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「連載版」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第4章 王命と欠けた守秘誓約

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第21話 守秘誓約――文末だけ欠ける

 神殿の回廊に足を踏み入れた瞬間、人が多すぎることに気がついた。

 参拝者の装いをしている。でも手を止めて壁際に立ち、こちらへ視線を向ける人間が、午前の回廊には多すぎる。仕事の間に一瞥するのとは違う。値踏みするような、あるいはどこかに報告するような目だ。わたくしは索引札の小箱を胸の前で持ち直した。中身は空ではない。でも今朝は手が落ち着かなくて、空の区画に指が触れるたびにひやりとした。空欄は怖い。それは今に始まった話ではないけれど、今日は特別に冷たく感じた。昨日の「別紙参照」の下の空白が、まだ目の裏に残っている。


 半歩前をレオンハルト殿が歩いている。その背が、回廊の両側からの視線をまとめて受け止めている。公爵が書庫の女を連れて神殿へ来た、という話は、明日の朝には城下に回るだろう。噂より先に手続きを済ませればいい。それだけのことだ。


「歩くのを止めないでください」


 後ろからロイドの声が静かに落ちた。囁きではない。反響しない絶妙な音量だった。この人は、音まで計算する。


「わかっています」


 わたくしは答えて、歩みを続けた。


―――


 台帳係の机は、回廊の奥の細い部屋に設えられていた。羊皮紙の粉が空気に漂い、鼻の奥をつつくような匂いがする。三十代ほどの担当者は、袖口に白い粉を薄くつけたまま顔を上げた。公爵が来たことに驚いたのだろう、目が一段、硬くなった。


「守秘誓約の照合をお願いしたい」


 レオンハルト殿が申請書を机に滑らせると、担当者は3度、紙の角を揃え直してから受け取った。


「……規定上、照合には時間をいただきます」


 待つ間、わたくしは小箱の縁を指で撫でていた。背表紙の手触りがない場所だったから、どこか落ち着かなかった。


 台帳が引き出され、開かれた。


 担当者の指が、羊皮紙を1枚、また1枚とめくっていく。その手が、途中で止まった。


「……文末が、欠けています」


 声が小さくなった。小さいのに、部屋がもっと静かになった気がした。


「どの範囲が欠けているか、確認させてください」


 わたくしは前に出た。担当者が少し迷ってから、台帳をこちらへ向ける。


 条文の末尾だった。整った筆跡で「……守秘誓約の対象は記録魔法の使用を制限するものとし、除く――」。


 そこで、紙が破れていた。


 「除く」の2文字だけが残り、後ろには何もない。破れた端が、薄暗い室内に白くはみ出している。


 わたくしは指先で、その端を押さえた。


 欠けている。


 欠けたまま、命令してきた。


 胸の中で、静かに何かが音を立てた。怒りではない。もっと冷たく、もっと透明なもの――「欺かれていた」と気づいた時に骨の芯に流れ込む、あの感触だ。指は紙の端を離さなかった。「除く」の2文字が、わたくしの指先の下で呼吸している。欠けているのに、ここだけ残っている。それが何より不自然で、だからこそ、何かを示している気がした。


「……規定上、文末に欠損がある場合、写しの発行は保留となります」


 担当者が、紙の角を揃えるように言葉を揃えた。そこで羊皮紙の粉がまた舞い、担当者の顔がわずかにゆがんだ。くしゃみを必死に堪えている。「……失礼」と目を細めて、彼は続けた。


「ただし、二重印が揃えば――照合の手順が一段、早まります」


 それだけ言って、担当者は顔を引っ込めた。答えは出さない。でも道だけは置いていった。


 後ろでロイドが、真顔のまま静かに呟いた。


「神聖な粉でございますね」


 笑ってはいけなかった。でも、肩の固さが1粒分だけほどけた。


―――


 写しの読み合わせのため場を移した小部屋は、2人と1枚の机が収まるほどの広さしかなかった。


 レオンハルト殿が机の向こうに立ち、わたくしが写しを広げた。同じ紙の、同じ場所を、2人で見る。それが今日初めてのことで、だからどこか息のつき方がわからなかった。


「条文が欠けています。……欠けたまま命令するのは、卑怯です」


 声に出したら、思っていたより静かだった。でも芯はあった。


「……そうだな」


 レオンハルト殿が短く答えた。机の上のカップの位置をそっと直す。1度、2度、3度。


 わたくしは写しの端に指を置いた。「除く」の2文字が、欠けの手前で止まっている。


 この2文字が、怖かった。


 でも、今日から違う見え方がする。


 例外が、あった。あったからこそ、「除く」が残っている。外せる首輪が、本来は存在した。それを誰かが持っていった。ということは、持っていった誰かが存在する。存在するということは、証拠がある。証拠があれば、紙で追える。


 肩の力が、静かに集まった。抜けたのではない。集まった。逃げるためではなく、踏み込むための力に。


「紙は嘘をつけない」


 声が小さくても、狭い部屋で届く。


「――だから、紙で止めます」


 顔を上げると、レオンハルト殿がこちらを見ていた。いつもは感情の読みにくい紺の瞳だが、今日は少しだけ違う。言葉を探している人の目、だと思った。見つかりそうで、見つからない。その不器用な間が、不思議と痛くなかった。


 わたくしも、礼を言う一言がまだ喉に詰まったままだった。


―――


 帰路の馬車は、石畳を踏む音だけが響いた。


 沈黙だったが、今日のそれは重くなかった。同じ紙を挟んで同じ方向を向いた後の静けさは、以前の沈黙とどこかが違う。わたくしは小箱の縁を指で撫でながら、今日確かめたことを頭の中で並べ直していた。


 欠けがある。


 欠けがある、ということは、欠けている場所がある。


 欠けているということは――どこかに、続きがある。


「…………」


 馬車の揺れで、視界が少し流れた。


 声に出したつもりはなかったが、唇が動いていたかもしれない。


「除くの後ろを、誰が持っていきましたか」


 レオンハルト殿が顔を上げた。


 答えは来なかった。


 でも彼の目が、初めて「探す」の形をした気がした。馬車の窓から差し込む光が、その紺の瞳の中で一瞬だけ鋭くなった。


 わたくしはもう1度、小箱の縁を撫でた。空欄が1つあることを、指が覚えている。


 「除く」の後ろは、誰かが持っている。


 だとすれば――それを持っている者を、紙で追えるはずだ。


 答えが来るより先に、馬車が城門を抜けた。

読んでいただき、ありがとうございます。


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