「えへへ。二人揃って初体験だね」

 ようやく笑うことができた。暗い顔をして落ち込んでいるよりも、こっちのがずっといいだろう。

 あたしたちはコタツ机をはさんでいつもの屋上でするような他愛のない話を始めた。

 学校のことだったり、勉強のことだったり、お気に入りのグッズとか、好きなアーティストの話をした。まあ、ミソラさんの部屋にはCDプレイヤーもテレビもラジオもないから、音楽はほとんど聞かないらしいんだけど。なんだか仙人みたいな人だ。

 雨が降り出して、二人だけしかいない部屋は奇妙に音がこもっていた。でもそれがより二人きりという感覚を強く抱かせてくれる。だから、普段なら聞かないようなことだって話題にできた。

「そういえば、ミソラさんにも妹さんがいるんだよね? どんな人なの?」

「妹は……元気にしているはずよ」

 あたしはミソラさんが一人暮らしをしている理由を知らない。あまりプライベートに踏み込むのはよくないと思ってあえて聞いていないのだけれど、今日だけは素直に聞けるような気がした。

「どんな子なの? ミソラさんに似てる?」

「似ているわ、とても」

 ミソラさんに似ているってことはきっと美人なんだろうな。どんなタイプの子なのか気になる。

「あの子はね、優しい月の光に包まれた夜にしか外出できなかったんだけど、外にずっと憧れていてね。だからできるだけあの子の望みはかなえてあげたいと思っているの」

 いつの間にか、雨はやんでいた。

「あの子はとても元気だわ。そう、とてもね。特に月の夜にはビルの屋上に登るのがお気に入りなのよ」

 それはまるでミソラさんみたいだ、なんて思った。

「小さい頃から仲は良かったし、よく写真も撮ったの。だから、そういった思い出は大切な宝物だわ」

 西日が足長く部屋に差し込み始め、世界をゆっくりとオレンジ色に染めていく。

「大切にしているのよ。わたしは妹が望むことならばなんだってするわ。それがたとえ、他人の不幸になることだとしてもね」

 平然と怖いことを言う。気温が下がったわけでもないのに、身体がぶるりと震えた。

「夜の世界だけがあの子の生きることのできる場所。だからわたしはあの子のために世界を作るの。あの子に対して優しい世界を――すべての邪魔者を排除して」

 妹さんのことを話すミソラさんの横顔に夕日が差して、奇妙なコントラストを見せていた。なぜだか、端正なはずのその顔がひどく歪んでいるように見える。

「たとえば、わたしはあの子が生きるためならば、誰かを殺すことだって容認する。あの子がそれをしたいのであれば構わない」

 すべてが赤く染まった世界。

「そのためだけにわたしは生きている。あの子を生かすことが喜び。それだけがわたしの人生のあり方であり、望みでもある」

 この人はなにを言っているのだろう?

「あなたも、そうではないの?」

 微笑まれた。まるで大切な仲間がその視線の先にいるかのように。

「あ……え?」

「だからわたしは嬉しかったのよ。あなたが夜の世界の住人になってくれて。これからもいろいろと力を貸してね? もちろん、わたしはあなたの妹さんがこちらの世界へ来るときには力を貸すから」

「……なに、が?」

「一緒に、夜の世界で生きていきましょう。大切な妹と一緒に。大切な家族と一緒に。それはとても楽しいことだわ」

 まるで夢を見ているかのような表情が、醜悪なものに見えてしまう。

「あら、もうこんな時間なのね。そろそろお夕飯の買出しに行ってくるわ」

「あ、それならあたしもそろそろ……」

「お夕飯も食べていって。すぐに戻ってくるから」

 家へ帰りたかった。ここにはもういられない。ここは人の暮らす場所じゃない。

「戻ったら、あなたのこれからのことを話し合いましょう。そうね、いつやればいいのかしら? 得物はわたしが使っているのでもいいけれど、あなたには少し重いかしらね?」

「え……?」

「何がいいのか考えておいて。実行は今晩でいいでしょう。今夜はとてもいい月が浮かぶと思うから。じゃあ、いってきます」

 一方的に言い残して行ってしまった。閉じられた扉は何も言わない。

 混乱していた。考えがまとまらない。

 いったい、ミソラさんは何が言いたかったのだろう? やるってなにを? 得物ってなんなの? それも今日? 夜の世界? 邪魔者を排除する? 誰かを殺す?

 ぐるぐると思考が空転しているのを自覚しているのに、それをとめることができない。

 わからない。全然、理解できない。

 ふらつく足取りで部屋に戻ると、カラーボックスの上にある写真立てが目に入った。のろのろとした仕草で手にとって見る。

 そこにはミソラさんしか映っていない。

 動悸が止まらない。まるで耳元に心臓がついているみたいだった。

 ぼぅとした気持ちでカラーボックスの最下段に収められたアルバムを手にとる。それが他人のプライバシーを侵害することを頭では理解しているはずなのに身体がいうことをきかない。

 震える手でゆっくりとアルバムを開いてみた。

 写真は――ある。

 ミソラさんばかりが写っていた。どこにも妹さんの姿はない。

 昼、夜、室内、屋外……さまざまな場所で取られた写真はすべてミソラさんのものだ。ミソラさんがあれだけ大切にしていると言った妹さんはどこにも写っていなかった。どのアルバムにも、どのページにも。

 ダメだダメだとわかっていながら、身体が動くのを止められない。

 この先に何があるのか予想しているのに、自分の行動を制御することができない。ミソラさんに入ってはダメだと言われた奥の部屋が気になる。どうしようもなく気になる。

 ふすまを開けてみた。

 がらんとした部屋だった。家具どころかカーテンすらついていない。沈みかけた西日がわずかに明るさを保っていて、部屋の真中には合皮製のケースが置いてあった。昨日、あたしが運んだヤツだ。

 おずおずと足を踏み入れ、そっとケースを取ってみる。ずしりと重い。竹刀とはこんなにも重いものなのだろうか?

 ボタンを外して中に収められたものをゆっくりと取り出してみた。

 それは拵えも立派な日本刀――道理で重たいはずだと自分の中の冷静な場所が納得をしている。

 柄を持って引いてみたけど、まるでくっついているみたいで上手く抜けない。両手に力を入れて引っ張るとようやくずらりと黒い刀身が表れた。

 黒いのは――乾いた血だった。

「いやああああぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」

 もう悲鳴を堪えることができなかった。

 部屋を飛び出して暗くなり始めた町へ逃げ込む。誰かがいる場所にいれば自分は安全だと信じて。

 もともと夜の町にあたしが身を置ける場所なんてない。あたしはこの時間の住人ではないのだから。自然といつものところへと足が向いてしまう。

 いやだいやだと思いながら階段を登り、スチール製の扉の前に立つ。鍵がかかっていることを期待してドアノブに伸ばした手が止まる。

「なんなのよ、これぇ」

 まるで鋭い刃物で斬りつけたようにドアノブは切断されており、足元に転がっていた。

 右手が触れただけで、なんの抵抗もなく扉が開いてしまった。

 ここに、彼女がいるのだろうか。

 全身の毛穴が開く感覚。焦点は消え、視界がゆっくりと広がっていく。どんな些細な音も聞き逃さない。

 けれど、この場所にはあたし以外誰もいなかった。

 覚束ない足取りでいつもの場所に立って町を見下ろす。途端に膝が笑って立っていられなくなった。しゃがみこんだ背中にぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。

 怖かった。わからなかった。あたしがここで会っていた人は誰だったのか。

 カツンと高い音が響いた。

 身体が硬直する。

 足音が近づいてくる。一歩、また一歩。

 怖い。こわくて立ち上がれない。振り返ることができない。もう、自分から動くことはできそうになかった。

 扉の前で足音が止まる。

 肌が冷たい金属の扉に触れる音が聞こえる気がした。一瞬遅れてから扉が開く。

 あたしは動けない。この場所に縫い止められたように。



□□ 頼み

 その日、お姉ちゃんは帰ってこなかった。無断で外泊したことなんて一度だってない。お父さんもお母さんも、もちろんわたしも心配でたまらなかった。

 携帯に連絡があるかもしれないと思いつつうつらうつらしていたらいつの間にか朝になっていた。

 腫れぼったい目を冷たい水で冷やしながら顔を洗う。

 朝のテーブルにはいつものように四人分の朝食が並んでいた。椅子にかけている人が一人いないだけで、とても寂しく感じる。

 いつもなら朝からテレビをつけておくことはしないんだけど、もしかしてお姉ちゃんが事件に巻き込まれたんじゃないかってことでずっとつけっぱなしだ。お父さんもお母さんも目が真っ赤だった。

「お、おい、これってこのあたりの話じゃないか?」

 お父さんの声に顔を上げる。ニュースはローカル局に切り替わっていて、昨晩に起きた事件について扱っていた。

 殺人鬼と呼ばれた犯人の新しい犯行が明らかになる。七人目の被害者は若い女性。家からも近い。身元は……不明。

 血の気が引いた。制止の声を振り切って外へ飛び出した。お姉ちゃんを探すために。

 これまで二人で行ったことがある場所を順番に回る。よく遊びに行った公園、勉強のために通った図書館、お気に入りだったお店、近所の子と友達になった広場、通っていた学校、行きつけの商店街……どこにもいない。

 わたしの隣にはいつもお姉ちゃんがいたのに、ずっと一緒だったのに、この大切なときにいない。

 電気屋さんのショーウィンドウの前に人だかりができていた。こわごわその集団に近寄ると断片的にアナウンサーの言葉が聞こえてきた。

『――被害者は二十四歳の会社員、高島みどりさんで、昨晩、会社を出たあとから足取りが……』

 殺人鬼に襲われたのがお姉ちゃんじゃないのがわかって、ほっとする。けど、このままお姉ちゃんが家へ戻らないのだとしたら、わたしの心配は決してなくならない。

 さっと翳ると雨粒が落ちてきた。人だかりはまるでクモの子を散らすように霧散する。

 わたしは雨の中、お姉ちゃんを探すためにまた歩き出す。町を彷徨い、お姉ちゃんの姿を求める。

 時間だけが過ぎていく。もう何時間も歩き続けているのにお姉ちゃんは見つからない。お姉ちゃんのことはなんでもわかっているなんてわたしの思い過ごしだった。

 世界から輝きが失われていく。

 世界から暖かさが消えていく。

「おねがいだから……」

 どうか、どうか。

「たいせつな」

 お願いだから。

「おねえちゃんを、たすけて……だれか、おねがい、おねえちゃんを……おねえちゃんをたすけて……」

「どうしたの?」

 目の前に、黒い傘を差したミソラさんが立っていた。なぜそこにいるのかなんて思い浮かばない。すがれるなら誰でもよかった。もう、わたしではどこにいるかわからないから。

「おねえちゃんを、たすけて……」

 嫌われていたっていい、口をきいてくれなくてもいい。お願いだからわたしからお姉ちゃんを奪わないで。

「おねがい、たすけて……」

 そのわたしの言葉を、ミソラさんは表情も動かさずに聞いていた。

「妹を嫌う姉なんて、どこにもいないわ」

 ぼそりとつぶやくように言うと、ミソラさんは手にしていた傘をわたしの方へと押しやった。

「早くお帰りなさい。遅くなるとご両親が心配するでしょう」

「でも、おねえちゃんが……」

「家で待ってなさい。彼女は必ず戻るから。大丈夫よ」

 有無を言わさない口調で、ミソラさんは傘をわたしに押し付けると、雨の中を走り去って行った。

「任せなさい」

 風に乗った小さな言葉がなぜか耳に残った。



■■ 対決

 冷たい手が肩に乗せられた。

 ガチガチと歯が音を立てる。それを止めようと身体に力を入れると全身に震えが伝わってしまった。

「どうやら入れ違いだったようね」

 凛とした冴えた声。顔をあげると、そこにカガミさんの顔があった。

 大きな丸い月を背負ったその姿は、初めてここで見たミソラさんに雰囲気が似ていた。

「ど、どうして、カガミさんが……?」

 カガミさんは答えてくれなかった。

「あ、あの?」

「立ちなさい。いつまでもそんなところに座っているものではないわ」

「は、はい」

 言われるまま立ち上がる。そんなあたしを見て、カガミさんは少しだけ笑ったみたいだった。

深空みそらゆいと一緒にいたのね?」

「うん、どうして知ってるの?」

 カガミさんはあたしから視線をそらすと、町を見下ろす。

「追っていたから」

「……おう?」

「けれど彼女は違ったわ。わたしたちには関係のない存在。むしろそちら側の世界に属している。だから狩る必要はないの」

「……かる?」

 カガミさんは無言でうなずいた。

「ど、どういうこと? っていうか、あたしが見たあれはいったい……」

 あの血に汚れた刀はなんだったのか?

「おそらくは彼女が殺人鬼。獲物は日本刀。部屋に――あったでしょう?」

 うなずく。あの重さはまだ腕が覚えていた。

「彼女は自分に妹がいるという言葉を残しているわ」

 たしかに、あたしにどれだけ妹さんを大切にしているかと話してくれた。けれどミソラさんの部屋には妹さんの写真は一枚として残っていなかった。

「でも、戸籍にそんな記載はなかった。彼女の近くにそのような立場になりそうな人物も見当たらない。となれば、妹と呼べるような存在は実在しなかったと考えることができる」

 なら、あたしが聞いた話は嘘なのか?

「ここからは推論になるわ。彼女は妹が夜にしか外へ出られないという言葉も残している。また殺人鬼としての行動は夜に限られていることから、そこになんらかの関連性を見出すことができる」

「あの……カガミさん?」

「殺人鬼に殺された人たちに関連性はない。あるとすれば、夜の犯行であること、深空結の行動範囲内で事件が起きていることぐらい。事実、過去の六件はすべて彼女の前の部屋から一キロ圏内で発生していた」

 でも、被害者に大切な人はいないって言っていた。それは裏返したら、大切ではない人ならいたということなんだろうか?

「彼女が転居してからあの町で事件は起きていない。彼女が来たこの町で事件が再発した。この時期、同じ場所からの転入届は他に出されていない」

 だから、どうだというのか?

「それから、最初の被害者は深空正行まさゆき――深空結の父親よ」

「う、うそ。だって、ミソラさんは大切な人は死んでいないって……」

「大切な人? なるほど。彼女にとって父親は大切な存在ではなかったということなのね」

 カガミさんの瞳が冷たく輝いた。

「本当はね、こんなことはしないのよ。わたしは――人間ではないもの」

「――っ」

 全身から力が抜けて尻餅をつく。

 もういやだ。どうしたらいいのか、なにが本当なのか、なにを信じればいいのかぜんぜんわからない。

 カガミさんは冷たい表情であたしを見下ろしている。

 差し出されたその手はどこまでも白かった。

 ただただ恐ろしかった。

 決して笑っていないその顔が。

 無言で差し出されるその手が。

 この夜の屋上で起きているすべてのことが。

 理解を超えた今の事態を受け入れることができないでいた。

 楽しく語り合っていたはずのビルの屋上が、たった一日で見知らぬ場所になってしまったかのよう。

 ガチガチという音が耳に届く。

 その音を自分の歯が立てていると、不意に気づく。

 まるであたしの周りだけゆっくりと時間が過ぎているみたいだ。

 目に映る景色、肌にあたる液体、触れているはずの地面……すべてに現実感がない。

 薄いカーテンがかかったように赤く染まる視界の向こうに、能面のような顔がある。

 決して笑わないその整った顔は、歪むことなくあたしのことをまっすぐに見つめている。

 まるで、このまま進むのか、ここで戻るのかと問われているかのようだった。

 その問いにかかっているのは、おそらくは命。

 熱いものが頬にあたる。

 これが夢だったらどんなに気が楽なのだろう。

 でも、腰が抜けたあたしのお尻はコンクリートの冷たい感触を伝えてくるし、赤い雨は降り続けてあたしの身体を濡らしていた。

 すべてが赤い光景の中で、彼女の右目だけが蒼く輝いていた。

「あかいあめ?」

 カガミさんの肩の部分から左手がなかった。付け根の部分から赤いものが勢いよくあふれ出ている。

 普通ならそれだけで気絶してしまいそうな傷を負ったカガミさんは、その細い眉を一つひそめただけでゆっくりと頭をめぐらした。

 その先に――ミソラさんが立っていた。あの血に濡れた日本刀を持って。

「驚いたわ。ここまで完全に気配を消すことができるなんて。いみでもそうはいない」

 カガミさんの言葉はあたしには理解不能だった。ミソラさんにもそれは同じだったらしく、血に濡れた刀の切っ先をカガミさんに向けたまま、彼女は赤い口を開いた。

「……あなた、何者?」

「わたしは、夜の世界を生きるもの」

「……わたしと同じね」

「そうかしら? 深空結――いえ、今は深空愛かしら」

 あたしの知らない世界で、あたしの知らない人たちが言葉を交わす。あたしの理解できない言葉を。

 ミソラユイ? それはあたしの友達の名前。

 ミソラアイ? それはいま刀をカガミさんに向けている人の名前。

 でもその姿はあたしの記憶の中の友達と同じもので――。

「よく知っているわね。その口ぶりだと、結の方はわたしを妹だと思い込んでるってことも知ってるのかしら? 同じ肉体に納まった、もう一人のミソラを」

 カガミさんは向けられている刀など存在しないかのように、地面に落ちていた自分の左腕を無造作に拾い上げると傷口を合わせるように押し付けた。まるでそうすることで元に戻るかのように。

「ええ。そうやってあなたたちが自分の精神バランスを保っていたこともね。だから最初に父親を殺したのでしょう」

「へえ、よくわかったわね。あの男はね、結に暴力を振るった。それで今にも結は消えてなくなってしまいそうだった。だから殺したのよ。生きるための当然の行為でしょ」

 そんなはずはない。奪っていい命なんてどこにもないと信じたい。

「そのとき愛という人格が生まれたわけね。よくその段階で捕まらなかったものね」

「警察は愚かだもの。彼らは同情しかしなかったわ。でも、あなたのような存在もあるのね。まるで出来のいい探偵小説の主人公のよう。差し詰め、わたしは追い詰められた犯罪者というところかしら? もっとも、そんな配役は覆させてもらうけど」

 そっとため息をカガミさんがついたのがわかった。

「気楽なものね。()()()()()()()()()()こともわからないだなんて。だからこそ脅威ではないし排除すべき対象でもない。本当は放っておいてもよかったのだけれど、彼女を心配している人がいたから首を突っ込ませてもらっただけ」

「彼女を」と言う時に、カガミさんはあたしの方をちらりと見やった。

「そう。優しいのね。でも甘いわ。夜の世界は弱肉強食の世界。狩る者と狩られる者しか存在しないのよ。当然、わたしは狩る側の人間。あなたのような甘い考えで夜の世界を生きていけるはずがない。だからここで終わらせてあげる」

 ミソラさんが微笑んだ。まるで慈母のように笑ったまま、彼女は一つの命を断ち切るべく刀を突き出した。

「そう」

 風が舞う。瞬き一つする間にカガミさんはミソラさんの背後に立っていた。

 左腕が高く上げられる。さっきまで彼女の身体から離れて、地面に落ちていた左腕が。信じられない光景に、ミソラさんの表情が恐怖に凍る。

「あなた、何者……!?」

 悲鳴のような問い。さっきは人に対するもの。でも今度のは。

「言ったでしょう。夜に生きる者だと。私は人ではない。人ならぬもの、人外の化生けしょうよ。宵闇を見通す目があり、岩を裂く鋭い爪がある。鋼を穿つ牙がある。私は、けもの。夜を駆け、あやかしを狩る。人狼と呼ばれる、けものよ」

 振り下ろされる左腕。

 ミソラさんの手からこぼれた刀が高い金属音を立てて地面に落ちた。遅れて、ミソラさんが崩れ落ちる。

「な、なにをしたの? まさか死んで……?」

「眠ってもらっただけよ。気配を消せて、刀を振るうだけの人間を殺すことはしないわ」

 カガミさんは濡れた髪をかきあげた。

「さぁ、あなたはどうするの?」

 まっすぐに見つめられて、あたしは返事を迫られた。



■■ 夜明け

「お姉ちゃん……よかったぁ」

 一日ぶりに家へ戻ったら、あゆみに抱きつかれて、おまけに泣かれた。父さんも母さんも、きっちり叱ってくれた。

 何事もなかったようにされるよりはずっとよかった。またこの場所へ戻ってこられたことを実感できたから。

 結末がないお話ほど落ち着かないものはない。だから、あたしの今回の話はちゃんと決着がついてくれたんだと思う。

 あたしは、ちゃんと家族と向き合わないといけない。あの夜に約束をしたのだから。


 翌日、学校へ行くと、二人はすでにいなくなっていた。

 お昼に屋上へ妹と一緒に行って、母さんが作ってくれたお弁当を食べた。思えば、二人で並んでお弁当を食べたのは久しぶりだ。

美空みそらさんにね、ずっと相談していたの。その……お姉ちゃんのこと」

「うん」

「美空さんはあたしの言うことをきちんと聞いてくれて、家族は大切なものだから大事にしなさいって言ってくれたんだよ。本当にお姉ちゃんが無事でよかった。全部、美空さんのおかげだね」

 あゆみはあの屋上での出来事を知らないし、きっと知る必要もない。あの夜のことは一生語ることはないだろう。

「そうだね。嘉上かがみさんには感謝しないと」

「うん」

 嬉しそうに、あゆみは笑う。

「いきなり転校しちゃったらお礼を言ってないんだよね。それだけが心残りかなあ」

「……嘉上さんが言ってたわ。『元気でね』って。でも、いつの間に嘉上さんと仲良くなったの?」

「えへへ、ナイショ。みんなが思っているより、美空さんっていい人だったんだよ。あーあー、せっかく友達になれたと思ったのになあ。それに、結さんも転校してきたと思ったらまたすぐ行っちゃって寂しいね」

「……そうだね」

 あゆみは深空さんとあたしが夜の町で一緒だったことを知らないし、言えるはずもなかった。

 あのあと、深空さんがどうなったのか知らない。嘉上さんに聞いたところで教えてくれなかったと思う。

「あの……ありがとね」

「なにが?」

「あたしを心配してくれて。あのときだってカッとなってひどいこと言って……ごめん」

「ううん、いいよ。あたしのほうこそ、お姉ちゃんの気持ちを考えてなかった。ごめんね」

 ああ、やっぱりあゆみはいい子だ。あたしのことをちゃんとわかってくれている、大切な妹だった。

 あのビルの屋上での別れ際に、嘉上さんが夜空を見上げてつぶやいた言葉をあたしは忘れない。

「妹を大切にしなさい――」

 寂しそうな声音が印象的だった。

 あたしは決して忘れない。

 覗き見た夜の世界のことを。

 少しの間だけ友達だった人たちのことを。

 あたしのことを大切に思ってくれている家族のことを。

 あたしは、忘れることはないだろう。


あとがきにかえて、キャラクターの設定を掲載しておきます。


村重(むらしげ)あゆち【人名/一般】

『人狼閑話~ある夏の、殺人鬼の話~』のメインヒロイン。あゆみの姉。この物語は基本的に彼女にまつわる出来事が中心となっている。

 嘉上美空が槻那見町に戻ってくる一年ほど前に席を置いていた高校に通っていたが、彼女とはあまり接点はなく、ただのクラスメイトといった間柄だった。

 美空と近い時期に転校をしてきた深空結と友達になったことから夜の世界に触れるようになる。


村重(むらしげ)あゆみ【人名/一般】

 あゆちの妹で年子。成績優秀な優等生でありながら姉思いであり、美空と友達関係にあった。


深空結(みそらゆい)【人名/一般】

 物語冒頭で転校してくる少女。あゆちは結との出会いによって夜の世界が存在していることを知る。

 成績は優秀、運動は得意(剣道の有段者)、性格はクールと三拍子揃った才媛。そのためにクラスから浮いている感はあるが、それすら気にしない孤高の人。

 父親に幼いころから虐待を受けており、自身を守るために二重人格者となって父親を殺害するに至る。以後、自己の平静を保つために殺人を繰り返すことになる。

 人間というカテゴリーからは逸脱していたが、夜属である美空に一蹴される。


深空愛(みそらあい)【人名/一般】

『人狼閑話』に登場する殺人鬼。結のもうひとつの人格。

 結はもう一人の自分のことを妹だと認識していたが、当然ながら妹など存在しない。こうした解離性同一性障害の場合、基本人格(結)は二次的人格(愛)の記憶を持たないことが多く、二次的人格はそれ以外の人格の経験したことをある程度記憶している場合が見られるのだが、深空の場合もこれに該当する。

 愛は父親の虐待を受け続けてきたため愛情に飢えており、独占欲が強い。


嘉上美空(かがみみそら)【人名/一般】

 あゆちたちの学校に深空結より先に転校してきた少女。『人狼奇譚~そしてぼくらは蒼い夜のうたをきく~』におけるメインヒロインだが、『人狼閑話』ではサブキャラクターとして登場する。滅び行く種族の人狼として幼い頃に覚醒し、〈銀〉という二つ名を持つほどの手練れ。

 長い黒髪の印象的な美少女だが、冷淡とさえ言える風情は他人を近寄らせない。夜属としての生活が長かったため、人間とは異なる価値観を持っている。


人狼【用語/夜属】

 狼が持っていた優れた特徴をほぼ備えている種族。耳はいかなる夜属よりも鋭く、鼻も利き、長い距離であろうと自動車と同等以上の速度で駆け抜けることができる。神速で動き、無限に近い再生力を持つ人狼は戦士として非常に有能である。

 忌を狩るのに最も熱心な種族だが、年々覚醒する者の数が減ってきており、種としての存続が危ぶまれている。

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