Ⅶ 涙
冷たい雨が降っていた。
人々の哀しみを映すような、重い灰色の雲が空を覆っている。少女達がすすり泣く声が絶えず響き、空まで泣いているようだった。
蓮は一人、そんな雨空を見上げていた。
「お兄ちゃん……?」
友人達からちょっと離れた由依がそっと声をかけるが、蓮の耳には入らない。再び声をかけようとした由依は、兄の目を見た瞬間ぎくりと立ち竦んだ。涙も涸れ果てたような、何の感情も浮かばぬ黒い眼。
「お、お兄ちゃんっ!」
意を決した由依は、兄の肩を叩いた。
肩を叩かれて我に帰った蓮はとっさに振り向いた。やや高い女の子の声に一瞬だけ輝いた目の色は、声の主を見た途端に失望に変わる。
由依は唇を噛んだ。兄の考えてることくらいすぐに分かる。早苗を喪った心の穴はきっととんでもなく大きくて、今はまだ受け入れられずにいる。こんなのは全部悪い夢で、早苗に呼び起こされるという微かな幻想を捨てきれていないんだ。目を背けているだけだと、自分でも分かってはいるのだろうけど。
由依だって、友人の早すぎる死を直視したくなんかない。夢だったらどんなにいいかと思ってる。
それにしても、妹の声を聞き間違えるなんて。
その時、虚ろだった蓮の目が不意に揺らいだ。由依の事など目に入ってすらいないように、何かを見付けてそちらへ駆け寄ろうとする。由依は慌ててその袖を握って止めた。
「待って。風邪ひくよ、傘くらい差して……」
けれど蓮は一言も発さぬまま、由依の手を振り払って雨の中へと駆け出した。
「お兄ちゃん! もう……。早苗の事で、哀しんでるのは分かるよ。私だって哀しいよ。だけど……」
一人残された由依は、俯いてぐっと強く唇を噛んだ。さっきまでとは違う涙がこぼれる。
「お兄ちゃんがあんな目するの、見たくないよ……。」
蓮は呆然と立ち尽くすように雨に打たれ、俯いていた。
その背後から、いつも一緒の友人達が躊躇いがちに声をかける。
「蓮……その、何て言っていいかよく分かんないけどさ……。忘れろってのは、無理だと思う。けど、あんまり抱え込むなよ。」
「俺も心配だよ。なあ蓮、一途なのはいいけど、そんな全てを失ったような顔すんなよ……」
いつもならすぐに冗談で返せるはずの爽太と光の言葉にも、蓮の背は微動だにしない。しばらく間が開いてから、やっとポツリと言った。
「ごめん。そう言ってくれるのは、嬉しいんだけど……今は、一人にしてほしいんだ。」
「蓮……、」
言いかけた光の腕を、爽太が軽く掴んで止める。一度だけ気遣うように蓮の顔を見、二人はそのまま立ち去った。一人残された蓮はゆっくりと顔を上げ、睨みつけるように前方を見つめ、言った。
「お前がここに来たのは、早苗を殺す為だったんだな。」
視線の先に立つ黒い天使は、しっかりと蓮の目を見つめ返した。
「あたしが殺した訳じゃない。ただ寿命の終わった命を運ぶのが、あたし達の仕事。」
冷たい言葉に、やりきれない思いを感じた蓮は小さく唇を噛む。それでも、声の震えは抑えられない。
「早苗も、仕事だからって言うのか。」
「そうよ。」
あっさりと肯定されては、言い返すことも出来ない。
「人間は誰でも寿命が決まってる。決められた時に死ななければならない。」
トワの言葉は冷たく、無慈悲で、高潔で……、どこか哀れみを含んでいるように聞こえた。
「俺は、まだ生きなきゃならないのか……?」
苦しそうに吐き出した蓮の言葉に、トワの顔が一瞬だけ歪んだ。彼の哀しみを、苦しみを、彼女も感じているかのように。けれどその表情の変化はほんの一瞬の事で、蓮も、トワ自身さえも気付かなかった。天使は平静な声で少年に告げる。
「人間に寿命を教える事なんて出来ない。前にも言ったと思うけど。」
蓮は深く俯いた。その頬をひんやりとした雫がつたう。降りしきる雨は涙と混ざり合い、絶え間ない雨音が嗚咽を隠す。前髪に隠されて口元しか見えない蓮の顔、その唇が強く噛み締められているのを見たトワはまた少し顔をしかめた。しかし今度はトワ自身が気付いて、慌てて蓮から視線を外した。歌うように呟く。
「人はいつか死ぬ。確実に。人間の命なんて、そう長いものじゃない。」
その言葉に、蓮はふっと顔を上げた。何か言おうと口を開きかけ、一歩、トワに歩み寄る――
その時。
「蓮くん!」
聞き覚えのある少女の……しかし早苗とは全く違う叫び声に、蓮の足が止まる。夢から叩き起こされたように苛立たしげに、声のした方を振り向く。
「またか、八重。何なんだお前。」
八重は蓮の背後から、きつい目で二人を睨みつけていた。視線を外さぬまま鋭い声で言う。
「私は何だっていい。蓮くん、分かってるの? あなた、今、すごく死に惹かれている。」
彼女の視線と語調の鋭さに、トワがたじろぐように一歩あとずさった。蓮が再び振り返った時、トワは彼らに背を向けて逃げるように駆け出した。
「トワ!」
「蓮くん、ダメ!」
彼女のあとを追って走り出そうとする蓮の袖を、八重が強く掴んで止める。振り払おうとする蓮に必死で叫んだ。
「あなたは死なんて考えちゃいけない! 早苗ちゃんの為にも、あなた自身の為にも……」
蓮はしばし黙って八重を見つめたが、強く振り払ってトワが姿を消した方へと走り去った。
何一つ音のない世界、真っ白な空間。黒い天使たちしかいない筈のそこに、ただ一人、違う姿があった。
周囲の光景に似合った白いワンピースに身を包んだ小柄な少女は、ぽつんと置かれた台に腰掛けて退屈そうに足をぶらぶらさせていた。他に何かの気配すらない世界、かろうじて白と黒以外の色彩をもつ彼女の姿が、物寂しい雰囲気をより強調する。彼女――早苗は、ふっと寂しく微笑んだ。
そこに姿を現したのは、白い翼を持った黒い天使。彼女は一瞬だけ白い少女を見、すっと目を逸らした。少女は天使のほうを見ず、独り言のように呟いた。
「会って来たんでしょ、蓮くんに。」
天使――トワはそっと目を上げる。早苗を見る彼女の目には、かすかな動揺が見えた。早苗はそれに気付いているのか、ポツリと尋ねた。
「ねえ……彼、泣いてた?」
答えに少し迷ったのだろう、ちょっと間があった。早苗は答えを促すように、トワに微笑みかける。
「……分からない。雨の中だったもの。」
「そう。」
聞きたかった事はそれだけだとばかりに口を閉ざした早苗を真っ直ぐ見つめて、トワは尋ねた。
「まだ、行けないの?」
早苗はちょっと顔を曇らせ、目を伏せた。
「うん……まだ、ちょっとだけ心配だから。ゴメンね。本当は、さっさとあたしを送らなきゃならないんでしょ?」
トワはゆっくりと頷く。早苗は申し訳無さそうにもう一度「ゴメンね」と呟いた。
「謝らなくていい。その気になれば、本当は強制的に送る事だって出来る。けど、そうすると魂が引き裂かれてしまう事がある……。あたしは、そんな事したくない。」
早苗に説明するというより自分に言い聞かせるようにトワは言った。早苗はちょっと意外そうに目を見張り、腰掛けていた台からすとんと飛び下りてトワの顔を覗き込んでほんのりと微笑む。
「優しいのね。あたし、死神ってもっと怖いものだと思ってたわ。」
「早苗……」
トワはそんな早苗が差し出した手にそっと自分の手を近付ける。その手を両手で包み込むように握って、早苗は友達に言うように優しく囁いた。
「あなたは、まるで天使みたいよ。」