第21話 守秘誓約――文末だけ欠ける
神殿の回廊に足を踏み入れた瞬間、人が多すぎることに気がついた。
参拝者の装いをしている。でも手を止めて壁際に立ち、こちらへ視線を向ける人間が、午前の回廊には多すぎる。仕事の間に一瞥するのとは違う。値踏みするような、あるいはどこかに報告するような目だ。わたくしは索引札の小箱を胸の前で持ち直した。中身は空ではない。でも今朝は手が落ち着かなくて、空の区画に指が触れるたびにひやりとした。空欄は怖い。それは今に始まった話ではないけれど、今日は特別に冷たく感じた。昨日の「別紙参照」の下の空白が、まだ目の裏に残っている。
半歩前をレオンハルト殿が歩いている。その背が、回廊の両側からの視線をまとめて受け止めている。公爵が書庫の女を連れて神殿へ来た、という話は、明日の朝には城下に回るだろう。噂より先に手続きを済ませればいい。それだけのことだ。
「歩くのを止めないでください」
後ろからロイドの声が静かに落ちた。囁きではない。反響しない絶妙な音量だった。この人は、音まで計算する。
「わかっています」
わたくしは答えて、歩みを続けた。
―――
台帳係の机は、回廊の奥の細い部屋に設えられていた。羊皮紙の粉が空気に漂い、鼻の奥をつつくような匂いがする。三十代ほどの担当者は、袖口に白い粉を薄くつけたまま顔を上げた。公爵が来たことに驚いたのだろう、目が一段、硬くなった。
「守秘誓約の照合をお願いしたい」
レオンハルト殿が申請書を机に滑らせると、担当者は3度、紙の角を揃え直してから受け取った。
「……規定上、照合には時間をいただきます」
待つ間、わたくしは小箱の縁を指で撫でていた。背表紙の手触りがない場所だったから、どこか落ち着かなかった。
台帳が引き出され、開かれた。
担当者の指が、羊皮紙を1枚、また1枚とめくっていく。その手が、途中で止まった。
「……文末が、欠けています」
声が小さくなった。小さいのに、部屋がもっと静かになった気がした。
「どの範囲が欠けているか、確認させてください」
わたくしは前に出た。担当者が少し迷ってから、台帳をこちらへ向ける。
条文の末尾だった。整った筆跡で「……守秘誓約の対象は記録魔法の使用を制限するものとし、除く――」。
そこで、紙が破れていた。
「除く」の2文字だけが残り、後ろには何もない。破れた端が、薄暗い室内に白くはみ出している。
わたくしは指先で、その端を押さえた。
欠けている。
欠けたまま、命令してきた。
胸の中で、静かに何かが音を立てた。怒りではない。もっと冷たく、もっと透明なもの――「欺かれていた」と気づいた時に骨の芯に流れ込む、あの感触だ。指は紙の端を離さなかった。「除く」の2文字が、わたくしの指先の下で呼吸している。欠けているのに、ここだけ残っている。それが何より不自然で、だからこそ、何かを示している気がした。
「……規定上、文末に欠損がある場合、写しの発行は保留となります」
担当者が、紙の角を揃えるように言葉を揃えた。そこで羊皮紙の粉がまた舞い、担当者の顔がわずかにゆがんだ。くしゃみを必死に堪えている。「……失礼」と目を細めて、彼は続けた。
「ただし、二重印が揃えば――照合の手順が一段、早まります」
それだけ言って、担当者は顔を引っ込めた。答えは出さない。でも道だけは置いていった。
後ろでロイドが、真顔のまま静かに呟いた。
「神聖な粉でございますね」
笑ってはいけなかった。でも、肩の固さが1粒分だけほどけた。
―――
写しの読み合わせのため場を移した小部屋は、2人と1枚の机が収まるほどの広さしかなかった。
レオンハルト殿が机の向こうに立ち、わたくしが写しを広げた。同じ紙の、同じ場所を、2人で見る。それが今日初めてのことで、だからどこか息のつき方がわからなかった。
「条文が欠けています。……欠けたまま命令するのは、卑怯です」
声に出したら、思っていたより静かだった。でも芯はあった。
「……そうだな」
レオンハルト殿が短く答えた。机の上のカップの位置をそっと直す。1度、2度、3度。
わたくしは写しの端に指を置いた。「除く」の2文字が、欠けの手前で止まっている。
この2文字が、怖かった。
でも、今日から違う見え方がする。
例外が、あった。あったからこそ、「除く」が残っている。外せる首輪が、本来は存在した。それを誰かが持っていった。ということは、持っていった誰かが存在する。存在するということは、証拠がある。証拠があれば、紙で追える。
肩の力が、静かに集まった。抜けたのではない。集まった。逃げるためではなく、踏み込むための力に。
「紙は嘘をつけない」
声が小さくても、狭い部屋で届く。
「――だから、紙で止めます」
顔を上げると、レオンハルト殿がこちらを見ていた。いつもは感情の読みにくい紺の瞳だが、今日は少しだけ違う。言葉を探している人の目、だと思った。見つかりそうで、見つからない。その不器用な間が、不思議と痛くなかった。
わたくしも、礼を言う一言がまだ喉に詰まったままだった。
―――
帰路の馬車は、石畳を踏む音だけが響いた。
沈黙だったが、今日のそれは重くなかった。同じ紙を挟んで同じ方向を向いた後の静けさは、以前の沈黙とどこかが違う。わたくしは小箱の縁を指で撫でながら、今日確かめたことを頭の中で並べ直していた。
欠けがある。
欠けがある、ということは、欠けている場所がある。
欠けているということは――どこかに、続きがある。
「…………」
馬車の揺れで、視界が少し流れた。
声に出したつもりはなかったが、唇が動いていたかもしれない。
「除くの後ろを、誰が持っていきましたか」
レオンハルト殿が顔を上げた。
答えは来なかった。
でも彼の目が、初めて「探す」の形をした気がした。馬車の窓から差し込む光が、その紺の瞳の中で一瞬だけ鋭くなった。
わたくしはもう1度、小箱の縁を撫でた。空欄が1つあることを、指が覚えている。
「除く」の後ろは、誰かが持っている。
だとすれば――それを持っている者を、紙で追えるはずだ。
答えが来るより先に、馬車が城門を抜けた。
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