Ⅷ 時、流れ
夏が過ぎ、暦の上ではとっくに秋。しかしいつまで経っても涼しくならない日が続いている。残暑というより、まだほとんど夏のようだ。でも風は確かに少しずつ涼しくなってきていて、秋の予感がする。少しでも風を取り込もうと窓が開け放たれた教室は、今日も賑やかだ。
忘れ物でもしたのか小走りで自分の教室に飛び込んだ歩美は、窓際の席に見知った顔の集団がいるのを見て呆れ返ったような声を上げた。
「……なんで先輩方までうちの教室に大集合してるんですか。」
そこにいたのは由依、陽子、康平、爽太、光の五人。同じクラスの由依と康平、隣のクラスで歩美や由依とは仲が良い陽子はともかく、先輩である二人も時々は蓮も含めて最近よくこの教室に居座っている。光は素早く、最近のターゲットであるらしい歩美にキザな笑顔で手を差し出した。
「歩美ちゃんにも会いたかったからね。」
「冗談。」
歩美はその手を軽くスルーして陽子の後ろに回る。大げさに傷ついた顔をしている光をあくまでも無視して、彼女の意中の人の名を口にした。
「そんな事より、蓮先輩知りません?」
「お兄ちゃん? さっき、八重先輩と一緒にいたけど。」
由依が答える。陽子がさっそく冷やかした。
「なになに? まさか歩美ちゃん、告……」
「ち、違うわよバカ!」
そんな風にふざけ合っているのを眺めていた康平が、肩をすくめて口を挟んだ。
「歩美、蓮先輩はダメだよ。やめた方がいい。」
「えっ、康平、どうして?」
聞き返した陽子に、爽太が答える。
「早苗ちゃんだよ。あいつの頭にはまだ、ほかの女の子の入る余地はない。」
「そっか……って、私別にそういうつもりじゃありません!」
真っ赤になった歩美の様子が、「そういうつもり」であることを示してしまっていた。
「もう、一ヶ月になるのにな。」
笑い声が消えた頃、光がぼそっと呟いた。少女たちは頷いて、隣の座席に目をやる。早苗が使っていた机には、まだ花が飾られていた。一ヶ月は、長いようで短い。
「早苗は、幸せだな。こんなに想ってもらえるなんて。」
由依が独り言のように呟く。誰も何も答えなかったけれど、沈黙だけで同意を表した。しんみりした空気を打ち破ろうと、陽子がふざけた調子で歩美の肩を叩いた。
「残念だったね、歩美。」
「は? だから違うって言ったじゃん!」
笑い声が再び起こる。誰も見ていない時に、秋の風が花瓶の花をそっと揺らした。
秋めいてきた風に吹かれながら、蓮はぼけっと座り込んで空を見上げていた。夏より弱くなった草いきれ。空が高い。
その後ろを通りかかった女子生徒がふと足を止め、黙って彼の横に並んで座った。蓮はちらっと彼女を見、知った顔だと分かると大きく息を付いて呟いた。
「早いもんだな。もう、一ヶ月も経っちまった。」
「……そうね。」
言いたい事を全て察して、彼女はただ一言だけ答えた。時折心配そうに蓮の横顔を見るが、彼は穏やかな表情でまっすぐ前を見ていた。不意に、空に手をかざし、眩しそうに目を細めた。
「早苗、もうとっくにあんな遠くにいるんだろうか。な、お前なら分かるんだろ。」
そう言って、隣に座る女子生徒――八重の顔を見る。八重は、学校でも有名な霊感少女。トワたちを見ることが出来るのも、蓮の知る限りでは彼女だけだ。
蓮の問いかけに、八重はなぜか浮かない顔で頷いた。不思議そうな顔をする蓮に、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「私ね、時々感じるの……。早苗ちゃんは、まだどこか近くにいる。」
「本当か!?」
勢い込んで聞き返す蓮に頷く八重。考え考え、言った。
「はっきり見たわけじゃないけど。なんだか、とっても心配そうだった。」
「心配? 何を。」
「分からないけど……多分、あなたを。」
「俺を? どうして。」
「分からないってばそんなの。話したわけじゃないんだから。」
苛立たしげに言って唇を噛む。分からない事がもどかしいらしい。そんな様子を横目で見ながら、蓮は寂しげに呟いた。
「俺もお前みたいに、感じる事だけでも出来ればいいのにな。」
それを聞いて八重は、疲れたように溜め息をついて足を投げ出した。色々なものを感じてしまう彼女なりの気疲れもあるのだろう。
「これも、いい事ばかりじゃないけどね。そういえば最近、あの子には会ったの?」
「あの子?」
「死神の子。確か、あなたはトワとかって呼んでたわね。」
八重の脳裏に、白い翼を持った黒い天使の姿が浮かぶ。蓮は何も言わないけれど、おそらく早苗の命を奪ったのは彼女なのだろう。だとしたら彼女のことを口に出させるのは少し酷な事のような気もしたけど、八重は聞いてみずにはいられなかった。案の定、蓮は少し辛そうに顔をしかめた。
「ああ。トワとも、あれっきり会ってないよ。」
「……そう。」
当然だろう。それが、彼にとって良い事なのだ。彼女たちのような存在と関わることは、下手をすれば命を縮めかねない行為だから。そう思いつつも、八重は蓮たちの想いが叶えばいいのにと思ってしまった。彼女にはどうする事も出来ないけれど。
思わず考え込んだ八重の沈黙を、蓮は違うように受け取ったらしい。わざとらしいほど明るい口調で言った。
「とにかく、俺は大丈夫だよ。心配ない。早苗に伝えられればいいんだけどな。」
八重は微笑んで、励ますように答えた。
「きっと伝わるわ。早苗ちゃんは、きっとちゃんと分かってくれる……。」
帰ろうと立ち上がった八重に、蓮は微笑みかけた。まだ残っている筈の傷も感じさせない、穏やかな笑み。八重を見送った蓮は、もう一度だけ空に手を伸ばした。