勇者の剣は、最後に勇者を貫いた
私は、幾度も同じ手に握られてきた。
同じ、と言っても、顔立ちは少しずつ違った。背丈も、声も、癖も、好きな食べ物も、笑うときに細くなる目元も、それぞれ違っていた。
けれど、魂の芯にあるものだけは、何度生まれ変わっても変わらなかった。
不器用なくせに、他人を見捨てられないこと。
傷つくたびに、少しずつ黙るようになること。
そして最後まで、自分より誰かを優先してしまうこと。
私は勇者の剣だ。
勇者が生まれるたび、どこかで再びこの世に現れ、その手に収まる。
それが祝福なのか呪いなのか、長い間私はわからなかった。
最初の頃、勇者はまっすぐだった。魔王を倒せば世界は救われるのだと、疑いもしなかった。
国がそう言い、人々がそう願い、彼もまた、それを自分の使命として受け入れていた。
けれど、魔王を倒したあとで終わりになったことは、一度もない。
戦の火種は残り、国は新しい敵を欲しがった。
異端。辺境。従わぬ民。魔族と通じた疑いのある者。勇者の剣はいつしか世界を守るためではなく、国が悪と決めたものを切り分けるために使われるようになった。
勇者は従った。最初は、困っている人を守るためだと自分に言い聞かせていた。次は、これで最後だと。次は、命令に逆らえばもっと多くの人が死ぬのだと。
そうしているうちに、彼の中には切っても消えないものが残った。
夜中に飛び起きるようになった。
誰もいない場所で息が浅くなるようになった。
子どもの泣き声に肩を震わせ、血の色によく似た夕焼けに視線を逸らすようになった。
家族を持った生もあった。
愛する人の隣で眠り、小さな手に指を握られて、ようやく人らしい幸福を手にした生もあった。
それでも、国は彼を放さなかった。
英雄は旗印に都合がいい。優しい人間は、もっと都合がいい。
私はずっとそばにいた。
鞘の中で、彼の手の震えを知っていた。
斬るたびに削れていく心を知っていた。
知っていながら、剣である私は、握られれば応えることしかできなかった。
だから今回、あの子が生まれたとき、私は信じられなかった。
その目が、最初から、すべてを知っている目だったからだ。
赤子の頃から、彼は泣くことが少なかった。
幼い指で木剣を持たされれば青ざめ、英雄譚を聞かされれば眠れなくなった。
誰より早く文字を覚えたのは、逃げるための地図を読むためだったのかもしれない。
誰より早く沈黙を覚えたのは、口にした瞬間、運命に見つかると思っていたからかもしれない。
彼は勇者だと名乗らなかった。
民衆が噂しようと、神殿が騒ごうと、王が「まだ現れぬ真の勇者」を待ち望もうと、彼はただ町の片隅で、目立たぬように生きた。
私は彼を見ていられるだけでよかった。
今度こそ、彼が剣を取らずに済むなら、それでよかった。
だが、魔王が生まれた。
魔王の誕生は、勇者がこの世にいる証だった。
国は沸き立ち、同時に苛立った。勇者が名乗り出ないなら、見つけ出せばいい。見つからないなら、炙り出せばいい。そういう考えの王を、私は何度も見てきた。
やがて王都は布告を出した。
勇者が現れなければ、国民を一人ずつ検めると。
隠した者も、疑わしい者も、かばった者も処刑すると。
狩りだった。
人を守るために生まれたはずの存在を探すために、人を狩るのだ。
それでも彼は、すぐには出なかった。
何日も、何夜も、彼は自分を押し殺していた。名乗り出れば、また始まる。旅が始まる。討伐が始まる。魔王を倒したあとも終わらない、長い長い消耗が始まる。彼はそれを知っていた。
だが、最初に槍を向けられた一家を見た瞬間、彼の中の何かが決壊した。
前世で、彼がようやく守れた小さな幸福。
庭で追いかけっこをしていた幼い孫。
転んでも泣かず、花を摘んで笑っていた娘。
その血を継ぐ家族が、今回の生で彼を縛った。
老いた女が子をかばい、若い父親が立ちはだかり、怯えた子どもが泣いていた。
兵たちは、ただ「勇者を匿っている疑いがある」と告げた。
そのとき、彼は前に出た。
名乗る声は静かだった。
けれどその静けさは、諦めとよく似ていた。
こうして彼は、今回も旅に出た。
一人で。
仲間を作らなかった。
誰とも深く関わらなかった。
宿では壁際に座り、人の多い場所を避け、夜になるとひどく疲れた目で天井を見ていた。
ある町の外れで、勇者ごっこをしている子どもたちのそばを通り過ぎたことがある。
「僕が勇者になる!」
「えー! 僕も!」
「僕も勇者がいい!」
木の枝を剣に見立て、土ぼこりを上げて笑い合う声は、あまりにも明るかった。
彼は気が付けば足を止めていた。
「そんなに勇者になりたいなら譲ってやるよ」
子どもたちは目を丸くした。
彼もまた、自分が何を口にしたのか遅れて気づいたように、ほんの一瞬、息を呑んだ。
それから無理に口元を持ち上げた。
「なれるといいな。勇者」
そう言って背を向けた彼の後ろで、
「何あの人」
「変なの」
そんな声の中、少し遅れて、ひとりだけが口を開いた。
「……なんだかあの人、泣きそうだった」
その声は小さく、風に紛れて消えた。
彼はしばらく歩いた。
人通りのない林に入ると、ふいに立ち止まり、近くの木を拳で殴った。
一度では足りなかった。
二度、三度。皮膚が裂けてもやめなかった。
やがて、鈍い音とともに木が傾ぎ、倒れた。
「世の中にはこんなに人がいるのに、どうして僕が勇者なんだっ!」
声は叫びというより、裂けたものに近かった。
彼はその場に膝をついた。
肩を震わせ、声を殺しきれず、とうとう泣いた。
私は鞘の内側で、その震えをただ受け止めるしかなかった。
旅の途中、彼を狙う者は少なくなかった。
中には魔族だけではなく、同じ国の者もいた。だが彼らの刃に宿っていたのは、憎悪だけではない。
失われた父。焼かれた村。討たれた兄。帰らなかった母。かつて勇者が倒した、誰かの家族。
復讐のために現れた者もいた。
その目に浮かぶ悲しみを、彼は見た。
見てしまった。
だから彼は、戦うことをさけた。
逃げ、隠れ、傷ついても、私を抜かなかった。
卑怯者と蔑まれようが、勇者らしく戦えと言われようが。
勇者の剣を抜けば、誰かが死ぬ。
抜かなければ、自分だけで済む。
彼はそう決めているようだった。
私は薄々、彼が何を望んでいるのか分かっていた。
世界を救うことではない。
生き延びることでもない。
まして栄光などでは決してない。
終わらせることだ。
勇者と魔王が生まれ続ける、この循環そのものを。
魔王城は、ひどく静かだった。
玉座の間にいた魔王は若かった。人によく似た姿をしていた。角も牙も、象徴のように控えめで、その目だけが妙に澄んでいた。
彼は勇者が来るのを待っていた。
そして勇者もまた、この瞬間のためにここまで来たのだと、私には分かった。
二人はしばらく、何もせずに見つめ合っていた。
憎しみではなかった。
敵意でもなかった。
互いに、自分が何であるかを知っている者同士の、あまりに静かな対面だった。
それから勇者は、今世で初めて私を鞘から抜いた。
長く閉ざされていた刃が、かすかな光を返す。
彼の手は震えていなかった。
二人は歩み寄った。
逃げる者はいなかった。
止める者もいなかった。
次の瞬間、彼は私をまっすぐに突き出した。
魔王の胸を貫き、そのまま自らも刃に身を押し出す。
私はそのまま、彼の胸へと届いた。
二つの鼓動が、ひとつの刃の上で止まった。
私は理解した。
だから、私も応えた。
ただの肉ではなく、その奥にある核へ。
幾度も繰り返されてきた魂の輪へ。
勇者と魔王をこの世に縛りつけ、何度も別の形で再演させてきた、深い深い楔へ。
私はこれまで培ったすべての力を、欠片も残さず注いだ。
砕けろ、と願った。
もう二度と、この手に私が握られないように。
もう二度と、あの優しい魂が勇者として生まれないように。
折り重なるようにして、二人は倒れた。
勇者の顔は、驚くほど穏やかだった。
胸から血が広がっているのに、ようやく長い悪夢から醒めた人のようだった。
その目から、涙がこぼれた。
悲しみの涙なのか。
痛みの涙なのか。
それとも、やっと終われることへの安堵なのか。
私には分からない。
けれど私は思った。
ああ、これでいいのだと。
泣きながら生まれ、
泣くことも許されず戦い、
守るために傷つき、
傷つくたびに黙っていった彼が、
最後の最後にだけ、何者でもなくひとりの人間として涙を流せたのなら。
私は、勇者の涙を見るのは、これが最後になるだろうと思った。
そしてそのことを、心から幸せだと感じた。
砕けていく刃の中で、初めて。
剣である私もまた、救われたのだと思った。




