ⅩⅠ 翼の欠片
どこまでも白い空間、彼女たちの世界。
トワは一人、座り込んでいた。どんなに強く強く自分の肩を抱いても、震えが抑えられない。どうにも出来ない恐怖が彼女を襲う。何かを見まいとするかのように深く俯いて、固く目を閉じる。涙が滲んだ。
彼女に、足音もなく近付く姿があった。トワと同じ白い翼、黒い服。普段は感情というものを全く表さない天使は、珍しく少し声を荒げながら早足で仲間に歩み寄った。
「ちょっと! あなた、自分が何をしたか分かってるの? しくじるなんて……」
娘は言葉を切り、ぐっと唇を噛む。トワはさらに身を縮め、聞き取れないほど微かな声で答えた。
「どうしても、どうしても取れなかったの……。どうしよう、こんな事がバレたら、あたし……!」
体の震えはよりいっそうひどくなる。その肩に不意に何かが触れて、トワはびくりとして顔を上げた。彼女の傍らに屈み、まるで仲間を気遣うように肩に手を置いた娘は、トワの顔を見つめて尋ねる。
「そんなに、あの人間が好きなの。」
トワは俯き、しばし考えて首を振った。
「分からない。あたし、もうダメなのかも……」
「何を言っているの。」
驚いて聞き返すと、トワは涙をいっぱいに溜めた瞳で彼女の目をまっすぐにを見た。
「自分の行動を自分で制御できないのよ。仕事も失敗してしまったし……人間の命を取れなかったら、死神じゃないわ。」
娘はしばし言葉に詰まったが、そっと指でトワの頬を拭った。自分の涙で濡れた指をぼんやりと見るトワに、少しだけやわらかい口調で言った。
「失敗は時々あるものよ。誰にだって。」
「でも……」
「いいの、済んでしまったことは仕方ない。あとは‘上’が処理するはずよ。」
話を打ち切って立ち上がった娘を、トワは怯える目で見上げた。
「報告に行くの?」
「ええ。義務だから。」
振り返らずに答えて、そのまま数歩進む。そこで、ふと足を止めた。
「でも、私は何も知らない。彼、泳ぐの上手いのね。」
どうしてそんな事を言ったのか、彼女自身にもよく分からなかった。振り向いたら、意外そうな表情のトワと目が合った。手にした大鎌を握り直して、トワに背を向け歩き出す。その背に、トワは思わず声をかけた。
「……ありがとう。」
天使は小さく肩だけすくめて、振り向かずに歩き去った。
その姿が見えなくなるまで座り込んだまま見送って、トワは心を決めた。自分の鎌を手に、それに半ばすがるようにして立ち上がる。涙を拭って、白い翼をいっぱいに広げた。翼が風をとらえる。黒い髪をなびかせて、トワは、再び地上へと降り立った。
誰もいない住宅街の一角。下校途中だった蓮は、ふと辺りを見渡した。
(この先って……あの日、トワと初めて逢った所だ。)
その以前には、この角でよく早苗と待ち合わせをしていた。あの日もここで早苗と分かれて……彼女に出会ったんだ。どうして急にそんな事を思ったのかは、よく分からない。毎日通学に使っている道だというのに、今更。そんな自分に心の中で苦笑しつつ、角を一つ曲がる。そして、足を止めた。
白い翼、鈍色の鎌を持った、黒い後ろ姿。
間違えようがない、彼女だ。けれどその後ろ姿は俯いて、なんだか泣いているように見えて……蓮は静かに歩み寄り、そっとその名を呼んだ。
「トワ。」
彼女は振り向こうとはせず、また何も言わなかった。それでも構わずに、蓮は言葉を続ける。
「早苗、もう行ったんだろ。でもその前に会えて良かったよ。あいつは、幸せだったって言ってくれた。まあ知ってるよな。だってあの時、お前、近くにいたんだろ。あの時だけじゃない。俺が溺れかけた時から……」
「……確かに、いたわ。全部見てた。」
トワがかすれ声で答える。蓮は辛そうに顔を歪め、言った。
「じゃあやっぱりお前なんだな。康平が死んだのは。」
「違うの!」
思わぬ強い否定の言葉に、蓮は目を見開いて彼女を見つめる。やっと振り向いたトワは、蓮の目をまっすぐに見つめて叫んだ。
「違う、康平が死んだのはあたしじゃない。あたしの仕事じゃ……」
「どういう事だ?」
思わずトワの肩を両手で掴み、強い口調で尋ねる。トワは目を逸らさず、告げた。
「あたしは確かに仕事をする為にあそこにいたわ。けど、死ぬ筈なのは彼じゃなかったの。」
「な……」
「あなたよ。あたしはあの時、あなたの命を絶つ筈だった。」
あまりのことに、蓮はしばし言葉を失った。
「何だって!? でも俺は生きて……康平を、俺の代わりに殺したって言うのか!?」
「違うわ! そんなの、決してあたし達に許される事じゃない。分からないけど、彼の死には大きな力が働いてる。あたし達より、遥かに大きな……」
俯いて口を閉ざしてしまったトワの姿を、今更ながらまじまじと見つめる。手にした大きな鎌……人の命を運ぶ、人の死を司る存在。それが彼女たち、人間の言う死神。そんな彼女たちより遥かに大きな力……。それはきっと、人間などに想像もつかないものに違いない。
蓮はふと、何かに気付いた。再びトワを見つめ、ゆっくりと問い掛ける。
「俺は、死ぬ筈だったのか。」
「……そうよ。」
「じゃあ、どうしてまだ生きてる? どうしてお前は、俺の命を取らなかったんだ?」
蓮の言葉に、トワはまた俯くしかなかった。
「分からない……どうしても、取れなかった。」
仲間に言ったのと同じ言葉を繰り返す。そして顔を上げ、彼を見つめた。自分の感情の抑えがきかなくなる……でも、もうそれでもいい。トワは思い切って、彼に抱きついた。地面とぶつかった鎌が乾いた音を立てる。人間の温かい胸にしがみついて、天使は叫んだ。
「こんな事、今までなかったのに。どうしてだろう。あたし、あなたに死んでほしくないの!」
「トワ……!」
蓮の手が、おずおずとトワの背を包む。もろく壊れそうなほど細い肩。人間の女の子と同じじゃないか。冷え切って、震えている……。
その時。
「お前は失格だ。」
不意に冷たい、感情をこれっぽっちも含まないような男の声がして、二人はバッとそちらを見た。声がしたのは今まで何の気配も無かったトワの背後。一歩あとずさったトワの肩を、蓮が自分の方に引き寄せるように抱く。二人の視線の先に、すらりとした黒い姿があった。それは驚くべき事に、蓮のよく見知った人物。
「光……?」
蓮は自分の目を疑うように呟いた。彼は答えず、一歩、二人に歩み寄る。全く感情の表れていない顔は、いつものノリのいい光を知っている蓮には別人のように見える。彼の腕を掴んだまま、トワが凍りついたように体を固くしていた。
「死神は、感情を持ってはいけない。持つ必要など無い。感情などという人間の持ちモノは、面白いがお前達にはただ邪魔。」
さらに近づいてくる光に、二人は思わず一歩また後退る。蓮はわめくように言った。
「な……何なんだよ。おい、光! 全然わかんねえよ。どういう事なんだよ!」
光は静かな瞳で、つい昨日も「親友」と呼んだ男を見つめる。その視線はまるで、自分とは違う生き物を見るような……。彼の無表情な声が、低くあたりに響いた。
「蓮。彼女は人間ではない。それは知っているだろう? この世界には、人間ではない存在が意外と多いものだ。八重のような人間になら分かるのだろうがな。この私だって……。」
光はいったん言葉を切る。蓮は震え声で言った。
「人間じゃない? お前が……? じゃあ何なんだよ。お前も死神だって言うのか、トワと同じ。」
「違うな。お前とアレが違うのと同じくらい、私とアレも違う存在だ。一緒にしてもらっては困る。」
そう言うと、彼はちょっと顔を上げてトワを真っ直ぐに見る。その冷たい視線に射抜かれたように、トワはびくりと身をすくめた。蓮はより強く彼女の肩を抱いた。
「蓮。そんなに、それが好きなのか。」
光がそれを見て不思議そうに言う。蓮は何か本能的とも言える体の震えを堪えつつ、対峙する男の冷たい眼をまっすぐに睨み付け、言った。
「ああ。俺はトワが好きだよ。最初に会った時から、ずっと。俺はこいつを守る。そのためなら、光、俺は例えお前だって敵にまわしてやるさ。」
「蓮……。」
振り向いて、すがるような瞳で彼の顔を見上げるトワ。蓮は光を見据えたまま、その強い意思を宿した目は少しも揺るがない。と、それを見て、光は大げさに肩をすくめてみせた。瞳にほんの少し、悪戯っぽい煌きが戻っている。
「やれやれ、どうやら本当にやられてしまったようだな。これでは、もう使い物にならない。」
冗談でも言うように軽い口調だった。どういう意味だ、と蓮が聞き返す間もなく、光はさっきの無表情に戻る。そして右手を軽く上げ、ひどく冷たい声で告げた。
「お別れだ。この世界と。」
そしてトワに向かって、手刀の形になった右手が真っ直ぐに突き出された。
「トワ!」
蓮の叫び声。同時に、しっかりと彼女の肩を抱いていた蓮の手が外れる。その事に小さく絶望を感じながら、トワは観念して目を固くつぶった。
永遠にも感じられる一瞬。しかし、いつまで経ってもその胸を手刀が貫くことはなかった。トワは恐る恐る目を開ける。そして目の前の光景を見て、悲鳴を上げた。
「蓮!」
トワの前に、蓮が素早く割り込んだのだ。光の手刀は、彼の左胸を貫いていた。光もさすがに驚きを隠せず目を見開く。蓮は歯を食いしばり、まだ睨むように光をじっと見ている。ただ、その口元は少しだけ笑っていた。動揺しながらも光が手刀を抜くと、蓮の体はそのまま崩れるように倒れた。
「蓮……どうして、こんな……」
光が微かに呟く。そんなものはトワの耳には入らない。彼女は今までにないほど泣き叫びながら、動かない蓮の体を揺さぶった。
「いやあっ! 蓮! 蓮っ!! どうして!? 蓮! れ……」
その声と動きが不意に止まる。光の手が、トワの背に突き刺さっていた。彼女の瞳から一瞬で色が消え、その体はまるで壊れた操り人形のようにゆっくりと倒れる。
トワの背から、小さな白いものが一つ、ひらりと落ちた。鳥のそれと似た白い羽は風に流され、その軽さゆえに地に触れることなく高く舞い上がる。自由を喜ぶ蝶のようにくるくると舞う翼の欠片は、やがて青い空へ吸い込まれるように見えなくなった。
地上に取り残された天使と、彼女に愛された少年。もう動かない二人を、光はただ静かな目で見つめていた。