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「連載版」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第1章 婚約破棄と72巻

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第1話 引き継ぎ先は、どなたですか

 謁見の間に、わたくしの名前が落ちた。

「セレスティーヌ。君との婚約は、今日をもって破棄する」

 第2王子オーギュスト殿下の声が、石造りの高い天井によく通った。夕陽の赤が窓から差し込み、列席する廷臣たちの影を長く伸ばしている。誰も動かない。誰も、声を上げない。

 わたくしは手元の索引札から顔を上げた。右隣では、子爵令嬢リゼットが殿下の袖をそっと掴んでいる。その指先が、かすかに震えているのが見えた。


「……承知いたしました」


 たったそれだけを答えた。声が、震えなかった。

 殿下が、しばらくわたくしを見た。まるで異国の言葉を聞いたような顔だった。


「……それだけか? 5年も婚約していたのに」

「ええ。5年も、でございますね」


 廷臣の列から、小さなざわめきが起きた。泣くだろう、と思っていたのだろう。怒鳴るか、せめて懇願するか。でも、わたくしはどちらもしなかった。

 リゼット嬢が殿下の袖を放した。安堵の吐息が、そっと聞こえた。


「殿下。お別れより先に――国が止まる順番を、お渡しします」


 静寂が、もう1段、深くなった。


「……何の話だ」

「引き継ぎの話でございます。わたくしが管理しております外交条約の原本写し、財務帳簿の索引、過去20年分の議事録の分類体系、諸侯との往復書簡の参照箱――まず引き継ぎ先をお決めいただかないと、3日以内の着手が困難です」

「そんなものは後でいい」


 殿下は軽く笑った。廷臣の何人かが、その笑みに合わせてひそめき合った。

「それより君は、泣かないのか」


 泣きません、と胸の中で答えた。

 声に出す代わりに、索引札の端を指先でそっと揃えた。揃えないと、落ち着かない。癖だ、と自分では思っていない。ただ、揃えずにいられないだけだ。


「わたくしは泣きません。……泣くのは、仕事が止まる時です」


 今度こそ、誰も声を上げなかった。


 殿下の笑みが、わずかに固まった。言い淀む時の癖――視線が泳ぎ、袖口を握る。その仕草を、5年間、何度も見てきた。理解が追いつかない時に出る。

「……後任が決まれば、済む話だろう」

「はい。ですから、どなたになさいますか」


 返す言葉がない、という顔を、わたくしは今日初めて殿下に見た。5年間、1度も見せてもらえなかった顔だ。

 廷臣の1人が、小さく咳払いをした。リゼット嬢が殿下の袖に、もう1度そっと触れた。でも今度は、安堵ではなく、何か別のものが混じっているように見えた。


 謁見の間を辞した後、廊下に出た。


 夕陽はもう低い。石床の赤が薄れて、廊下が灰色に沈んでいく。足音だけが響く。

 泣きたいか、と問われれば、正直にわからない、と答えるしかない。胸のどこかが重い。でもそれは悲しみというより、5年分の疲れがいっきに降りてきたような重さだった。


 5年前、わたくしが王宮書庫に上がった時、あそこは混沌だった。200年分の文書が分類もなく積み上げられ、外交条約の原本写しと厨房の買い出し伝票が同じ棚に突っ込まれていた。

 1年かけて全文書を記録し、分類し、索引をつけた。2年目の夏、隣国との領土交渉で100年前の条約が必要になった時、見つけられたのはわたくしの索引だけだった。外務卿が「助かった」と小さく呟いた声を、今も正確に覚えている。4年目、財務帳簿の2行の誤りを突き止めて、国庫の穴を塞いだこともある。

 殿下は、1度も「ありがとう」とは言わなかった。「地味な魔法だ」とは、言った。


 泣かなかったのは強がりではない。泣く理由は、5年前に書庫に置いてきた。


 そう決めたのはいつだったか、もう正確には思い出せない。でも、決めたことは今でもはっきりと覚えている。


 回廊の角を曲がったところで、声をかけられた。


「……セレスティーヌ様」


 振り返ると、書庫管理官のベルトランが壁際に立っていた。背を丸め、羊皮紙の束を両腕に抱えている。遠巻きにしていたはずなのに、ここで待っていたのだろう。白髪交じりの眉が、困り果てた形に寄っている。


「引き継ぎの件、でございますね」


 彼は何かを口の中で呟いた。わかる。書庫の棚番号だ。気持ちを落ち着けようとする時に、無意識に数える癖がある。1、2、3……5、6、7――あ、4を飛ばした。


「……それは困ります」


 掠れた声だった。


「後任の目処がまったく立っておらず、わたくしには殿下への具申も……どう申し上げても、困るとしか言いようがなく。ただ、困ると言ったところで、どうにもならないのはわかっておりますが」


 ベルトランはそこで口を閉じ、また数え始めた。今度はもっと早口だ。でも途中でまた飛ばして、深く息をついた。


「わかっております」


 わたくしは短く答えた。


「だから72巻、作ります。書庫が所蔵するすべての文書の目録と、索引の引き方と、更新手順を。誰でも運用できる形で、3日で」

「な……72、巻」


 彼の顔から、血の気が引いた。両腕の羊皮紙の束がかさりと揺れた。目が、索引札の束に落ちる。それから文書の山を想像するように、宙を泳ぐ。


 72巻。見た目は地味だ。でも5年分の仕事が、そこにある。記録魔法で見聞したものを1字1句記録し、体系を組んだ5年分が。それが地味であることと、軽いことは、まったく別の話だ。


 ベルトランが3度目の数え直しを始めて、また途中で止まった。


「……それは、困る」


 同じ言葉が、今度は細い声でこぼれた。


 わたくしは索引札を揃えた。指の腹が紙の端に触れる。その時、赤い字が目に入った。

「更新期限:30日」。

 数枚の索引札の端に、同じ色の文字が並んでいる。まだ、わたくしの手の中にある。今は、まだ。


「大丈夫です、ベルトラン。わたくしが書きます」


 彼はすぐには答えなかった。夜の風が、廊下の向こうから動いてきた。灯りの少ない石の回廊は、もう夜に近い色をしている。

 ベルトランが、やっと顔を上げた。


「……引き継ぎ先は、どなたになるのでしょう」


 わたくしは答えなかった。

 答えられなかった、と言う方が正確だ。


 殿下は「後でいい」と言った。後でいい、の間も、期限は動き続ける。赤字の更新期限が、今夜も棚の中で揃って並んでいる。


 3日で72巻を綴じる。そうすれば、わたくしはここを去る。

 引き継ぎ先が誰かは――まだ、決まっていない。

読んでいただき、ありがとうございます。


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