前編
■■ 夜の姫
差し出されたその手はどこまでも白かった。
ただただ恐ろしかった。
決して笑っていないその顔が。
無言で差し出されるその手が。
この夜の屋上で起きているすべてのことが。
理解を超えた今の事態を受け入れることができないでいた。
楽しく語り合っていたはずのビルの屋上が、たった一日で見知らぬ場所になってしまったかのよう。
ガチガチという音が耳に届く。
その音を自分の歯が立てていると、不意に気づく。
まるであたしの周りだけゆっくりと時間が過ぎているみたいだ。
目に映る景色、肌にあたる液体、触れているはずの地面……すべてに現実感がない。
薄いカーテンがかかったように赤く染まる視界の向こうに、能面のような顔がある。
決して笑わないその整った顔は、歪むことなくあたしのことをまっすぐに見つめている。
まるで、このまま進むのか、ここで戻るのかと問われているかのようだった。
その問いにかかっているのは、おそらくは命。
熱いものが頬にあたる。
これが夢だったらどんなに気が楽なのだろう。
でも、腰が抜けたあたしのお尻はコンクリートの冷たい感触を伝えてくるし、赤い雨は降り続けてあたしの身体を濡らしていた。
すべてが赤い光景の中で、彼女の右目だけが蒼く輝いていた。
■■ 転校生
夏を前にしているからではないと思うんだけど、最近のあたしのテンションは下がりっぱなしだ。
ようやくイヤな試験が終わったら、今度はその結果が返ってくる。別に頭を抱えるほど悪い成績じゃないにしても、特別に良いってわけでもない。その微妙な成績なのがまたあたしを憂鬱にするんだけど。
ガラリと扉が開くと先生が入ってきた。その後ろにはいかにもうちの学校の制服を着慣れていない風の女の子が一人付き従っている。どうやら彼女が噂の転校生らしい。
この時期に転校してくるのも変わっているとは思うけど、編入試験の代わりに受けた中間試験の結果はすこぶるよく、そのまま学年でひとつしかない特別進学クラスへの編入が決まったらしい。
うちの学校は勉強のできる子だけのクラスを作って、まるで製品かなにかのようによりよい学校へ生徒を送り出すということをしている。ようするに学校の箔をつけるためのモルモットみたいなものだ。
当然、クラスメイトではあってもライバル関係であり、友達づきあいっていうのはほとんどない。少しでもよい点を取って、他人を踏みつけにしてひとつでも順位を高くすることを競い合う、あまり救いのないクラスだと思う。なんで学校生活をこんなことに費やさないといけないのかと考えるとブルーになるので、あまりそういうことは考えないようにしている。
そんなわけで、このクラスに一人加わるという噂が流れるや、試験後だというにもかかわらずギスギスした雰囲気になっていた。単純にライバルが増えるということであまり歓迎ムードではなかったはずなのに、彼女が黒板の前に立った瞬間にクラス中から感嘆の息が漏れた。
美人だ。
長く美しい髪は濡羽色で、蛍光灯の明かりで艶艶と輝いている。
肌はまるで白磁のような滑らかさ。
前を見据える瞳は何ものをも見通すかのようなまっすぐさだった。
「……村重。村重あゆち!」
「は、はい!」
自分の名前が呼ばれていることに気がついて慌てて返事をする。
「試験が終わったからって弛んでるんじゃないぞ。次の実力考査も近いんだしな。お前の隣が空いているから転校生のこと面倒をみてやってくれ」
「えー、そんなのおーぼーだよ」
「前のときはお前の妹がやったんだからいいだろう」
そんなの理由になんないよ。ぶーたれてみたけど、それで決定が覆されるはずもない。
ふわりといい香りがしたので顔を上げると、隣の席に転校生が座っていた。
さっきまではクラスから明らかに浮いていたというのに、席に座った途端、まるで春からずっとそこにいたかのように溶け込んでいた。
「よろしく」
「よ、よろしく」
不思議な人だと思った。
■■ 月夜の出会い
「はぁ」
ため息をつく。家へ帰るのは気が重い。
家に戻れば試験の結果を母さんに言わないといけない。悪い成績ではないと思う。事実、クラスでも中の上に位置しているわけだからそう悲観したものじゃないはずだ。
ただ同じクラスに年子の妹がいて、その成績がトップクラスというのが問題なのだ。
当然、比較対照は妹ということになる。どう逆立ちしたって成績では妹にかなわないのはわかっている。それなのに試験の結果が返ってくる度にその優秀な妹と比べられたらたまらない。もう成績では勝負がついているんだから比べるだけムダなのに、それを母さんはわかってくれない。
妹のことを悪く思っているわけじゃない。ちゃんと勉強していればこその成績だし、あたしだって妹のことは好きだ。
それなのに、事あるごとに成績優秀な妹と比べられたらたまらない。息が詰まりそうになる。
母さんのいう「よい子」という枠からあたしは少しだけはみ出しているのかもしれない。でも無理やりその枠にはめ込まれると、あたしという個性が全部殺されてしまう気がする。
あたしという個性を守りたい。それができるのはあたしだけだろう。
「まあ、母さんの心配もわかるんだけどさ」
二人の娘を私立の進学校に進めることがどれだけ家計の負担になっているのかはあたしだってわかっている。だから頑張って勉強をした。二人で特別進学クラスに入れたことが誇らしかったし、母さんもとても喜んでくれた。それだけで充分だと思ってた。でも違ったらしい。
「これからどっしようかな~……あれ?」
目の端に見慣れた制服姿が入った。この時間にふらふらしているのはあたしぐらいなものだと思っていたんだけど違ったらしい。
「って、転校生じゃん。えっと……ミソラさんだっけ? まさか道に迷ったとか面白いこと言わないよね」
優秀な成績で編入してきた優等生が道に迷ってオロオロしているところを思い浮かべてあたしは笑った。
困っているなら声をかけて家まで連れて行ってあげようと思ったときには転校生の姿はすでになかった。どうやら道を曲がって路地へ入っていったらしい。
「ったく、世話が焼けるわね」
走って追いかける。この先はオフィスビルがあるぐらいであたしたちが利用するような場所はないはずだ。少なくとも健全な生徒には。
「もしかして本格的に道に迷ってるとか?」
慣れない町だと不安だろうし、やっぱり追いかけていって家まで送ってあげないとダメだろう。なにせクラスメイトなんだし。
転校生を追いかけて角を曲がったけれど、そこに後姿はなかった。
カンカンカンという小気味よい音に振り仰ぐと、そこにちらりと人影を見たような気がした。
「まさか非常階段をあがったの?」
あたしは足音をたてないようにそっと階段をあがる。なんだかいけないことをしているようでドキドキする。一番上まで上がるとかなりの高さだった。
普通ならカギがかかっているはずの屋上へと続く扉が細く開いている。
そっと右手でドアノブを握り、手前へ引く。
キィと甲高い、思っていたよりも大きな音がして肝を冷やした。
誰何の声はあがらなかった。
ゆっくりと屋上へと足を踏み入れる。
地上よりも少しだけ夜空が近くなったそこに彼女がいた。
大きな欠けた月が浮かんでいる。
冴え冴えとした輝きが彼女を照らしていた。
長く美しい髪が波を打った。
ゆっくりと彼女が振り返る。
表情はない。
まるで人間じゃないみたいだった。
近寄るのが恐ろしかった。
そこに立っているのが自分とは明らかに違う存在なのだとわかる。
彼女の視線にはまるで磁力でもあるみたいで、あたしは彼女の顔から目を逸らすことができなかった。
「こ、こんなところでなにをしてるの……?」
カラカラと乾いた喉が震えているのを自覚する。やけに自分の心臓の音が大きく聞こえた。
どれだけそうして見つめあっていたんだろう。
まるであたしなんかいないみたいに、ミソラさんはおもむろに顔を上げた。
つられるようにしてあたしも顔をあげる。
少しだけ地面より高いところに上っただけなのに、月がやけに大きく、綺麗に見えた。
こうして月を見上げるなんていつ以来のことだろう。
余裕がなくて、ずっと顔を上げることなんてしていなかったような気がする。
「あなたこそ、どうしてここへ?」
しばらく、それがあたしへかけた言葉だとわからなかった。
でも、なんてこたえればいいんだろう。
ミソラさんが迷子になっていると思ったから?
ミソラさんに町を案内してあげようと思ったから?
どちらも正しいようで正しくないように思う。
それ以上、何も問われなかったので、あたしは恐る恐るミソラさんの隣まで足を進めた。
さっきまでの違和感というか恐怖感はすっかりと失せている。
まるで月光浴をするかのような穏やかな時間だけが過ぎていった。
□□ 晴れた昼の屋上
そろそろ梅雨の時期に入ったせいで雨が降ったりすることが多くなってきた。ジメジメとして気持ちが悪いし、いちいち傘を差したり濡れたもの乾かさなければいけなくて、外に出るのが億劫だった。
だから晴れた日には外に出たくなる。じっと身を屈めて雨が通り過ぎるのを待っていたのだから、こういうときぐらい思いっきり背伸びをして太陽の光をいっぱい浴びていたかった。
屋上にはわたし以外にも何人かいた。きっと同じようなことを考えているんだろう。昼食時に外でお弁当を食べようっていう人は結構いる。
夏のにおいを含み始めた風が通り過ぎる。
黒くて綺麗な髪が、目の前で優しく踊っていた。
こうして太陽の光のもとで見ると、本当にミソラさんの髪は綺麗だった。陽光が艶艶とした髪にはねる様子を見ているだけで幸せな気持ちになれる。
ただし、黙々とパンをかじる美少女の姿というのはいただけない。せめてコンビニのお弁当ならまだしも、アンパンに牛乳ってのは理想像を破壊するには充分すぎるインパクトがある。
「ミソラさん、お昼はお弁当にしないの?」
「……時間がないもの」
「そうなんだ。でも、サラダとかも食べた方が身体にいいと思うよ」
ミソラさんは一人暮らしをしているって話だったのを思い出す。学校での勉強に部活、加えて家事まであったらお弁当を作る時間がなくても仕方ないのかもしれない。
「天気いいね」
前髪をくすぐっていく風に目を細める。
目に映る世界はキラキラと輝いているのに、どうしてわたしの気持ちはこんなにも沈んでいるんだろう。
進級したっていってもひとクラスしかないからクラスメイトなんてまず入れ替わらないので新鮮味がない。だからミソラさんみたいな転校生が入ってきてくれるのは刺激になるから純粋に嬉しかったりするんだけど。
「なーんかね、ここのところいい感じじゃないんだー」
具体的に自分がかかえているものを言葉にすることは難しかった。ただ口にすることで楽になる場合もあると思って、なんとなく言ってみただけだ。
「そう……」
ミソラさんは転校生にもかかわらず成績が優秀ってことで、目の敵にしている人も多い。全員がライバル状態なうちのクラスだからわからなくはないけど、それで友達づきあいができないほうが人間として問題があるような気がする。そもそも転校生が入ったせいで自分の順位が下がったっていうのはただの言い訳だと思うんだけど。
そういったわけで、クラスでもミソラさんに話しかける人はあまりいない。もっとも、ミソラさん自身はそういうのを気にしていないみたいで一人孤高を保っていたりする。それがまたカッコよくて凡人たちの嫉妬心を煽ったりしているんだろうけど、ミソラさんがそれに気がつくことはないんじゃないだろうか。
わたしがこうやってミソラさんに学校で話しかけるのは、彼女からすると迷惑なのかもしれない。それでも邪険にされるわけでもないからなんとなく隣に立って、同じ方向を見つめてみたりもする。
たぶん、わたしの中でミソラさんっていうのはあこがれなんだろう。
美人で頭がよくて、ちょっとだけとっつきにくそうな感じもするけど、本当は優しい人。
今だって、わたしの何気ない一言の続きを促すことをせず、ずっと待ってくれている。
「あたしも、よくわかんないんだけどね。ミソラさんはそういう不安感とかってないの?」
「ないわ」
きっぱりと前を見据えたまま。
そういうふうに言い切れてしまう強さにわたしは憧れているんだろう。
「ふーん、ミソラさんはすごいのね」
「すごい?」
ミソラさんにまっすぐ見つめられて、わたしの心臓が一つ高く脈打った。顔が赤くならなかったかと心配になる。
「うん、すごいよ。なんていうのかな、物事がよくみえているって感じ? あたしらぐらいのトシだったらさ、勉強のこととか、親のこととか、友達のこととかで悩んだりするじゃない」
なんだかひどく一般論過ぎて、それがミソラさんをがっかりさせてしまうのではないかと気ばかりあせる。
「あと、姉妹のこととかさ。どうしても比べられたりすると劣等感っていうのかな? そういうのが気持ちをもたげて落ち着かないっていうか……うーん、あたし、何が言いたかったんだろう? わかんなくなっちゃった。あはは……」
笑い声がかすれているのを自覚する。
「家族は大切にしなければダメよ。どんなことがあったって、最後に帰ることのできる場所は家族のいるところなのだから」
「うん……そうだね」
親元を離れて一人暮らしをしているミソラさんからすると、わたしの悩みなんてただの我がまま、贅沢なものなのかもしれない。
「わたしはやるべきことを決めているから迷わないだけよ。ただそれだけ。別にすごいことではないと思うけれど」
「あのね、それってすごいことなんだよ。それに気がついていないのってミソラさんだけだと思うなぁ」
きょとんとした表情がいつものミソラさんとは違ってかわいかった。
■■ いつもと違う夜の街
今日もまたミソラさんと一緒に月を見上げるためにビルの屋上に立つ。
雨が降る夜は外を出歩くことはしなかったけど、こうして晴れ間がのぞいたときは外をぶらぶらしてから屋上まで足を運ぶようになった。
ミソラさんは相変わらずあたしよりも先にいて、澄んだ瞳で月を見上げていた。
ここまであがってくると、町の音は遠くていつもいる場所とは違う世界みたいだった。
「うちの学校の夏服、結構、可愛いでしょ?」
「そうね。動きやすくていいわ」
「……そういう見方もできるかな」
この夜の町でミソラさんと言葉を交わせるのがあたし一人だというのがなんだか誇らしかった。
「うちの場合はさ、おんなじサイズを二つ用意しないとダメなんだけどね」
「妹さんの分ね」
「そ。二人とも運動しないもんだからスタイルまで似てるみたいでさー。そこんところは喜んでいいのか悲しむべきなのか微妙なところなのよね」
「でも妹さんのことが好きなのね」
「そりゃ、一人しかいない妹だもん。嫌いなはずがないじゃない。まあ、成績のことで比べられると正直きっついなーと思うんだけど、あゆみはいい子なのよ」
「何度も聞いているわ。そういった気持ちは大切だと思う」
「え、そ、そっかなぁ。あはは、なんかそういうのを面と向かって言われると照れるね」
どういう表情をしたらいいのかわからなかったので、あたしはとりあえず笑っておいた。我ながらなんともセンスのない受け答えだとは思う。
しかし、ミソラさんはさらりと恥ずかしいことを言ったりするので油断がならない。こっちがいくら心のうちを見せないように何重もの用意をしていようとも、するりと言葉が入り込んでくる。まるで魔法みたいだった。
「不満らしい不満っていうのもね、たぶん、ただのわがままだってわかっているんだよ。親だって苦労してあたしたちを私立の進学校に入れてくれたんだし、その期待には応えたいじゃない。だから、それなりに努力はしているつもり」
でも、どんなに頑張ったって超えられない壁があるのも事実だと思う。同じような勉強をしたって、あたしは妹の成績には及ばない。それだけは経験から得られた真実だと思う。
「塾にも行っているのでしょう?」
「うん、今のところは同じクラスだけどね。でも今度の試験でどうなるかな。あたしだけ今のクラスで、あゆみは上に行っちゃうんじゃないかなぁ」
「寂しいの?」
さりげない声で聞かれたおかげで、あたしは素直に返事ができた。
「置いていかれるのは寂しいかな。今までずっと同じように生きてきたからね」
「そう」
相変わらず月を見上げたまま。
「そんなに寂しいのなら、妹さんを連れてくればいいのに」
「できるわけないじゃない。あゆみは真面目に勉強してるんだもん」
「そうかしら?」
「んー、そもそも、こうして夜に出歩いていること自体、真面目なあゆみにとっては信じられないことかもしれないしね」
「優しいお姉さんなのね」
顔が赤くなったのがわかる。
「そ、そんなことないってっ。別にあたしは優しくないもん」
「そう?」
「そうなの!」
「じゃあ、そうしておきましょう。でも妹さんのことは大切にしないとダメよ。たとえどんなときでも姉は妹の味方でないといけないわ。たとえ、それ以外のすべてを敵に回したとしてもね」
「……うん、わかってる」
ミソラさんの言葉が胸に染み込んでくる。
それがなんだかあたしには嬉しかった。
□□ 雨の廊下
さあさあと静かな雨のカーテンが窓をぬらしている。空は厚い雲に覆われてどんよりとした色をしていた。こういう日は気分が滅入る。
トイレにでも行こうと思って廊下に出たら、窓の外をぼんやりと眺めているミソラさんを見かけた。
ちょっとだけ考えてから、ミソラさんの隣に立つ。クラスメイトの目があるところでこうして並ぶのは初めてかもしれない。
「どうかしたの?」
「雨が降っているから」
「そうだね」
薄汚れた窓ガラスにしずくがあたって、ゆっくりと滑り落ちていく。
「何かあったの?」
「別に――」
まっすぐにどんよりとした雲をにらみつけるようにしながら、ミソラさんはきっぱりと言った。そこには迷いとかそういったものは見られない。
「――変化がないだけだから。ここも外れなのかもしれないわね」
「変化? ハズレ?」
それは少し意外な反応だった。
「なんでもないわ」
「そうなの? でも珍しいよね、ミソラさんがそんなこと言うのって」
「そう?」
「うん。違ってたらごめんね。迷っているっていうより、いらだってる感じ?」
ミソラさんはきゅぅと眉根を寄せた。
「なんか上手くいかないからとか? あたしで力になれることなら言ってくれると嬉しいかな」
もっとも、たいしたことができるわけでもないんだけど。
「ありがとう。別にそういうつもりではなかったのだけれど。心配をかけたのだとしたらごめんなさい」
「あ、ううん。そんなの、ぜんぜん」
わたしは慌てて頭を下げるミソラさんの身体を両手で支えた。こんなところで優等生に頭を下げられても困る。
「少し、妹のことを考えていたから」
「妹さん?」
「ええ。先日、手紙が届いたから」
「そうなんだ。元気にしてるの?」
ミソラさんがうなずくと、長い髪が重たそうに揺れた。
「勉強もがんばっているみたい。母はあの子が生まれてまもなく亡くなったから、今は父さんと二人暮しをしているのだけれど、家事もちゃんとやっているって書いてあったわ」
そんなふうに話すミソラさんを見るのは初めてのことで、とても新鮮な感じがした。
「妹さんのこと、好きなんだね」
空を見つめていたミソラさんの視線がついと外れてわたしのことを見ていた。
「あの子を傷つけたくないもの。それに父さんも。二人を守りたいから、わたしは頑張れる。ただ、それだけよ」
「ふーん、ミソラさん、お父さんと妹さんのことが好きなんだね」
「なっ……」
面白いぐらいミソラさんの顔が真っ赤になってた。
■■ 殺人鬼の話
しばらくは雨が続いていたので夜のビルへ出向くことはなかったけれど、久しぶりに晴れてくれたので足を向けることにした。
ぱしゃぱしゃと水溜りを駆け抜ける足は軽かった。
誰の目にもつかない夜の町でミソラさんと会って話をすることが楽しい。ここ最近で一番のストレス解消法だった。
学校でも会えるけど、やっぱり人目を忍んで二人っきりで話すっていうのが刺激的なんだと思う。
屋上へ続くドアが細く開いていることを確認すると、あたしはゆっくりとドアノブに手をかけた。
ドアの枠に切り取られた世界は、ビルの屋上と、空と、月と、ミソラさんだけしか存在しない。
それは完璧な世界だった。
まだ地面は濡れているから腰はおろさないで、フェンスにもたれるようにして空を並んで見上げる。
話題はなんだってよかった。
学校のこと、勉強のこと、家族のこと、友達のこと。
ミソラさんが隣で聞いてくれているだけであたしは満足だった。
だから、この話題だってあたしからすればたいした意味があったわけじゃない。
「そういえばさ、ここのところ殺人鬼の話って聞かないね」
「……そうね」
「なんか怖いよね。いまどき辻斬りもないっていうのに」
ここ最近、巷を騒がせている事件がある。被害者はいずれも長い刃物のようなもので斬りつけられて絶命するというかなり猟奇的な事件だ。しかも一刀の元に切り捨てるんじゃなくて、まるで被害者が苦しむのを楽しむように致命傷にならない場所から順に斬り落としていくという惨たらしい殺し方をしているらしい。
あまりにも凄惨な犯行から、マスコミは大きく取り上げ、犯人には「殺人鬼」という名前がつけられた。
「もう六人だっけ?」
それも半年という短い期間に起きている。およそ一月で一人の被害者が発生している割合だ。
犯行現場はこの町からは少し離れていから他人事として事件の情報を見られるのだと思う。もしも自分の暮らす町で起きた出来事だったら、絶対に興味本位で話題になんてすることはできないだろう。
「昔ってそんなに物騒なことはなかったんだと思うんだけどね。なんだかこういう事件って気が滅入るよねぇ。犯人ってどんな人なんだろ? やっぱりヘンな電波受信しちゃったりしてるのかな?」
「……そうね」
「あ、こういう話題って嫌いだった?」
関係の希薄なクラスでもこの手の話題は上りやすかった。自分の成績にしか興味のない人も他人の不幸話は好きなものらしい。でもミソラさんはそういうのが嫌いなのかもしれない。
「好き好んで話す話題ではないと思うわ」
「そ、そっか。ごめん」
「いいのよ、別に謝らなくても」
あたしの心がすっと冷えた。ミソラさんに嫌われてしまったのかと思うだけで、今のあたしは臆病になる。
そっと隣に立つミソラさんの顔をうかがう。
そこにはいつものようにまっすぐに前を見つめる瞳があった。小揺るぎもしていない。彼女は世界が十秒後に滅びると言われても、きっと同じような瞳で世界を見つめ続けているような気がする。
「あ、あんまり他人の不幸を話題にするのってよくないよね。あはは……」
嫌われていないかもしれないけど、関心を持ってもらえないのも寂しかった。我ながら矛盾していると思う。
「そうね。でも、自分たちの身近な話題になるのだったら気になったとしても当然だと思うわ」
たしか、この前の事件は少し離れた町で起きていた。そういえば、その町でミソラさんは暮らしていたんじゃなかったっけ?
「あ、もしかしたらミソラさんの知り合いが……」
それに思い当たって言葉を濁す。
「いいえ、わたしの大切な人が被害にあったわけではないわ。それでも、あまり気持ちのいい事件ではないから」
「そ、そうだね。早く警察が捕まえてくれると安心して生活できるのに」
ミソラさんの瞳が翳ったような気がした。
「警察では無理かもしれないわ」
「ど、どうして?」
「警察は通り一遍の捜査しかしていないもの。それでこの事件の犯人が捕まるとはとても思えないわ」
「そうなの? 日本の警察って優秀じゃなかったっけ?」
そりゃ、汚職事件とか誤認逮捕とかってニュースは見聞きしているけど、それでも日本の警察はずっと優秀なものだと思っていた。
「もともと日本の警察が優秀だと言われていたのは検挙率の高さがあったからだけれど、窃盗などよりも重要犯罪に対して重きを置くようになった頃から検挙率が落ちているのは事実なの。ウェイトの減少した窃盗犯の検挙率は下がり、力を入れているはずの兇悪犯、粗暴犯の検挙率も下がってしまった。結果、日本の警察力が低下しているという事実にいきあたるのよ」
普段、新聞やニュースをみないあたしが知らないことをミソラさんはさも当たり前のことのように語ってくれる。
「じゃあ、殺人鬼は捕まらないの?」
「可能性は高いわね。ただ、治安自体が極端に悪くなっているわけではないのよ。その点では、日本はまだ安全な国だと言えるのかもしれない」
「で、でも、ミソラさんのそんな話を聞いた後じゃ安心できないよ」
ミソラさんは少しだけ眉根を寄せた。
「ごめんなさい。怖がらせようと思っていたわけではないのよ」
「あ、ううん。別にミソラさんが悪いわけじゃないから気にしないで」
あたしの気持ちが通じたのか、ミソラさんの表情がいつものようになった。美人の憂えた顔っていうのも綺麗だとは思うけど、やっぱりいつもの泰然自若した表情のが安心できる。
「ミソラさんって、いろいろと詳しいんだね」
「そうね。こうして夜の町を歩き回ることが多いから、情報はなるべく入手しているため……かしら」
「そういえば補導されたこととかないの?」
くしゅりとミソラさんが笑う。
「幸いにして今までなかったわね。もっとも、そんなドジを踏むつもりはないけれど」
「そうだよね。なんか、ミソラさんってそういうの得意そう」
あ、でもこれって褒めてないかも。
「ありがとう。夜の世界には夜の世界のルールがあるの。それに従っていれば生きていくのは容易いわ」
自信に満ちた笑顔だと思った。
■■ 夜への扉
塾が終わって外に出ると雲がすごい勢いで流れていた。雨雲も風に流されたらしい。地面は濡れているけれど、雨が降り出すことはなさそうだった。これならいつもの場所へ行けばミソラさんに会えるかもしれない。それを思うと少しだけ気持ちが楽になる。
「お姉ちゃん」
「……なに?」
振り返った先に、あたしの顔があった。
塾は学校帰りに寄るから制服のままだ。当然、あたしも同じ格好をしている。
「あのね、あんまり夜に出歩かないほうがいいと思うんだ。その……お母さんも心配してるし」
「母さんが心配しているのはあゆみの成績だけでしょう?」
目の前にあるあたしと同じ顔が傷ついたような表情をした。ざわざわと心が騒ぐ。
「そんなこと、ないよ。お母さんはお姉ちゃんのことを心配しているから。そんな悲しいこと言わないで……」
語尾が震えて涙声になっていた。
あゆみはもともと思っていることをはっきり言えないで、自分の中に抱え込むタイプの子だった。だからだろうか、幼い頃のあゆみはよく泣いた。
あたしだって好き好んで妹を泣かせたいわけじゃない。でも、どう考えたって母さんはあゆみを大切にしている。それは一緒に育ってきたからこそわかることだ。
たしかに幼い頃は同じように愛情を注いでくれていたと思う。もしかしたら、おとなしかったあゆみよりも、好奇心旺盛であちこちふらふらと歩き回っていたあたしにより多く気にかけてくれていたかもしれない。
でも今は優秀な妹が気にかかるに決まっている。だから、あゆみはきっと母さんの自慢の娘のはずだ。
「別にあたしに気を使わなくってもいいって。あゆみが頑張れば母さんは喜ぶ。面倒を背負わせて悪いけどよろしくぅ~☆」
「まって! まってよ、お姉ちゃん!」
「なに、まだなんか用があるの?」
怯んだように、あゆみは息を呑んだ。
「あ、あのね。お母さんに謝るんならあたしも一緒に謝るから……」
「なんであたしが謝んないといけないのよっ!」
自分でもこんな大きな声が出るんだと思ったぐらいだった。
通りを歩いていた人たちがいっせいにこっちを見たのがわかる。
「ご、ごめんなさい……あの、でも……」
あたしはあゆみの顔を見られなくて走り出した。その場にいたら罪悪感でつぶれてしまいそうだった。
あゆみに悪気があったわけではないのは、今までずっと一緒に生きてきたからよくわかってる。
それなのに、あたし一人が悪いように言われて感情を抑えることができなかった。母さんの愛情がもらえないことを子供が謝る必要はないのに、それが謝ってさも当然といわんばかりのあゆみに我慢ができなかった。
今になって思えば、あゆみがそんなことを考えていたわけじゃないことはわかる。あの子は本当にあたしと母さんのことを考えてくれた上でそう提案をしてくれたはずだから。
あのあと、あゆみは泣き出していたに違いない。ずっと、あの子は泣き虫だったから。
いつからなんだろう。泣き虫だった妹を守れなくなってしまったのは。
駆け続けて息があがり始めた頃、いつもの場所にたどり着いた。重くなった足を引きずって階段をあがっていく。
いつもならここへ来るたびに楽しくなれるのに、なぜだか今日はそんな気持ちになれなかった。
理由は、やっぱり妹を泣かせてしまったからだろうか。あのときのことがひっかかっていて、そんな気持ちでミソラさんに会うことが後ろめたいんだろうか。
大切な妹を泣かせる姉だなんて思われたくはなかった。
スチール製の扉の前に立つ。
いつもならあたしをいざなうように少しだけあいているはずの扉がぴったりと閉ざされていた。
ドアノブに手をかけてひねってみたけど、ガチリという硬質な音がするだけでまわすことはできない。
あきらめ悪く何度かひねってみたけど結果は変わらなかった。
この扉の鍵はかけられたままだという、そんな当たり前のことに気がつくまでにずいぶんと時間がかかる。
会うのが後ろめたいなんてさっきまで考えていたはずなのに、いざ会えないとなると悲しい気持ちになるのはなぜだろう。
背中を扉にあてたまま、ずるずるとしゃがみこむ。うつむいているとどんどん自分の気持ちが沈んでいくのがわかる。
あたしは、どうしたらいいんだろう?
あたしは、どうしたいんだろう?
考え込んでいても仕方がない。
今はまず、ミソラさんに会って話をしたい。そうすればきっとあたしの気持ちは晴れてくれるはずだ。これまでだってずっとそうだったんだから。
でも、よく考えたらあたしはミソラさんが普段どこへ行くのか知らない。会ったことがある場所なんて、学校かこのビルの屋上だけ。しかもここでは夜の町を見下ろしながらどうでもいいことしか話したことがない。それも雨の降っていない日に限られる。
なんだかそれは、約束することのない約束事だったようにも思える。お互いが信頼しているからこそ成立する関係。そんなものあたしは安心し、気をもんでいたのだろう。
だからこそ、一方的にその約束事を破るようなことはしてはいけないようにも思う。その一線を踏み越えてしまうことで、あたしたちは何か大切なものを失ってしまうんじゃないだろうか。それが少しだけ怖い。
それでも、あたしはミソラさんに会いたかった。顔を見たかった。話をしたかった。
今の自分がとても不安に思っていること。母さんとの関係。大切な妹を泣かせてしまったこと。そんなことをすべて言葉にしてミソラさんに聞いてもらいたかった。
迷惑な話だとあたしも思う。でもミソラさんならあたしの話をじっと最後まで聞いてくれるんじゃないかって気もする。
そんなことを考えながら、ミソラさんの暮らしているあたりへ行ってみることにした。ここからならそれほど遠くはない。
あたしが生まれ育ってきたこの町は、活気があるというほどでもないし、妙に寂れているという感じでもない。他の土地で生活をしたことがないから、こんなものなんじゃないかとしか思えないような町だ。
駅前まで出れば欲しい物はだいたい手に入ったし、町の中心を外れれば住宅街になる。ミソラさんの暮らす場所もそんな一角にあるはずだった。
今日はなんだか街灯が暗いような気がする。ミソラさんが日本の治安はそんなに悪くなっていないって言っていたけれど、こうして暗い道を歩くのは気味が悪い。
陰となったところから不意に何かが姿を現すんじゃないかって気になる。街灯の光があるからこそ、そうした陰がより濃くなるんだろう。
自分以外の足音が聞こえて身がすくむ。そんな自分が滑稽で笑いがこみ上げてきた。
ミソラさんも極端に治安が悪くなったとは言ってなかったじゃない。もっとも、なんでもかんでもミソラさんを基準にして考えるのはよくないことなんだろうけど。
「きゃっ」
気にしないで路地へ入ろうとしたところで人にぶつかってしまった。
足元がヌラリとしていたのでどこか怪我でもしたんじゃないかと身体のあちこちをさすってみるけど特に痛いところはなかった。
いつまでも座り込んでいるとお尻が冷たい。雨はやんでいるとはいえ、まだ地面は濡れている。
「ねぇ、怪我なかった?」
ぶつかった相手はうちの学校の制服姿だった。
「ミソラ……さん?」
これまで夜の世界で見とれてきた凛とした瞳はそこにはなく、ただうつろな色をしているだけだった。
「ちょっと、ミソラさん! ミソラさんってば!」
触れてみて初めて気がついた。ヌルリとした感触の正体はミソラさんの身体についた液体だった。
「こ、これって……血?」
よくよく見ればミソラさんは赤いシャワーでも浴びたみたいだった。
「ど、どうしたの? どうしたのよっ!?」
ガクガクと身体を揺すると、ミソラさんの瞳に色が戻った。そこであたしに初めて気がついたらしい。
「あ、だい、じょうぶ……」
「ぜんぜん大丈夫じゃないよ! いったい、何があったの? ミソラさんは怪我ない?」
「ええ、わたしは平気よ。平気だから……」
平気平気と繰り返すミソラさんをそのままにできるわけもない。
「びょ、病院に行ったほうがいい?」
「本当に大丈夫だから。わたしのほうはなんともないのよ」
「だって、こんなにいっぱい血がついてるじゃない! 大丈夫って言われても信じられないよ!」
ミソラさんは自分の制服を見てようやくどんな状態なのかを把握したらしい。
「ああ、これはわたしの血ではないから」
「じゃあ、誰の?」
「さあ? わたしの知らない人だったから」
なんだか会話がかみ合っていないような気がする。
「ともかく、ミソラさんは大丈夫なんだね? 身体のどこも怪我してないんだよね?」
「ええ、大丈夫よ」
「いったい何があったの?」
「わたしにもよくわからないわ。でも、あの人はもう亡くなったんじゃないかしら?」
「亡くなったって、死んじゃったの? いったい誰が?」
「……わからないわ。わたしの知らない人だと思うから」
このままだと埒が明かない。なにより血まみれのままおいて放っておくなんてできない。
「ねえ、ミソラさんの部屋ってこの近くなんでしょ? とりあえず戻らない? 制服だって洗わないとダメだし」
「ええ、そうね。そのほうがいいかしら」
足元に落ちていた道具袋を持ってあげることにした。かなり重い。そういえば部活帰りのときはいつもミソラさんが肩にかけていたことを思い出す。
「いこ」
無言でミソラさんはうなずいた。
ミソラさんがシャワーを浴びている間に、あたしは血に濡れた制服をどうにかしようと台所で悪戦苦闘を続けていた。
上着は洗ってもムリそうだったので、ミソラさんに相談した上で処分することにした。ソックスとかはそんなに汚れていなかったけど、スカートはかなり広範囲に血がついている。
とりあえず、せっけんをつけて叩くようにして血が落ちないかやってみたら、それなりに色が薄れたみたいだった。
いったい、どうすればこんなふうになるんだろう。まるで返り血でも浴びたみたいだ。
シャワーからあがってきたら聞いたほうがいいんだろうか。でもミソラさんもショックを受けていたみたいだし、あえて聞かないほうがいいのかもしれない。
作業が一段楽したところでキッチンの隣にある部屋を覗いてみた。
コタツ机が真ん中にあって、お布団は隅に畳んでおいてある。その隣には衣装ケースが三段とハンガーが並んでいる。あとは小さなカラーボックスに教科書とか写真を収めたアルバムが入っているだけの本当に殺風景な部屋だった。カラーボックスの上にはフォトスタンドが置いてあるけど、飾り気がなくてとても女の子の部屋とは思えない。
奥にも部屋があるけど、そっちには入らないで欲しいって言われたので気にしないことにした。友達だからって踏み込んでいい場所と悪い場所があるのは、あたしにもわかる。
そんなことをうだうだと考えていたら、ミソラさんがシャワーを終えて出てきてしまったらしい。
スカートについていた血はだいたいとれたので、あとはこれを洗濯機にかけるか、クリーニング屋さんに持っていくかしかない。でもこれ、クリーニングに出したら絶対に不審がられると思う。
どうしたらいいのかあたしじゃわからないからミソラさんに聞いてみようとお風呂場へ続くドアをノックしてみた。
「どうぞ」
「あのね、スカートなんだけど――」
姿見の前に立って、ミソラさんはバスタオルで髪の水気を取っていた。……その、裸で。
同性から見ても綺麗だと思えるスタイルのよさは背中からだというのにわかってしまう。
白熱球によって照らされる白い肌はシミ一つない滑らかさ。肌触りを想像しただけで身体が震えるほどの歓喜を呼び起こす。上気した肌の上を水滴が滑り落ちるさますら、彼女のスタイルのよさを強調しているかのようだった。
見てはいけないとは思いつつ、視線を外すことができない。まるで吸い寄せられるようにちらちらと見える柔らかそうな大きくて丸い胸や、腰からお尻へとなだらかに続くラインをなぞってしまう。
「どうしたの?」
鏡の向こう側にいるミソラさんに問いかけかれてようやくあたしにかけられた呪縛が解けたらしい。
「あ、あのね。スカートの汚れはだいたいとれたと思うんだけど、クリーニングに持っていったほうがいいのかな?」
自分でも声が上ずっているのがわかる。顔だって赤い。
「ありがとう。見せてくれる?」
くるりと振り返るミソラさんを正面から見る勇気はなかった。うつむいて、まるで卒業証書をもらうみたいにしてスカートを差し出す。
「綺麗に落ちたのね。ありがとう」
「う、ううん、別にいいんだよ、そんなこと。あたしにできることなんてそんなにないし。あはは……」
「そんなことないわ。とても助かったもの」
「そう。ならよかった」
ミソラさんが喜んでくれるのは嬉しいけど、その、いくら女同士でも胸とかそういうところは隠しておいて欲しい。
「あ、あのね、せめて下着とかつけてくれないかな。恥ずかしくてどこ見ていいのかわかんないから……」
「あ、そうね。ごめんなさい。部屋ではいつも服を着ていないからクセになってて」
そういう趣味っていうか主義の人がいるって話は聞いたことがあったけど、まさかミソラさんがそうだったとは思わなかった。
下着を身に着けるところをジロジロ見ているわけにもいかないで、あたしは部屋に戻る。
お風呂場でスウェットの上下に着替えたミソラさんは、二人分の温かいお茶を入れてくれた。
しばらく無言のまま時間が過ぎる。コチコチと秒針が時を刻む音だけしかしなかった。
ゆるく立ち上っていた湯気が消える頃になって、ようやくミソラさんが口を開いた。
「――たぶん、殺人鬼だと思うわ」
唐突に沈黙を破った言葉は、おそらく一番聞きたくなかったものだった。
「その、ミソラさんが襲われたの?」
「いいえ、わたしが通りかかったときにはすでに終わっていたんじゃないかしら。襲われた人がわたしに抱きついてきたから制服が血まみれになったのよ」
たしかに、それならあの汚れにも納得がいくように思う。
「……犯人の顔は見たの?」
「残念だけれど。抱きつかれたせいで動きがとれなかったし、すでに他の気配もなかったからあそこにはいなかったかもしれないわね」
「でも、どうしよう?」
「なにが?」
「だって、殺人鬼がこの町にいて、被害者が出たんでしょう? なら警察に言わないとっ」
「……そうね。それがいいかしら?」
どうして、ミソラさんはそんなにも落ち着いていられるんだろう。話を聞いているだけのあたしはこんなにも動揺してしまっているというのに。
「でも、警察に捕まえられるとは思えないけれど」
ミソラさんはそう言うけど、こんなのはあたしたちの手には余る。さっさと警察に話してあとのことは任せてしまったほうが絶対にいい。
それに、犯人がミソラさんの顔を覚えてて、口を封じるために襲ってくることだって考えられる。今にも扉が開いて得体の知れない殺人鬼が部屋に入ってくるんじゃないかと妄想してぞっとする。
「やっぱり、警察に言った方がいいよ。口封じにきたら怖いじゃない」
「その可能性はとても低いと思うわ」
「でもでも、気味が悪いでしょ? あたし、イヤだよ。怖いもん」
「そうね……でも、わたしたちは現場から逃げるように部屋まで来てしまったから、逆に犯人だと思われてしまうかもしれないわよ」
「そんな! あたしはやってないし、ミソラさんだってそうでしょう? 警察に保護してもらおうよ」
「わかったわ。とりあえず明日になってからにしましょう。お互いに気持ちが落ち着けばいいアイディアも浮かぶかもしれないし」
「う、うん……そうだね」
「お茶のおかわりは?」
「あ、お願い」
熱めにいれてもらったお茶をすすりながら気持ちを落ち着ける。
もしかしたら死んでしまった人を見たはずなのに、隣でお茶を飲むミソラさんには見た目の変化がまったくない。
どうしてこんなにも落ち着いていられるんだろう。こうしてミソラさんから話を聞いただけでも、あたしはまともな思考ができていないのに。グラグラと気持ちが揺れて、どこへその気持ちの高ぶりを持っていけばいいのかさっぱりわからない。
「そういえば――」
湯飲みを机においたミソラさんがあたしを見つめた。
「今日はどうするの? これから帰れる?」
時計を見るともうすぐ日が変わるような時間だった。無断でこんなに遅くまで外出していたことはないから、きっと家族も心配しているだろう。本心を言えば今すぐにでも帰りたかった。
「よければ、うちに泊まっていってもいいのよ」
「あ、うん――」
魅力的な提案だった。
正直、また夜の町に出て行くだけの勇気はない。もしも道端で殺人鬼に出会ってしまったらどうしたらいいだろう。それを考えるだけで身体が震えだしてしまう。
「でも、どちらにしても電話で連絡をしておいた方がいいわね」
「あのね、悪いんだけど、今日は泊めてもらえる?」
「ええ、構わないわよ。ただ、お布団は一つしかないからわたしと一緒に寝ることになるけれど、それで構わない?」
「うん――ごめんね。うちには後で連絡をしておくから」
「きっと、妹さんが心配しているわ」
「そうだね……」
なんとなくミソラさんに自分の気持ちを悟られたくなくて視線を逸らしてしまう。
「じゃあ、今日はもう休みましょうか。汗をかいているならシャワーを使って。下着は新品のを出しておくからね」
「あ、ありがとう」
さすがに一人暮らしをしているだけあって、ミソラさんはこういうところもしっかりしている。
あたしはお言葉に甘えることにして少しぬるめのシャワーを浴びさせてもらった。今日は走ったりして汗をかいていたから気持ちがいい。おかげでモヤモヤとしていた気持ちが少しだけ引き締まってくれたようにも思う。
新品の下着をビニールから出して身に付ける。いつもとはちょっと違うデザインなので少し落ち着かない。おまけにミソラさんが選んだものだと思うとどきどきしてしまう。
髪を乾かしているときにふと思い出した。下着はいいとして、今日のパジャマはどうしたらいいんだろう? さすがに制服を着て寝るわけにもいかない。
「ねえ、ミソラさん」
すっかり寝る準備を整えていたミソラさんはすでに布団に横になっていた。
「何かしら?」
「あの、パジャマがないんだけど、どうしよう?」
「そのままでいいんじゃないかしら?」
いや、そのままってパンツしかはいてないから困っているんですけど。
よくよく見たら、ミソラさんがさっきまで着ていたスウェットはきちんとたたんで部屋の隅に置かれていた。ということは、あの布団の下のミソラさんは「いつもの」格好になっているということになるんだろう。
「さあ、もう休みましょう」
あたしは胸を隠すようにしてするりと布団にもぐりこんだ。すでにミソラさんの体温でほんのりと温かい。
「じゃあ、おやすみなさい」
パチリと明かりが落とされる。
すぐ隣で裸のミソラさんが寝ているという事実にあたしは混乱していた。寝息に耳をそばだてる。わずかな空間の先にある身体の発する熱を意識する。
今日はなかなか寝付けないだろうと思いつつ、あたしは目を閉じた。