「平民の分際で意見するな」と婚約破棄されたので正論投げつけて出ていってやりました
「ルイーゼ。お前との婚約は、今宵をもって解消する」
ヴァルター・フォン・ブレンハイム伯爵は、夜会の大広間のど真ん中で、シャンパングラスを片手にそう宣言した。
隣には真新しいドレスの令嬢。金髪碧眼、いかにも「良家の令嬢」という風貌の女が、勝ち誇った笑みを浮かべてヴァルターの腕にしがみついている。
周囲の貴族たちが一斉にこちらを向いた。
ルイーゼ・ウェルネス。平民出身のウェルネス商会会長、二十三歳。そして今この瞬間まで、ブレンハイム伯爵家の次期当主の婚約者だった。
「理由を聞いてもいいかしら」
ルイーゼは、手にしていたグラスのワインを一口飲んでから訊いた。
動揺する素振りは見せない。——だってまぁ、知ってたし。
「俺は本当の愛に目覚めたのだ」
でた。
「リリアーナは男爵家の令嬢だ。身分も教養もある。——お前のような、金しか取り柄のない平民とは違う」
リリアーナと呼ばれた令嬢が、扇子で口元を隠しながらくすくすと笑った。
「本当の愛。へぇ」
ルイーゼは笑った。心の底から可笑しくて。
「な、何がおかしい」
「いえ、ごめんなさい。『本当の愛に目覚めた』って、あなた去年も同じこと言ってたなと思って。あの時は侍女相手だったけど」
広間がざわついた。リリアーナの顔が引きつる。
「あら、怒らないでね、リリアーナさん。別にあなたを侍女と一緒にしてるわけじゃないの。——でも侍女の方が身の程を弁えてた分、まだマシだったかしら」
「なっ——」
「ルイーゼ! 口を慎め!」
ヴァルターが声を荒げた。顔が赤い。酒のせいか、怒りのせいか。
——たぶん両方。この人、昔から”キャパ”が小さいのよね。
ルイーゼはグラスをテーブルに置いた。
「ねぇヴァルター。一つ聞いていい? あなたの領地の年間税収、いくらか知ってる?」
「……は?」
「知らないわよね。知ってたら驚くから教えてあげる。六億リーフ。——三年前は四千万だった。この差額、誰が作ったと思う?」
ヴァルターが不満そうな顔をする。
「それは……お前が——」
「私の商会が、あなたの領地の小麦取引、鉱山の卸契約、港の使用権、全部仕切ってるの。知ってた? まあ、知らないわよね」
広間が静まり返り、貴族たちの視線がヴァルターに集中した。
「あとね、あなたが去年の秋の舞踏会で着てた礼服。あの生地を卸したのもうちよ。代金まだもらってないの。利息つきで請求書送っていいかしら? それと他にも——」
「やめろ……!」
「やめないわ。この機会だから、聞いてほしいことがまだまだあるもの」
ルイーゼは一歩、ヴァルターに近づいた。
ヒールの音が、静まった広間に硬く響く。
「あなたとの婚約、最初から政略だったでしょ。あなたの家が借金まみれで、うちの商会の金が欲しかったから、『平民だが特例で』って婚約を持ちかけてきた。私は領地経営の実績が欲しかったから受けた。——お互い利害が一致していただけ」
「……」
「それを五年間、『平民を嫁にしてやった恩を忘れるな』って言い続けたのはあなた。帳簿を見せれば『平民の分際で意見するな』。改善案を出せば『女が口を出すな』。取引先を連れてくれば『商人ごときを屋敷に入れるな』」
ルイーゼの声は終始穏やかだった。怒っていないのだ、本当に。
——だって、この人に怒るだけの感情をかけるのが、もったいないもの。
「で、今日。『本当の愛に目覚めた』から解消する、と」
ルイーゼは左手の薬指に嵌まっていた婚約指輪を、ゆっくりと外した。
そしてテーブルの上に、そっと置いた。投げつけてやりたい気持ちはあったが、そんな価値もない。
「いいわよ、解消で。むしろありがとう。こっちから切り出す手間が省けたわ」
「——な……」
「あ、そうだ。最後に一つだけ教えてあげる」
ルイーゼは背を向け、肩越しに最後の一瞥をくれてやった。
「婚約解消と同時に、私の商会とブレンハイム領のすべての契約は白紙に戻るから。小麦の取引も、鉱山の卸も、港の使用権も。全部。——あなた個人との契約じゃなくて、私との婚約に付随する優遇契約だったの、知らなかったでしょ」
ヴァルターの顔から血の気が引いた。
「ま、待て……! それは……!」
「指輪、質に入れたら? 三ヶ月分の食費くらいにはなるんじゃなくて?」
ルイーゼは背筋を伸ばし、大広間を歩いて出た。
◇
馬車に乗り込んで、扉が閉まった瞬間。
ルイーゼは目を閉じ、深く息を吐いた。
泣かない。あんな男のために涙を一滴でも使うなんて、帳簿の赤字より許せない。
でも、手は震えていた。
五年間、あの男の領地を立て直すために走り回った。夜通し帳簿と向き合い、商人たちと交渉し、農地改革の計画を立て、鉱山の採掘権を確保した。
その全てを、「平民の分際で」の一言で踏み潰され続けた。
——分かってたじゃない。最初から。利害の一致だけの関係だって。
分かってた。分かっていたけれど。
たまに見せる笑顔が、本物だと思いたかった自分がいたことくらいは——認めてもいいでしょう。
「……馬鹿みたい」
呟いた声は、思ったより掠れていた。
◇
商会の本館に戻ったのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
玄関を開けると、廊下の奥からばたばたと足音が近づいてくる。
「る、ルイーゼさんっ……!」
息を切らして駆けてきたのは、ユーリ・アールシュタイン。
ルイーゼの幼馴染。二つ年下。商会の経理を任せている。
亜麻色の髪をいつも一つに括っていて、度の合っていない丸眼鏡をかけている。細身で、背はルイーゼより少し高い程度。目が大きくて、常にどこか怯えたような、小動物じみた顔をしている。
——そして今、その大きな目がさらに大きく見開かれていた。
「あ、ああの……夜会は……ど、どうでしたか……」
「ん。婚約、解消してきたわ」
「…………」
ユーリの目が、ルイーゼの手元に落ちた。
左手の薬指。指輪の跡だけが白く残っている。
「……ル、ルイーゼさん。手……」
「手?」
「震えて……ます……」
——ああ、まだ震えていたのか。
「……寒かったのよ、夜会の会場」
「今七月ですけど……」
「冷却器が効きすぎていたの。貴族の館はなんでも過剰なのよ」
「…………」
ユーリは何も言わなかった。代わりに自分の上着を脱いで、ルイーゼの肩にそっとかけた。
「な、なに」
「さ、寒いなら……これ……」
ユーリの上着は温かかった。体温がまだ残っている。
それから——ユーリは小走りで奥に消えて、すぐにカップを手に戻ってきた。
「え、これ」
「しょ、生姜の蜂蜜茶です……。あの、ルイーゼさんが夜会の後はいつも胃が痛くなるって言ってたから……作って、待っていました……」
——夜会なんて何時に終わるか分からないのに。
「……いつもそうだけど、なんで私の好みそんなに覚えてるのよ」
「え、あ、その……べ、別に覚えようとしたわけじゃなくて……自然に……」
耳が赤い。視線も泳いでいる。もう二十一歳なのに、挙動が完全に子犬のそれだ。
「……ありがとう」
カップを受け取って、一口飲んだ。
蜂蜜の甘さと、生姜のぴりっとした温かさが、胃の底にじわっと広がる。
——美味しい。なんでこんなに美味しいんだろう。
ユーリがこちらを見ている。不安そうに、「大丈夫ですか」と口に出さず目だけで聞いているようだった。
「……ユーリ」
「は、はいっ」
「今日はもう帰っていいわよ。遅いし」
「い、いえっ、あの、まだ帳簿の確認が……」
「嘘つき。全部終わってるでしょ? 今朝の時点で」
「…………」
図星だ。この子は仕事が異常に早い。経理の帳簿なんて毎日午前中に片付けている。
夜までいたのは——私を待っていたからだ。
「……勝手にしなさい」
「は、はい……!」
嬉しそうに頷くユーリを見て、ルイーゼはカップに顔を隠した。
——ユーリといると、なんだかほっとするな。昔から。
理由は分からない。分からないけど、この温かい飲み物と、この上着の温もりで、手の震えが止まっていることには気づいていた。
◇
それから三ヶ月。
ルイーゼの予告通り、ブレンハイム伯爵領は崩壊した。
ウェルネス商会との契約が白紙に戻った瞬間、小麦の流通が止まり、鉱山の卸先も、港の使用権も失った。交易が一切できなくなっていた。
領民の不満が爆発し、税収は激減。借金取りが屋敷に押しかけ、ヴァルターは夜会に顔を出す余裕すらなくなった。
リリアーナは逃げていなかった。
意外だった。「本当の愛」とやらは金の切れ目で終わるものだと思っていたが、どうやら本気だったらしい。
——まあ、どうでもいいことだけれど。
ルイーゼはその間、何事もなかったように商会を動かしていた。
ブレンハイム領との契約がなくなった分、別の領地と新規取引を開拓した。むしろ売上は伸びた。あの経営難の領地に注いでいた労力を他に回せるようになったのだから、当然だ。
そして——毎日、商会の執務室で帳簿に向かうルイーゼの傍に、ユーリがいた。
朝はルイーゼより先に出勤して、机の上にお茶を用意している。蜂蜜入りの紅茶。温度はいつもぬるめ。ルイーゼが猫舌だと知っているから。
昼は「あ、あの……お弁当、作りすぎちゃって……よかったら……」と、どう見ても二人分きっちり計算された弁当を差し出してくる。
夜はルイーゼが帰るまで絶対に帰らない。「ま、まだ仕事が……」と言うが、手元を見ると帳簿ではなく、ルイーゼの好きな菓子のレシピを書き写していたりする。
「……ユーリ」
「は、はいっ」
「あんた、経理の仕事してる時間より私の世話してる時間の方が長くない?」
「そ、そんなことは……! ちゃんと仕事して……あ、でも今日のマフィンはルイーゼさんが好きな胡桃入りで……あっ、いや、たまたま胡桃が安かったから……」
「ユーリ」
「は、はいぃっ」
「胡桃、今一番高い時期なんだけど」
「…………」
耳が真っ赤になったユーリが、帳簿で顔を隠した。
——可愛いわね。……いや、何を考えてるのよ私。幼馴染。弟みたいなものでしょ。
でも最近、妙に意識してしまう。
ユーリがお茶を淹れてくれる手つきとか。帳簿を説明する時に近くなる距離とか。たまに目が合った時に慌てて逸らす、あの仕草とか。
ヴァルターの隣にいた五年間、一度も感じなかった安らぎが、ユーリの隣にはある。
——ユーリといると、肩の力が抜ける。
それが何を意味するのか、ルイーゼはまだ、名前をつけないことにしていた。
◇
その日は突然やってきた。
午後の執務中、商会の正面玄関が乱暴に開かれた。
「ルイーゼ・ウェルネスッ!」
聞き覚えのある声。——嘘でしょ。
執務室の扉を開けると、廊下の向こうにヴァルター・フォン・ブレンハイムが立っていた。三ヶ月前とは別人だった。
髪は乱れ、目の下に深い隈がある。仕立ての良い服は皺だらけで、靴は泥がついたまま。——没落貴族の典型的な末路だ。
その後ろに、屈強な護衛が二人。そして——見覚えのある金髪碧眼の女が一人、控えている。
リリアーナだ。
三ヶ月前に「本当の愛」で結ばれたはずの令嬢が、なぜかまだヴァルターの傍にいる。
「契約を戻せ」
ヴァルターは、ルイーゼの前に立って開口一番そう言った。
「……は?」
「小麦の取引だ。鉱山の卸も、港の使用権も。全て元に戻せ。それがお前の義務だろう」
——義務?
「お前はブレンハイム伯爵家の婚約者だった。その恩を忘れたとは言わせない。平民の分際で、伯爵家を見捨てるなど——」
ルイーゼは片手を上げてヴァルターの言葉を遮った。
「今、何て言ったの?」
「だから、契約を——」
ルイーゼは、心の底から呆れた顔をした。
怒りですらない。純粋な、混じりけのない呆れ。
「三ヶ月前に婚約破棄したの、あなたでしょ。『本当の愛に目覚めた』とかって、夜会の真ん中で。覚えてる? リリアーナさんと腕組んでたわよね」
「……そ、それは……」
「で、その『本当の愛』の人を連れて、元婚約者に金をせびりに来たわけ? いい度胸してるわね」
ルイーゼは腕を組み、呆れた目でヴァルターを見下ろした。
「で、今更来て『契約を戻せ、義務だろう』って。——何が義務なの? 婚約を切ったのはあなた。契約が切れるのは当然の帰結。因果関係くらい、乳飲み子でも分かることでしょ?」
「だが——!」
「それと、まだ『平民の分際で』って言うんだ。領地が崩壊して、婚約者に逃げられて、借金まみれで、それでもまだ身分にしがみつくの。——惨めだと思わない?」
ヴァルターの顔が朱に染まった。
「き、貴様……平民風情が、伯爵家の俺に向かって——」
「その平民風情の金で五年間食ってたくせに、よくそんな台詞が出てくるわよね。ある意味尊敬するわ」
「黙れっ!」
ヴァルターの右手が振り上げられた。
ルイーゼは動けなかったが——振り上げられた腕が、途中で止まった。
誰かの手が、ヴァルターの手首を掴んでいた。
「——触るな」
低い声。ルイーゼが知っている声だ。でも、聞いたことのない響きだった。
ユーリが、ヴァルターの手首を握っていた。
あの、いつもおどおどしている、弱気で、目を合わせるたびに慌てて逸らす——
——子犬が、狼になっていた。亜麻色の髪の奥で、翡翠の瞳が凍りついている。感情がない目——いや、ある。一つだけ。純粋で、混じりけのない怒り。
「この人に、手を上げるな」
声に抑揚がなかった。それが余計に怖い。
「な——誰だ貴様……!」
「離せと言うなら離す。けど、もう一度この人に手を伸ばしたら——」
ユーリの握力が僅かに強まり、ヴァルターの顔が歪んだ。
「——次は、ない」
「ぐっ……!」
ヴァルターがよろめくように後退った。ユーリが手を離す。
掴まれていた手首を押さえながら、ヴァルターはユーリを睨みつけた。
「き、貴様……! ただの商会員が……!」
「ただの商会員だよ。でも、この人を守るためなら何でもする」
ルイーゼの心臓が、一回だけ大きく跳ねた。
ユーリの横顔を見る。いつもの眼鏡の奥の、怯えた目はどこにもない。代わりにあるのは、研ぎ澄まされた静謐。——こんな顔できたの。
「ふざけるな……! 平民どもが……覚えていろ、ブレンハイム伯爵家の名にかけて、この商会を——」
「あー、はいはい」
ルイーゼがユーリの前に出て、ヴァルターに向き直った。
「伯爵家の名にかけて? その名前、今いくらの価値があるの? うちの商会の看板の方がよっぽど信用あるけど。——もういいから帰って。次来たら不法侵入で衛兵を呼ぶわよ」
「く……っ——!」
ヴァルターは歯を食いしばり、踵を返した。
だが、玄関に向かう足が途中で止まった。
振り返る。その目に、最後の意地のようなものが灯っていた。
「……覚えておけ、ルイーゼ。お前は所詮平民だ。どれだけ金を持っていようが、貴族に嫁げなければ、この国ではお前の商会は守られない。俺が必ずこの力で潰してやるからな」
満点の捨て台詞だった。
——その時、
「ヴァルター様、待って」
リリアーナの声だった。だが声色が違う。さっきまでの勝ち誇った響きは消え、代わりに困惑と驚愕が滲んでいる。
リリアーナの視線は、ユーリの首元に釘付けになっていた。
先ほどヴァルターの手首を掴んだ拍子に、シャツの襟がずれたのだろう。鎖骨の少し下に、小さな紋章の刺青が覗いている。交差した二本の剣と、翼を広げた鷲。
「その紋章……グランツ王国王家の……」
リリアーナの表情が凍りついた。
ユーリが襟元を押さえたが、遅かった。
「……なぜ、あなたがそれを知っている」
「わ、私は——グランツ王国の出身ですの。男爵家といっても、元は王都の貴族で……その紋章は、幼い頃から何度も見て——」
リリアーナの膝が、がくりと折れた。
「——まさか、行方不明になられた第三王子……?」
広間の空気が凍りついた。ヴァルターが呆然とし、護衛たちが互いに顔を見合わせている。ルイーゼの思考も止まった。
——は? 王子?
ユーリは長い息を吐いた。観念したように、丸眼鏡を外す。
「……隠すつもりだったんだけどな」
背筋が伸びた。いつもの猫背ではない。怯えた目ではなく、真っ直ぐな翡翠の瞳がヴァルターを見据える。
「ユーリエル・フォン・アールシュタイン。グランツ王国第三王子」
ユーリに先ほどまでの怒りはもうない。代わりに、生まれながらの高貴さが——隠しようもなく滲んでいた。
「ルイーゼ・ウェルネスは、俺が守る。——今この場で、正式に求婚する」
ルイーゼに向き直った。
翡翠の瞳が、真っ直ぐに。
「ルイーゼさん。俺と——結婚してください」
「ちょ、ちょっと待って——」
「この人に手を出すなら、グランツ王国への宣戦布告とみなす」
最後の一言は、ヴァルターに向けられていた。
ヴァルターの顔から、血の気が引いた。
グランツ王国。この国の東に位置する大国。軍事力でも経済力でも、この国を遥かに凌ぐ。その王子が求婚した女に手を出す——それは個人の喧嘩ではなく、国家間の問題になる。没落しかけた伯爵家に、大国の怒りを買う余力など欠片もない。
「ヴァ、ヴァルター様……」
リリアーナが震える声で言った。
「わ、私……知らなかったんですの……こんな方がいらっしゃるなんて……」
そしてリリアーナは、ルイーゼに向き直った。
「ウェルネス様……先ほどは、失礼を……」
ルイーゼは目を瞬いた。三ヶ月前、夜会で私を嘲笑っていた女が、今、頭を下げている。
「グランツ王国の王子様がお傍にいらっしゃるとは存じ上げず……ご無礼の数々、どうかお許しを……」
手のひら返しが、あまりにも鮮やかだった。
「リ、リリアーナ……! 何を——」
「ヴァルター様こそ、何をなさっているんですの!」
リリアーナがヴァルターを睨みつけた。
「大国の王子様に手を上げようとしたんですのよ!? これが王宮に知れたら、伯爵家どころかこの国全体が——」
「う、うるさい! お前は俺の味方だろう!」
「味方って——私、国を敵に回してまであなたに付き合うつもりはありませんわ!」
ルイーゼは、その光景を眺めていた。
——ああ、これが「本当の愛」とやらの正体か。駆け落ちの一つや二つ見せて欲しかった。
「……帰れ」
ユーリが静かに、しかし有無を言わせない声で告げた。
「次はない。この人に近づくな」
ヴァルターは何も言い返せなかった。リリアーナに腕を引かれ、逃げるように去っていく。
◇
玄関が閉まり、ルイーゼとユーリが二人きりで立っている。
数秒の沈黙の後——ユーリの背筋が、ふにゃっと崩れた。
「あ、あの……ルイーゼさん……」
——戻った。いつものユーリだ。顔が真っ赤で、目が泳いでいる。さっきまでの王子はどこに行った。
「ご、ごめんなさい……ずっと、黙ってて……」
「…………」
「い、嫌ですよね……騙してたようなもので……ほんとにごめん……」
「ユーリ」
「はいっ!」
「王子?」
「……は、はい……ほんとにごめんなさい……」
「いつから?」
「え、えっと……ルイーゼさんと出会った時から、ずっと……あの、七歳の時に——継承権を巡って、兄たちに命を狙われて……国を逃げ出して、こっちに来て……路地裏で飢えてたところを、ルイーゼさんのお父さんに拾ってもらって……」
記憶が甦った。父が連れてきた、痩せっぽちの男の子。何も喋らなくて、目だけが大きくて、ずっと震えていた。
ルイーゼが「あんた、名前は?」と聞いたら、小さな声で「ユーリ……」とだけ答えた。
あれが——王子だったのか。
「……十六年間、ずっと黙ってたのね」
「だ、だって……言ったら、ルイーゼさんが距離を取ると思って……。今のままがよかったんです。ルイーゼさんの隣で、お茶を淹れて、帳簿をつけて……それだけで、俺は……」
声が途中から掠れて、ユーリは一度言葉を切った。
「でも、さっきあいつがルイーゼさんに手を上げようとした時……もう、我慢できなくて……」
「……」
「ごめんなさい。……迷惑ですよね。急にこんなこと——」
「ユーリ」
「はいっ」
「ごめんじゃなくて、聞きたいことがあるの」
「……え?」
ルイーゼは真っ直ぐにユーリを見た。
「毎日のお弁当や胡桃のマフィン、生姜の蜂蜜茶と仕事が終わるまで帰らないのも——あれ、全部、どういうつもりだったの?」
ユーリの目が揺れた。耳から首まで真っ赤で、握りしめた手が震えている。
「……好き、だったから、です」
絞り出すような声で、ユーリは続けた。
「ずっと——ずっと好きでした。ルイーゼさんが、ヴァルターと婚約した日……一人で、泣きました。でも、ルイーゼさんが決めたことだから、俺がどうこう言う立場じゃないって……」」
「ユーリ」
「俺は王子とか関係なく、ただルイーゼさんの隣にいたくて——」
ルイーゼは一歩近づいて、ユーリの胸元に手を置いた。
心臓が、びっくりするほど速く鳴っていた。この、図体ばかり大きい臆病者の心臓が。
——なんだろう、この感じ。
ヴァルターの隣に五年間いても、一度も心が震えなかった。利害の一致だけの関係だったから。
でもこの子の心臓の音を聞いていると、自分の心臓まで釣られて速くなる。
毎朝の温かい紅茶も、ぬるめの温度も、猫舌を覚えていてくれることも、全部。全部、十六年間、好きだったから。
——ずるい。ほんとうにずるい。
「……結婚、してあげてもいいけど」
ユーリが息を呑んだ。
「え……えっ……?」
「条件があるわ」
「な、なんでも……!」
「明日から、胡桃のマフィンにチョコチップも入れて」
沈黙の後——ユーリの目から、涙がぽろっとこぼれた。
「……はい」
「あと、王子とか関係なく、今まで通り私の隣でお茶淹れてね。それがなくなるなら、婚約も何もいらないから」
「……はいっ……はい……!」
泣き笑い。子犬が尻尾を振るような、くしゃくしゃの笑顔。
ルイーゼの頬に、自分でも驚くほど自然に笑みが浮かんだ。ヴァルターの隣では一度も浮かべなかった、素の顔。
「……ユーリ」
「はい」
「好きよ」
さらっと言った。業務連絡みたいに。ユーリが石のように固まった。
耳から首、そして顔まで——真っ赤だ。
「……っ、ル、ルイーゼさん、急に、そういう——」
「事実を言っただけなんだけれど」
「事実でも心臓が持たないですっ……!」
ルイーゼは声を出して笑った。何年ぶりだろう、こんなふうに笑うのは。
ユーリといると、楽しい。温かいし、安心する。五年間、間違った場所にいたのだ。本当の居場所は、ずっとすぐ隣にあったのに。
「……ルイーゼさん」
「ん?」
「俺、一生、あなたの隣でお茶を淹れます」
「……はいはい」
「……一生、マフィンも焼きます」
「チョコチップ入りね」
「はい。——一生、あなたを守ります」
最後の一言だけ、声が変わった。おどおどでも、怯えでもない。静かで、深くて、揺るがない声。
あの瞬間——ヴァルターの前に立ちはだかった時と、同じ声。
ルイーゼの胸の奥で、何かが温かく弾けた。
「……知ってるわ」
目を逸らした。逸らさないと、泣きそうだったから。
「——知ってるから、選んだんでしょ」
窓の外から、夏の夕暮れの光が差し込んでいた。
ユーリの手が、そっとルイーゼの手を取った。
大きくて、少しだけ汗ばんでいて、震えている。——十六年間、ずっとこの手が隣にあったのだ。
「……ユーリ」
「はい」
「お茶、淹れて」
「……え? 今、ですか?」
ユーリが泣き笑いのような顔で頷き、繋いだ手を離して奥へ駆けていく。
その背中を見送りながら、ルイーゼは窓辺に寄りかかった。夕陽が、商会の床を橙色に染めている。
廊下の奥から、カップを持ったユーリが戻ってくる足音が聞こえた。ルイーゼは窓の外を見たまま、小さく笑った。
平民と、王子。商会長と、経理係。
肩書きなんて、最初から関係なかった。
必要だったのは——隣で、温かい飲み物を差し出してくれる温かい手だけだった。
そしてこの手は、もう離さない。




