第4話 炎の花束/紙の山
起きたのは、夜半を過ぎた頃だった。
正確には眠っていない。机の端に突っ伏して、少し遠くなっていた意識が、回廊の向こうから来た音で戻ってきた。拍手の音だ。王宮の夜会は、まだ終わっていなかった。
手の甲に、インクの跡がついていた。72巻の第12冊、索引の続きを書いている途中で止まっていたらしい。窓の外、離宮の方角に明かりが集まっている。そこだけが橙色に染まって、夜の中で妙に賑やかだった。
炎華、とわたくしは胸の中で呟いた。
リゼット嬢の魔法だ。炎を花びらの形に変えて散らす、派手な現象系の術。夜会の場でこれを使われると、人が集まる。声が上がる。拍手が起きる。わたくしは1度だけ、廊下越しに見たことがある。それは確かに美しかった。
机の上の12冊目に視線を落とす。表紙に、外交条約の参照番号が並んでいる。2行目が少しずれた。修正は明日でいい。今夜中に第12冊の骨格を終わらせれば、3日の期限が保てる。
窓の外でまた拍手が起きた。わたくしは窓には向かわなかった。
あの花束はいつか燃えて終わる。今夜のうちに。でもこの12冊目の背表紙に刻んだ参照番号は、手続きを踏んだ者が書庫を開くたびに読まれる。10年後も、20年後も。名前は残らない。ただ、番号だけが残る。
どちらがいいとか、どちらが正しいとか、そういうことではない。ただ、わたくしにはこちらしかできない。炎を花びらに変える術を持たないわたくしには。
羽根ペンを置いて、背もたれに身を預けた。
指先に、紙の冷たさが残っている。今夜中にあと2頁。明日の朝までに第12冊を閉じれば、残りは60冊。1日20冊、それで3日で終わる。計算は合っている。体が持つかどうかは別の話だ。
記録魔法は疲れる。ただ記録するだけに見えて、分類と索引を同時に構築しながら走らせると、翌朝には指の感覚が薄くなる。5年間、それを積み重ねてきた。もう慣れた、と言いたいところだが、慣れるというよりは、わかっていてやめられない、の方が正確だ。
窓の外の明かりが、ゆっくりと揺れた。花が散っているのかもしれなかった。
翌朝。
自室の机の上に、手紙が乗っていた。
伯爵家の封蝋だ。便箋を折る指が丁寧すぎる。父は何かを書く時、体裁を先に整えてから中身を決める。それを、わたくしは記録魔法で正確に覚えている。覚えたくなくても、覚えている。
封を切った。文面は短かった。
「婚約破棄の報、届いた。戻ってきなさい。話はある」
それだけだった。
話はある、という三文字がわかりやすい。話というのは、次の縁談の話だろう。伯爵家にとって、娘は縁談の盤面に置く石だ。それはわかっていた。わかっていて、5年間ここにいた。
戻ったら、次の婚約が始まる。またどこかの誰かの「引き継ぎ先」として、机の上に置かれる。それが家を守ることだ、と父は信じている。信じているから、悪意はない。悪意がないだけに、返す言葉を選ぶのが難しい。
手紙を机の隅に置いた。
窓から外を見た。朝の光が石畳に落ちている。王宮の庭は静かだ。昨夜の夜会は終わり、炎花の痕跡も跡形もない。きれいに燃えて、消えた。
戻れば守られる。父の言葉は嘘ではない。屋根があり、食事があり、縁談という次の手が用意されている。それは確かに安全だ。
でも。
わたくしは引き出しを開けた。
そこに、昨夜畳んで入れておいた紙がある。昨日の夜、掲示板の前を通った時に外してきた。正確には外していい立場ではないかもしれないが、掲示期限の過ぎたものだったし、誰かが確認している様子もなかった。
辺境公爵領の書庫係、求人の切り抜きだ。
開いた。
細かい文字が並んでいる。応募条件、仕事内容、待遇。それを全部読んでから、最後にまた、あの一文を目で追った。
「根気のある者、求む」
そこだけ太字だ。他の文字よりインクが濃い。掲示板の他の切り抜きとインクの質が違う。後から書き足したような、不自然な太さだった。
誰が、書き足した。
昨夜の問いが、また戻ってくる。誰かが意図して太字にした。目立つように。読む人間に止まらせるために。求人欄の一文をわざわざ書き直す手間をかける人間が、何を待っているのか。
応募欄の空白に、指を当てた。
名前を書く欄がある。所属と身分を書く欄がある。現在の欄は全部空白で、紙の目が細かく、書き心地のよさそうな羊皮紙だった。
戻れば安全だ。父の言葉は本当だ。でも安全な場所にいる間は、この空白に何も書かれないままになる。
条件が根気だけなら。
わたくしは胸の中だけで、声に出さず言った。
それはわたくしの得意分野だ。5年間、誰に頼まれなくても棚の前に立ち続けたわたくしの、唯一の強みといっていい。炎が出ない。花が咲かない。ただ、やめない。それだけだ。
荷造りをしよう、と思ったのはその時だった。
決断というほど大げさなものではない。ただ、次に何をするかが、するりと決まった感覚があった。72巻を終わらせる。引き継ぎを渡す。それから、この欄に名前を書く。
机の引き出しを開け直した。手袋を確認する。書庫用の薄い布手袋が、どういうわけか右の奥に4枚まとまっている。左の奥には6枚。合わせて10枚。羽根ペンが3本、予備のインク壺が2つ。全部で荷にすると、鞄が一つでは足りないかもしれない。
もう1度、求人の切り抜きを見た。
辺境まで、馬車で8日。
8日で着く場所に、太字の一文がある。誰かがわざわざ目立たせた、あの一文が。
窓の外の石畳は、もう陽が高くなって明るかった。昨夜の炎花は残っていない。でもわたくしの指の腹には、まだ今朝の紙の冷たさが残っている。
どちらが未来か、と聞かれたら、わたくしはどちらとも答えない。ただ、どちらの感触が自分のものか、それだけは正確にわかっている。
引き出しを閉めた。机に向かい直した。12冊目の続きを開く。
戻らない、とはまだ紙には書いていない。でも今この瞬間、胸の中で1行だけ、確かに記録した。
戻らない、と。
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