Ⅹ さいご
陽射しを遮るものが何もない明るい河原を、四人の少年たちはふざけ合いながら歩いていた。
「こら、康平! それ返せよ!」
すばしっこく逃げ回る後輩を、光が叫びながら追い駆けまわす。康平は何か紙を握り締めた手を高く挙げながら、楽しそうに返事した。
「嫌ですよー。先輩ってば、いっぱい貰っても読まずに捨てる女の子泣かせですもんね。代わりに僕が読んだって、変わらないじゃないっすか。」
康平の手に握られているのは、光宛てのラブレター。爽太が同じクラスの女子から託された物だったが、光は斜め読みしてそのままゴミバコ直行させようとしたので、そこを康平が拾い上げたのだ。それからかれこれ30分、こんなやり取りが続いている。
「おいおいおい……いい加減にしろよテメェ!」
「おお、光が珍しくキレた。」
ちょっと離れたところからじゃれ合う二人を眺めていた爽太が笑う。そしてふと、隣を歩く友人を見上げた。その顔に不意に影がさしたのに目ざとく気付いて、声をかけた。
「……蓮?」
その声に我に返った蓮は、慌てて笑顔を作る。
「何だ?」
「俺がこんなこと言うのも何だけどさ……まだ、落ち込んでんだろ。早苗ちゃんの事で。」
どうやら図星らしい。早苗の名を聞いた途端、蓮の顔が引きつった。けれどすぐに笑顔に戻って、声を立てて笑ってみせた。
「何言ってんだよ爽太。俺なら大丈夫。心配すんなって。」
だが、あまり上手く誤魔化せなかったらしい。爽太は光たちの方に視線を戻して、努めて軽い調子で言う。
「無理することないよ。まだ寂しいんなら素直に寂しいって言えよ。」
「……ありがとな。」
友人として心から思い遣ってくれていることが分かったから、蓮はただ一言それだけ答えた。爽太もちょっと口元をほころばせる。そこに、手紙を取り返した光が、片手で康平の襟首をつまみながら帰ってきた。
「なあ、お前らも何とか言ってやれよ。コイツ、絶対俺らのこと年上だと思ってないだろ。」
「えー、そんな事ないですよ!」
口を尖らせて反論する康平。爽太と蓮は顔を見合わせてくすっと笑い、可愛い後輩に加勢した。
「そうだよなー、可愛い後輩じゃないか。少なくとも、俺らにはそんな事ないぞ。なあ蓮。」
「そうだな。光が先輩っぽくないからじゃないのか?」
「そうかあ?」
納得できないというように不貞腐れている光。少し、会話が途切れた。風の音だけがやけに大きく聞こえる。ややあって、康平が唐突に言った。
「よかったです。蓮先輩、元に戻って。」
「あ? 何だそりゃ。」
眉をひそめて聞き返した蓮を、康平は大真面目にまっすぐ見つめる。
「みんな心配してたんですよ。あの後、ずっと落ち込んでたじゃないですか。」
またこの話か。蓮は一つ肩をすくめ、それからバシッと康平の背をはたいた。
「お前なんざに心配されなくたって、俺は大丈夫だよ。」
「そりゃそうですよね! でも、ホッとしました。」
康平はにかっと歯を見せて笑い、自分の言葉が作り出してしまった微妙な空気を破るように駆け出した。川辺にいくつか並ぶ不規則な形の大きな岩に身軽に飛び乗る。爽太が呆れて笑いながら叫んだ。
「危ないぞ! サルかお前は。」
「大丈夫です、サルですから!」
ふざけて怒鳴り返す。とんとんっと数回跳んで渡り、勢いをつけてやや離れた岩に飛び移る。……しかし、着地でバランスを崩した。
「う、わっ!?」
康平はスローモーションのようにゆっくりと背中から落ち、水面へと吸い込まれていった。
「康平!」
光が叫ぶ。派手な水音。
「あの莫迦!」
考えるより先に身体が動いた。思わず悪態を吐くと同時に動きにくい制服の上着を脱ぎ捨て、一瞬後には蓮の体も康平を追うように宙を舞った。
「蓮っ!」
爽太が放られた上着を拾いながら叫ぶのと、蓮の姿が水中へ消えるのと、ほぼ同時だった。
残された爽太と光は慌てて川辺に駆け寄る。いくら覗き込んでも、決して澄んではいない川の中に二人の姿は見えない。時の流れが、とんでもなく長く感じられた。いつまで経っても、二人は現れない。
「……どうしよう、もし、浮かんで来なかったら……。」
爽太が震え声で呟いた。それを否定する光の声も震えていた。
「まさか。蓮は泳げるんだぜ? あいつならきっと大丈夫さ。」
「でも……」
その時。何かが、淡く光る微かなものが、蓮たちがいる筈の水中へ飛び込んだ。あまりに速く、普通なら見えなかったであろう。光だけが、何かの気配を感じ取ってハッと動きを止めた。
じりじりとしか進まない時間。爽太はいてもたってもいられなくなって立ち上がった。
「光! 俺、ちょっと誰か呼んで来るよ!」
「おい待て!」
光は川を睨んだまま爽太の腕をとっさに掴んで止めた。爽太も、異変に気付いてそこを凝視する。不自然に水面が揺れて、康平の腕を掴んだ蓮が顔を出した。
「蓮! 無事か!」
叫ぶ光の顔には、明らかな安堵の色が浮かんでいた。光がまず小柄な康平を引き上げて、その意識のない体を平らな地面に横たえた。爽太の手を借りて陸に上がった蓮は、草の上に身を投げ出して足首をさする。
「し、死ぬかと思った。こんな時に足が攣るなんて。」
その言葉に、爽太も光も蒼褪める。本当によく助かったものだ。蓮は何かを考えるように一度言葉を切り、やがて呟くように言った。
「溺れかけて、もうダメだと思った時……早苗が見えたんだ。」
「早苗ちゃんが?」
爽太が驚いて聞き返す。蓮が頷き、再び口を開こうとした時、光の絶叫がそれを遮った。
「おい! 康平! おい!」
「どうした!?」
振り向いた二人の背に緊張が走る。光は水を吐かせたはずの康平の顔を覗き込むようにして叫んだ。
「こいつ、息してない!」
「何だって!?」
蓮も腕で体を引きずるようにしてそちらへ寄る。康平の顔は青白く、胸の上下もない。
「お、俺、誰か人呼んで来る!」
爽太は叫んで駆け出した。あっと言う間に姿が見えなくなるのを見送って、二人は康平に声をかけ続けた。
「康平! おい、康平! しっかりしろ!」
必死な声で叫ぶ光と蓮の背後に、ふと白い人影が立った。少し佇んで蓮を見つめ、そっと悲しげに微笑むとそのまま去っていく。その気配に、蓮が顔を上げた。
「早苗?」
「え?」
光が驚いたように蓮を見る。蓮は夢見るような表情で立ち上がり、足を引きずりながら歩き出した。
「おいっ! 蓮!?」
光の言葉もまるで聞こえないようで、蓮はそのままその白い影を追って姿を消した。
光はしばしぽかんとして蓮を見送る。そしてその姿が見えなくなると、不意に怪しい微笑を浮かべた。まるで、何もかも判っているというように。彼はそっと、ぐったりとした康平の顔の上に身をかがめた。
白く淡く光る人影に向かって、蓮は彼の大切な少女の名を呼んだ。
「早苗!」
その声に、人影はゆっくりと振り向く。早苗は穏やかに微笑んでいた。
「蓮くん。」
この世のものならぬ存在となった彼女が、この世の人間に会うことは許されない。でも、会いたかった。たとえ言葉を交わせないとしても。彼が彼女を感じることすら出来ないとしても。ずっとそばにいた。そして、今、やっと想いが叶ったのだ。早苗の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「お前が、俺を助けてくれたのか?」
蓮の言葉に頷く早苗。その表情は少しだけ寂しげだった。早苗の白い姿が、今にも消えてしまいそうに儚く揺れる。彼女には分かった。あの天使が、彼女のために残してくれた時間は、あとほんの少し。でも、さいごに彼に会えた。あたしには、これで充分。早苗の形のいい唇が動き、言葉が紡ぎ出される。
「本当は、いけないことなの。この世の人間の生死に関わっちゃいけない……。でも、あたしは、どうしても蓮くんに生きててほしかった。」
静かな声。だが、胸がつまりそうな感情がひしひしと伝わってくる。蓮の声も震えていた。
「早苗……俺は、自分の命なんか惜しくない。俺の前で誰かが死ぬのを見るくらいだったら、俺が」
「知ってる。」
蓮を遮った早苗の言葉は静かで、だからこそ彼は何も言えなくなった。彼女はゆっくりと言う。
「蓮くんのこと、みんな分かってる。蓮くんがそう思ってることも、あたしの死で自分自身を責めてることも、ちゃんと知ってる。でも、お願い、もうやめて。そんな風に自分を責めないで。蓮くんの所為なんかじゃないんだから。」
「早苗、俺は、」
「あたしは、もう行かなきゃならない。けど忘れないで。あたし、蓮くんの事、ずっとずっと好きだから。」
切なく微笑んだ早苗がいつになく遠い存在に思えて、蓮はとっさに彼女の手を取ろうと手を伸ばした。が、彼の手は虚しく空をかき、蓮は唖然として言葉を失った。早苗は自分の両手を目の前にかざして見せる。彼女の背後に見える木が、彼女の手と身体を透かして見えた。
「もう、あたしは実体じゃないから……ごめんね。」
そして、蓮の顔を見て笑った。もう別れだなんて思えない、いつもの早苗の、明るくて無邪気な笑みだった。
「そんな悲しい顔しないで。あたし、幸せだったよ。短かったかもしれないけど、不幸じゃなかった。蓮くんがいてくれたから。少しの間、あたしと一緒に生きてくれたから。」
蓮の頬に触れるように手を伸ばす。爽やかな風が頬を撫でるような、ふんわりとした暖かさを感じた。
「あたし、蓮くんに出会えて、とっても幸せだったんだよ? だからね、蓮くんには笑っててほしいの。あたしの、大切な人だから。」
「早苗……」
「笑ってて。辛いなら、あたしのこと考えないで。忘れていいんだよ……ううん、忘れて。そうしなきゃ蓮くん笑えないから。他の女の子の前で、あたしを思い出しちゃダメだよ。その子を悲しませちゃう。」
冗談を言うように、早苗は白い歯を見せて笑った。しかしその口調とは裏腹に潤んだ瞳。涙を必死に堪えているのは一目で分かる。
「忘れないよ、絶対。忘れられるわけないだろ。でも、笑うから。大丈夫。心配するな。」
「ありがとう。蓮くん、優しいね。そんな優しいとこ、大好きだよ。」
彼女が微笑む。最後の言葉は、やっぱりちょっと震えていた。
「ありがとう。さようなら、蓮くん。」
「……ああ。じゃあな、早苗。」
蓮の腕が、早苗の姿を抱くように包む。顔が近づき、二人はそっと目を閉じた。蓮の唇に確かに何かが触れた次の瞬間、蓮の腕の中をちょっと冷たい秋風が駆け抜けた。目を開けた蓮の前に、彼女の姿はもう無かった。
遠くの空をぼんやりと見つめる彼の頬を二つのしずくが伝ったのを見た者は、誰もいなかった。