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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第3章 噂の刃、鍵穴の痕

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第14話  守りたいのに言えない

 朝一番に、廊下の空気が変わった。


 昨日まで2人だった扉の前の警備が、3人になっていた。しかも、そのうちの1人が書庫側の角に立っている。書庫の入口を視野に収められる、計算された配置だ。


 わたくしは足を止めて、その景色を10秒ほど眺めた。


  胸の奥で、何か固い感触が浮かび上がってくる。鍵の感触に似ている。錆びた鍵が、古い扉の前で回らなくなる、あの冷えた感触。


  気のせいだと思いたかった。


 でも、体の記憶というのは正直だ。「同席が増えた」と気づいた瞬間から、足の裏が少しだけ重くなる。王宮でも同じだった。侍従が増えるたびに、空気が薄くなっていった。


 ただの警備だ、とわたくしは自分に言い聞かせた。


  昨日、ギルドで取引が止まった。噂が動いた。何か起きたのなら、警備を増やすのは当然の判断だ。閣下の判断は正しい。


 正しいのに、なぜ、胸の中にこの重さがあるのだろう。


  わたくしは書庫の鍵を握り直し、廊下を進んだ。




 書庫の入口に鍵を差し込みながら、廊下の奥でレオン閣下とロイドが何かを話しているのが見えた。


  正確には、声まで届かない。ただ、閣下の横顔だけが見えた。いつもより少し、眉間の皺が深い。それだけで、昨夜も眠れていないのだとわかった。


「セレスティーヌさま」


 背後から声が来て、わたくしは鍵から手を離さないまま振り返った。ロイドが小走りで近づいてくる。


「書庫の鍵の扱いについて、確認させていただけますか。このまま閣下との共有を……いえ、保管の手順を――」


  言いながら、ロイドが口を閉じた。何かを言い直そうとして、また閉じた。その繰り返しを3回ほど見届けてから、わたくしはゆっくりと口を開いた。


「鍵は、わたくしが単独で保管します。書庫への入室記録は閲覧記録簿に全件残します。それが不足なら、出入り札を追加してください。何をお望みか、率直に言っていただいたほうが、お互いに楽ですよ」


 ロイドが一瞬だけ目を細めた。気まずそうに、ではなく、困ったように。


「……その、監視ではないんです。断じて」


「存じています」


「本当に、閣下は――」


「ロイドさん」


  わたくしは少し、声を低くした。意図してそうしたわけではない。ただ、先を続けられなかった。


「わかっています。ですから、続きは要りません」


 ロイドが何か言いたそうに、唇を開きかけた。でも、わたくしが扉を押した瞬間に、彼は一歩退いた。




 机に向かって、昨日の出来事を順番に書き起こした。


 ギルドの窓口で告げられた言葉。返事に詰まった瞬間。ロイドが菓子皿を増やしたこと。わたくしが「そこじゃない」と小声で言ったこと。帰り道、閣下の足音が一歩だけ遅くなったこと。


  全部、記録した。


  記録すると、少し楽になる。頭の中だけに入れておくと、感情が文字に滲んで輪郭が曖昧になる。でも、紙に写すと、出来事と感情が分離する。


 あのとき、閣下は何も言わなかった。


  言わないことと、何も考えていないことは、違う。わかっている。


  でも、わかっていても、胸の中の鍵はまだ回らなかった。


  机の端に積まれた紙束に、目が止まる。"3日以内に要対応"の赤字が、一番上に見えた。昨日より1枚少ない。誰かが動かしたのか、消化されたのか。


 わたくしは赤字をもう一度眺めて、視線を戻した。




 昼過ぎ、レオン閣下が書庫に来た。


  予告はない。足音を聞いて、わたくしはペンを止めた。


  閣下は通路の棚を一度だけ見渡してから、わたくしの机の前に立った。椅子を引いて座ることはしない。ただ、立ったまま、棚の方向を見ている。


沈黙が、15秒ほど続いた。


「……護衛を増やした」


 言わなくてもわかっています、とは言わなかった。


「はい、気づきました」


「理由は――」


「言わなくて構いません」


  閣下の横顔が、一瞬だけ動いた。眉間ではなく、目の端。


「城から出るな、と言うつもりだったが」


「命令なら従えます」


 わたくしは手元のペンを置いて、閣下を見た。


「ですが、気遣いを命令にしないでください」


  部屋の空気が、少し冷えた気がした。閣下が何かを言おうとして、止まった。止まったまま、また棚の方向を見る。


「……命令ではない」


「では、何ですか」


  聞きながら、少し後悔した。聞くべきではなかったかもしれない。答えが返ってこない種類の問いだと、わかっていたから。


 閣下の指が、机の縁に一度だけ触れた。それだけだった。


「君が――」


 声が、途中で止まった。


 わたくしは、続きを待った。待ったまま、閣下が口を閉じるのを見た。


「……気をつけてくれ」


 それだけだった。




  閣下が扉を出ていってから、わたくしはしばらく机の前で動かなかった。


「仕事ですか、本音ですか」と、言えばよかった。言えなかった。


  言ったとして、何が変わるのかわからなかった。


 変わらなかったとしても、聞きたかったのかもしれない。


 わたくしは目を細めて、机の上の紙束を見た。赤字の期限が、また1枚、上に来ている。3日のカウントが、静かに減り続けている。


 ふと、索引箱に目が止まった。


  角が、わずかにズレている。昨日、確認したときより、ほんの少しだけ。


 わたくしは席を立ち、箱の前に膝をついた。指先で蓋の端を確認する。留め具の表面に、うっすらとした粉の跡。誰かの指が触れた跡か、それとも単なる埃か、まだわからない。


 わからない、と記録した。


  今日の日付と、時刻も添えて。




  夕方、閣下が再び書庫に現れた。


  わたくしは驚かなかった。驚かなかったことに、少しだけ驚いた。


  閣下は入口のそばで立ち止まり、カップをわたくしの机の端に置いた。ロイドが淹れたものらしかった。湯気が、細く上がっている。


 わたくしは「ありがとうございます」と言った。


 閣下は何も言わなかった。ただ、カップの位置を指先で少し直した。


 直した。もう1度、直した。3度目に直しかけて、止まった。


 わたくしは視線を紙に戻して、ペンを動かした。


 言わなかったことは、言わなかったと記録できる。言い出せなかったことも、記録できる。でも、なぜ言えなかったのかは、まだうまく文字にならない。


 カップの湯気が、細くなって、消えた。




 翌朝、書庫に入った瞬間、わたくしは足を止めた。


  索引箱が、軽い。


 持ち上げたわけではない。蓋を開いて確認した、ただそれだけだ。でも、指の感触でわかった。


 昨日まであったはずの、1枚が、いなくなっている。


読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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