第3話 後任不在、静かな確定
棚が崩れた音で、目が覚めた。
正確には眠ってなどいなかった。ただ、机の上で集中が途切れかけていたのだと思う。72巻の第3日目、午前の早い時間だ。
音は書庫の奥、D列の方から来た。
「す、すみません! わたし、ただ棚を整えようとして……」
下働きの少女が、崩れた文書の山の前に立って真っ青になっていた。棚の端材がずれて、文書の束が3段分、ばらばらに落ちている。落ちた文書の数をわたくしは一瞬で数えた。27枚。うち、上向きに開いているもの12枚。
問題は、枚数ではなかった。
「……これは」
床に落ちた束の1枚を手で取り上げた。羊皮紙の端、右下に小さな赤い文字。
「更新期限:30日」。
文書のそれ自体は、外交条約の補足覚書だ。D列に収まるものではない。本来の場所はB列の4段目、外交分類の第2区分。
いつから、ここにあった。
「……あの、その文書、何か問題がございますか」
少女が震える声で聞いた。わたくしは床に視線を走らせた。崩れた27枚のうち、場所の違うものがさらにある。薄緑の紙片、白地に細い横罫、書式が違う。
「棚番号を確認します。触らないでください」
少しだけ声が鋭くなった。少女が身を縮めたのが気配でわかった。責めたくはなかった。ただ、触れた順番と位置を記録しなければならない。記録魔法は正直だ。今この瞬間に見たものを、1字1句残していく。
5分で照合は終わった。
D列に混入していた文書は全部で11枚。出所はA列・B列・C列、それぞれ異なる分類区分。誰かが間違って戻したのか、もともとの分類が不完全だったのか、それとも別の手が入ったのか。
後者2つは、5年前のことだ。わたくしが書庫に来た時、すでに混在していた可能性がある。記録を精査すれば判明する。ただし今すぐ確認できる保証はない。72巻の進捗を止めれば、3日の期限が崩れる。
ベルトランが奥から足早にやってきた。
「どうなさいましたか。音がしたので……」
崩れた棚を見た瞬間、彼の顔が白くなった。それから床の文書に目を落として、唇が動いた。棚番号を数えているのだ。1、2、3、5――また4を飛ばした。深く息をついて、もう1度。1、2、3、4、5。今度は全部数えた。
「……B列の、第2区分が」
「はい。混入していました」
わたくしは参照台帳を開いて、該当の索引札を取り出した。11枚の文書のうち、更新期限が残り30日以内のものが3枚。そのうち1枚は、隣国との覚書で、返答期限が実質15日だ。
「照合は済みました。3枚は期限が近い。今すぐ処理が必要なのは1枚です」
ベルトランが口を開きかけて、止まった。
「……誰が、確認を」
静かな問いだった。誰が確認するか、ではない。本当は「誰がこれを理解して処理できるか」を聞いている。
書庫内に今いる全員の顔が、わたくしの頭の中を通り過ぎた。ベルトラン、下働きの少女、午後から来る補助の2人。全員が真面目だ。全員が誠実だ。ただ、参照台帳の引き方も、覚書の書式確認の手順も、まだ知らない。
「引き継ぎはしました」
わたくしは目を上げた。
「……救済までは、契約外です」
静寂が1段、深くなった。
ベルトランが「……それは困る」と呟いた。いつもの口癖だ。でも今日の声に、以前と違うものが混じっていた。怒りでも懇願でもない。もっと静かな、諦めに近いものだ。
わたくしの胸の中で、何かが動いた。
手伝いたい、と思った。思ってしまった。ベルトランの困り顔を見ると、少女の青い顔を見ると、11枚の文書を見ると――助けたい衝動が、喉まで上がってくる。5年間、ずっとそうだった。誰も頼んでいないのに棚の前に立って、気がつけば手が動いていた。
でも。
わたくしは索引札を揃えた。指の腹が紙の端に触れる。
ここから先に手を伸ばしたら、3日後に去ることができなくなる。1枚助けたら、もう1枚が出てくる。出てくるたびに手を伸ばしていたら、それはもう「去ること」ではない。5年前の最初の夜に逆戻りだ。
違う。それは違う。
慣れた感覚を、飲み込んだ。
「読めないなら、触らないでください」
言葉が、思ったより静かに出た。
「……触れた記録は、残ります」
下働きの少女が、息を呑んだ。ベルトランが目を細めた。責めているように聞こえたかもしれない。そうではない。ただの事実だ。記録魔法は、誰が触れたかも残す。間違いを犯した跡が、そのまま台帳に刻まれる。
悪意のある脅しではない。でも、今の書庫でこの言葉がどう聞こえるかは、わかっていた。
棚を離れた。廊下へ出る前に、もう1度だけ振り返った。
崩れた棚の横で、ベルトランが羊皮紙の端を持ったまま立っている。腕の中の束が重そうだ。少女は床に残った文書をどうしていいかわからなくて、腰をかがめたまま固まっている。
わたくしは背表紙に手を伸ばしかけて、止めた。
廊下に出ると、回廊の石が冷たかった。昨日より風が強い。灯りが揺れて、影が長く伸びた。足音だけが響く。
助けたかった、と胸の中で思った。でも助けなかった。それが正しい、と頭では知っている。頭では。
引き継ぎ書は72巻、3日で仕上げると決めた。それは変わらない。
自室に戻る前に、書庫の掲示板の前を通った。王都の新聞の切り抜きが何枚か貼ってある。告知、求人、行事のお知らせ。
足が、止まった。
1枚だけ、インクの色が違う切り抜きがあった。求人欄の小さな囲み。辺境公爵領の書庫係を募集する短い文章。ほとんどの文字は細い普通の書体なのに、ひとつだけ太字になっている一文がある。
「根気のある者、求む」
そこだけ、妙に目に入る。掲示板の他の文字とインクの質が違う。後から書き足したような、太さだった。
誰が、こんな太字にした。
その問いだけが、廊下の冷たさの中に、残った。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




