第20話 帰還命令、猶予はわずか
封蝋が割れた音は、小さかった。
王命が届いたのは翌朝のことだ。朝食の前、ロイドが廊下を歩く足音と、執務室の扉を叩く音が重なった。その組み合わせを、わたくしは書庫の中で聞いた。そういう朝は、だいたいよくないことが起きる。索引札の小箱を引き出しに戻し、廊下に出た。
ロイドが書状を捧げ持つ手が、今日もひどく丁寧だ。白い手袋が朱色の蝋に触れる前に、1ミリずつ力を計算している。昨日と同じ所作だ。ただし昨日と違うのは、封蝋の割れ方だった。
「王都式……ですね」
ロイドが小声で言いながら、封蝋の縁を指先でそっと確かめた。蝋の縁が整いすぎている。道中の揺れを考えれば不自然なほど、割れ口が均一だ。ロイドは何か言いかけて、飲み込んだ。わたくしも聞かなかった。言わないことには理由がある。その形を、索引の端に静かに留めておく。
書状は執務室に運ばれた。わたくしは同行しなかった。
書庫に戻り、昨日ベルトランが置いていった書状の複写を机の端に置いた。「別紙」とだけ書かれた行が中段にある。参照番号のはずの空欄が、そこにある。昨夜も確かめた場所だ。
王命の写しが届いたのは、1刻ほど経ってからだった。
ロイドがノックして1枚だけ差し入れてきた。封を開けた後の写しだ。原本は殿下が保管する。ここでは写しで読め、ということだ。
広げた。
最初の行から、「期限」という言葉が3度出てきた。2行目、5行目、9行目。文章の骨格は帰還命令だが、その骨に沿って「期限」だけが繰り返し打ち込まれている。肉の部分――事情、配慮、例外の余地――は薄い。
猶予は、3日。
7行目に、守秘誓約への言及があった。ただしその下に「別紙参照」とあるだけで、別紙がない。添付のはずの条文が、ここにもない。
指先が止まった。
「別紙参照」という文字の下の空白を、もう1度確かめた。のりの跡も、切り取り痕もない。最初から、なかった。
頭の中で、何かが音もなく向きを変えた。
帰還させたいのではない。帰還できないなら、魔法を使えないようにする。そのための条文を「別紙」として添付するつもりだったか、あるいは添付できなかったか。どちらにせよ、この王命の目的はわたくしではない。「記録魔法の使い手」という機能だ。帰還が叶わないなら、機能を止める。それだけが、この紙の中心にある。
赤字の「期限」が、3か所で光っている。
怒りは来なかった。代わりに、胸のどこかが静かに冷えた。冷えたまま、固まった。
整理しなければ、と思った。
王命の写しを折り、索引札の小箱の隣に立てた。「別紙」の欠けは、もう1度確かめる必要がある。欠けたまま発効した命令が何を意味するか。それを紙で抑えるには、どの手順を踏むか。考えている途中で、扉が開いた。ノックがなかった。
「城の外に出るな」
殿下の声だった。
わたくしは写しを机に伏せた。振り返らずに答えた。
「理由を聞かせていただけますか」
「王命が出た。次の1手が読めない間は、動かせない」
「……わかりました」
「わかりました」と言った。ただし、「了承しました」とは言っていない。その差を、殿下はたぶん聞き逃した。
殿下がカップを取り上げる音がした。机の端に置く音がして、位置を直す音がして、また別の場所に移す音がして、最後に元の位置に戻る音がした。3回。
わたくしは笑いそうになった。堪えた。
「城の外、というのはどこまでですか」
「……城壁の内側」
「書庫の窓は、内側です」
1拍、間があった。
「……内側だ」
それ以上は続かなかった。殿下が息を呑む音がして、カップをまた直した。4回目だ。今度は元の場所には戻らなかった。
守る、という言葉が鎖に聞こえることがある。聞こえる、と知っていても、口には出せない。出したところで何が変わるかを、わたくしはまだ言葉に組んでいない。組み終わるより、期限のほうが先に来そうだ。
殿下が書庫を出た後、静けさが戻った。
ロイドが入れ替わりで顔を出したのは、午後遅い時間だった。手袋の白さが夕陽で少しだけ橙に見える。
「神殿から書状が参りました」
差し出された1枚を受け取った。封蝋はすでに割られている。原本は殿下だろう。
「誓約印の照合が必要、とのことです。ただし――」
ロイドが目線だけ上げた。
「添付の参照番号が、1か所、空欄になっております」
受け取って確かめた。神殿事務の整った文字で連番が並ぶ中、1つだけ空白がある。番号ではなく、番号があるべき場所に、何もない。
昨日の別紙。今日の王命の別紙。そして今度は神殿からの書状にも欠けた番号。
空欄が、連なっている。
偶然とは思えない。思えないまま、どう整理するかの言葉は、まだ来なかった。
「最善でございます」
ロイドが真顔で言った。わたくしは半拍だけ考えた。
「……何が、ですか」
「神殿が動いたことが、でございます」
確かに、そうかもしれない。動き方に整合しない点はまだある。だが、動いていることは動いている。それは前に進んでいる。索引として受け取ることにした。
「ロイド」
「はい」
「菓子皿を1枚余計に置くのは、最善ですか」
ロイドの視線が、机の隅の皿に落ちた。1拍の沈黙の後、真顔のまま答えた。
「……最善でございます」
夜が来た。
廊下に出たのは、書庫の灯りが揺れ始めた頃だ。窓の外では風が出ている。城壁の内側、書庫の窓――殿下の言葉が、まだ頭の中を回っている。
棚の端に置いてある1冊の背表紙を、指先でそっと撫でた。ざらりとした感触が指の腹に落ちてくる。息が、少しだけ整う。
逃げない。
声にしなかった。声にする必要のない言葉だ。ただ確かめるために、もう1度なぞった。
選ぶ。
王命が機能を狙うなら、その証拠を紙で抑える。別紙の欠けを、別紙の欠けとして記録する。手順を踏んで、順番で押す。それがわたくしのやり方だ。「記録は尊厳。人を機能で扱うなら、紙で止める」と、3年前に自分が書いた1行を、今夜また手の中に置いた。
ただし、猶予は3日しかない。
窓の外で風が1段強くなった。灯りが揺れ、棚の影が伸びた。索引札の小箱の端に、「更新期限:30日」の赤字がまだある。王命の赤字と、小箱の赤字が、今夜は同じ色に見えた。
別紙の欠けは、誰が持っていったのか。欠けたまま命令する紙が、明日もこの机に存在する。
その答えを見つけるまで、わたくしは城壁の内側にいる。
期限まで、3日。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




