Ⅸ 再会
蓮と別れ、一人いつもの道を歩いていた八重は、ふと足を止めた。前方に、見覚えのある姿があったからだ。
「あなた、あの時の……」
全身黒い姿、冷たい顔、大きな鈍色の鎌、そして白い翼。しかし、蓮がトワと呼んだあの娘ではない。あの時……近所で大きな事故があった時、トワと一緒にいた娘だ。不思議な事に蓮には見えなかったらしいから、この少女の姿を見たのは八重だけということになる。目の前に現れた死神の無表情の異様な迫力に気圧されそうになったが、八重は強気に微笑んだ。
「今度はあなたが、私の命でも取りに来たの?」
少女は八重としっかり視線を合わせたまま、平坦な口調で答える。
「違うけど。」
「なら良かった。私はまだ死にたくないもの。」
心底ほっとして答える八重を、天使は不思議そうに見つめた。
「あなたみたいな人間も珍しい。見えないフリするでもなく、怖がりもしない。」
その目は思いのほか優しい光を宿していて、八重はちょっと意外に思ってまじまじと見てしまった。こうして見ると、なかなか綺麗な顔立ちをしている。笑ったらきっと美人だろう。――しかしそんな八重の様子に少女が微かに戸惑った様子を見せたので、八重は肩をすくめてさっきの問いに答えた。
「残念ながら、見えるのには慣れちゃってるの。今さら怖くもないわ。」
軽い調子で言ったのが気に入らなかったのか、少女の顔がやや厳しくなった。忠告するような口調で言う。
「あまり私たちと関わると、命を減らすことになる。」
「ご心配なく、特に関わりたいとは思ってないから。どっかの物好きな男と違ってね。」
冗談半分にそう付け加えると、さっきまで僅かな表情の変化しかなかった少女の顔色が明らかに変わった。ハッとしたように唇を噛む。けれど何も言わずに、八重に背を向けた。
「何の用だったのよ?」
八重は口を尖らせてその背に問い掛けた。
「あなたに用があったわけじゃない。ここに来たのは、仕事のため。」
少女は振り向かずに答える。その口調の冷たさに、もう相手はしてくれないと悟った八重はやれやれと肩をすくめて言った。
「はいはい。あなたの邪魔はしないわ、死神さん。」
と、少女は不意に空を仰いだ。今まで必要な事以外一切喋らなかったのに、独り言のように呟く。
「今回、私はただのサポート。あの男がからむと、あの子は動揺するから。」
「蓮が……?」
この口ぶり、‘あの子’というのはトワのことだろう。だとしたら、‘あの男’は蓮に違いない。八重は驚きに目を見開く。彼の身に、何かが……? 天使は黙って右手を上げ、指差した。その先に、二人の姿があった。
前方に黒い姿が見えて、蓮は足を止め、目を上げた。思ったとおりの相手だと知って、蓮はちょっと微笑んだ。
「久し振りだね。」
白い翼の少女、トワは、深く俯いたまま返事をしなかった。その表情は長い黒髪に隠され、透かし見ることも出来ない。蓮は彼女からふっと目を逸らし、空を見上げ、なんでもないような調子で呟いた。
「あれから、もう一ヶ月だな。」
大鎌を握り締める白い手が、ぴくりと動いた。空を見上げる蓮は、気付いた様子もなく続ける。
「早苗は、どうしてる? もう天国とかに行ってしまったんだろうか。」
答えを期待しているように、ゆっくりとトワに視線を戻した。彼女の長い服の裾と髪が、風の所為ではなくふわりと揺れる。やがて蚊の鳴くような声で返ってきたのは、彼の予想と違う言葉だった。
「……まだ、行けてない。」
「え?」
目を見張る蓮。トワはやっと顔を上げた。告げることを躊躇うように唇を噛み、瞳は激しく揺らいでいる。
「ここから離れられないでいる。あなたの所為で。」
「俺の、所為?」
「そう。あなたを心配してる……」
言葉はかすれ、聞き取れないほど小さくなって消えた。重い余韻。蓮は考え込むように黙ったが、再びうつむいてしまったトワを見て、一歩だけ歩み寄る。そして、明るい笑顔を見せた。
「ありがとう、教えてくれて。早苗にも伝えてくれないかな。俺は大丈夫だって。」
トワはしばらく黙り込んでいたが、やがて顔を上げてゆっくりと頷いた。蓮は思わずそっとその肩に触れる。天使はびくりと身を震わせたが、少年の大きな手の温かさが優しくて、払いのける気をなくした。
「ありがとう。君に会えて、良かったよ。」
心の底から発せられた言葉が、胸に刺さる。痛い。彼の言葉が……この温かさが、なぜか堪らなく苦しい。トワは歯を食いしばって、肩に置かれた手を振り払った。蓮の顔を睨みつける。
「あたしは、死神なのよ? 人間の命を取る存在。死にたくなければ、もうあたしに近づかない事ね。」
どんなに力を入れても、声の震えを抑える事が出来なかった。彼の応えも聞かず、背を向け、逃げるように立ち去る。そうしないと、睨むことで押さえつけていた雫が、目からこぼれるのを見られてしまいそうだったから。
(どうして……どうして、こんなに胸が痛いの? あたしが、あたしではなくなってしまう。自分を制御することが出来ないなんて、どうかしている。)
この不安定な思いを人間は恋と呼ぶのだと、天使は知らなかった。
まっさらな白の中、ひとつの黒い点のように、黒い服に長い黒髪の天使が座り込んでいた。深く俯いていて、顔も見えない。純白の翼が、その小さく震える身体を覆い隠すように包んでいた。何かを押さえつけるように片手を強く胸に当てたまま、天使は、銅像か何かのように動かなかった。
そこに現れた、もう一人の黒い天使。さっきまで八重と会話していた娘は、座り込んでいる仲間にやはり平坦な口調で声をかけた。
「この町に来るのは久し振りね。……どうかした?」
声をかけても相手が何の反応も示さなかったので、彼女は珍しく疑問口調で付け足す。すこし間を置いてから、銅像のように座り込んでいた少女はやっと動いた。顔を上げて仲間を見つめ、人間の少年にトワと呼ばれた天使は聞き取れないほど微かな声で答えた。
「いいえ、別に。」
「そう。」
しばらく、会話が途切れる。座り込むトワの脇に立ったままの少女は相変わらず無表情だったが、再び口を開いた口調には相手を気遣っていると言えなくもない柔らかさがあった。
「あのね、私たちは人間が思ってるような偉いものじゃないの。それくらい分かってるでしょう?」
トワはしばらく答えなかったが、しぶしぶ認めた。
「……分かってる。」
「それならいい。」
少女は言い、人間のような仕草で仲間に手を差し出す。その手を取って立ち上がるトワを不思議そうにしげしげと見つめた。
「あなた、変わったね。」
「そう?」
きょとんとして聞き返すトワに、彼女は頷いた。
「そんなふうに顔を動かして……まるで人間みたいに。」
トワははっとして、とっさに自分の顔に手をやる。彼女たちは鏡を見たりはしない。けれど確かに、トワは自分が様々な表情を出すようになってきたのに気付き始めていた。以前はずっと顔を動かすことなどなかった、凍てついたように出来ないとすら思っていたのに。今はもう、意識しなければ自然に出てしまう。そう、まるで人間みたいに。
「人間みたい……?」
言われた言葉をただ繰り返す。口にすることで、よけいに戸惑いを感じた。そんなトワに、少女は冷ややかに言った。
「とにかく、仕事はちゃんとやらないと。」
「分かってる。大丈夫よ。」
トワは答えて、小さく唇を噛み締めた。自分がいつも使う大鎌を手にとる。これからすることを考えた時、なぜかまた胸がちくりと痛んだ。慌てて、思いを頭から追い出す。
二人の天使は、連れ立って地上へと降り立った。