第5話 確率という言い訳
写真を見てから、世界の輪郭が少しだけ変わった。
校舎の白い壁。ひび割れのない床。窓から差し込む光。
それらが「当たり前」であることを、俺は今まで疑ったことがなかった。だが、2500年の街並みを写したあの一枚が、当たり前という言葉の足場を、静かに削っていった。
壊れていない世界は、壊れた世界と地続きだ。
ただ、まだ結果が見えていないだけ。
放課後、俺は科学部の部室にいた。
実験台の上には分解されたラジオと、未整理のノート。埃っぽい匂いがする、落ち着く場所だ。ここなら、余計な感情を挟まずに話せると思った。
「で、未来人から何を聞いたんだ」
眼鏡をかけた友人――この学校で一番頭がいい、と教師からも一目置かれている男が、椅子に腰かけながら言った。
彼は俺の話を、冗談として流さなかった。信じているわけではないが、否定もしない。仮説として扱う。その態度が、今はありがたかった。
「超能力者の分類と、発現率」
俺は、頭の中で整理した数字を一つずつ口に出す。
「自然現象系が四割。火とか氷とか、分かりやすいやつ」
「概念系が二割五分。時間、確率、記憶、因果……そういうの」
「肉体強化が一割」
「その他の進化系が五%」
「残り二割は、分類不能」
友人は黙って聞いていた。
途中で口を挟まないのは、彼が本気で考えている証拠だ。
「……なるほどな」
彼はノートを引き寄せ、シャーペンで簡単な円グラフを描いた。
「つまり、進化系はスーパーレア」
「ソシャゲで言えば、最高レアの中のさらに上だ」
「そういう言い方すると思った」
「事実だろ」
彼は淡々と言う。
「全体の五%。しかも“進化系”って、定義が曖昧だ」
「当たりだとしても、即戦力とは限らない可能性が高い」
正論だった。
未来人ですら前例が少ないと言っている能力だ。発現したところで、何ができるか分からない。分からないものに期待値はつけられない。
「で」
彼は顔を上げ、俺を見る。
「そのキャンディ、まだ三つあるんだろ」
「……ああ」
引き出しの奥の感触が、頭に浮かぶ。
「個人的にはさ」
俺は、一瞬だけ言葉を探してから続けた。
「お前に使いたいと思ってる」
部室の空気が、ほんの少しだけ張り詰めた。
彼は驚いた顔をしなかった。ただ、ペンを置いて、ゆっくり息を吐いた。
「合理的じゃない」
即答だった。
「最悪に備えて温存すべきだ」
「使うなら、もっと状況が悪くなってからでいい」
「その時になってからじゃ遅いだろ」
俺は、思っていたより強い口調で言っていた。
「もし、お前の能力が俺の能力みたいに“進化するタイプ”だったら」
「時間そのものが武器になる」
友人は眉をひそめる。
「時間が武器になる、ってのは分かる」
「だが、その前提が成立する確率が低すぎる」
彼は円グラフを指で叩いた。
「五%だぞ」
「全体の中で見たら、ほぼ外れ枠だ」
「だからだよ」
俺は、言葉を重ねる。
「誰も賭けない」
「だから、意味がある」
彼は首を振った。
「それはギャンブルだ」
「期待値で考えれば、今使う理由がない」
「期待値の話じゃない」
俺は、自分でも驚くほど冷静に言った。
「これは“位置”の話だ」
「位置?」
「そう。時間軸上の位置」
俺は机の端に手を置き、言葉を選びながら続ける。
「今は、まだ壊れてない」
「でも、写真で見た未来は、もう“結果”だ」
友人は黙っている。
彼は、感情で反論しない。だから、こちらも感情をそのままぶつけるわけにはいかない。
「結果を見たあとで準備しても、遅い」
「準備は、結果が見える前にしかできない」
「それは理屈としては正しい」
彼は認めた。
「だが、だからといって五%に賭けるのは合理的じゃない」
「合理的じゃないから、俺がやる」
自分で言って、少し可笑しくなった。
未来人みたいな言い回しだ、と思った。
「……お前さ」
友人は、しばらく考えてから言った。
「自分が特別な位置にいるって思ってないか」
核心だった。
俺は一瞬、言葉に詰まる。
「思ってる」
否定しなかった。
「少なくとも、何も知らなかった昨日までとは違う」
写真が脳裏をよぎる。
義手。瓦礫。暗い夜の街。
「俺はもう、未来を“知ってしまった側”だ」
「知らなかったふりをして、合理性だけで動くのは無理だ」
友人は、静かに息を吸った。
「……それは、責任の話か」
「多分な」
責任という言葉を、俺は昨日まで避けていた。
けれど今は、避けられない。
「知ってしまった以上、選ばないことも選択になる」
彼は、しばらく黙っていた。
科学部の部室には、時計の秒針の音だけが響く。
「なあ」
やがて、彼は言った。
「もし、その五%を引かなかったら?」
「引かなかったら、外れだ」
「じゃあ、その時どうする」
俺は即答できなかった。
だが、答えは心の中にあった。
「その時は、その時だ」
「少なくとも、“やらなかった後悔”は残らない」
彼は苦笑した。
「完全に非合理だな」
「そうかもな」
それでも、俺は視線を逸らさなかった。
「でも、お前が言った通りだ」
「合理性は、今を生き延びるための道具でしかない」
彼は小さく頷いた。
「……分かった」
完全に納得したわけではない。
だが、理解はした、という顔だった。
「条件がある」
「何だ」
「今は使わない」
「使うと決めるなら、ちゃんと準備する」
「準備?」
「能力が進化型だった場合の仮説を、全部洗い出す」
「制御不能だった場合の対策も考える」
それは、彼なりの譲歩だった。
「……ありがとう」
「礼を言うのはまだ早い」
彼は眼鏡を押し上げる。
「俺は反対のままだ」
「だが、お前が五%に賭けるなら、せめてその五%を最大化する」
最大化。
その言葉が、妙に頼もしく聞こえた。
部室を出ると、夕焼けが校舎を赤く染めていた。
何事もない風景。だが、俺は知っている。これが永遠ではないことを。
帰宅して、部屋に入る。
引き出しを開け、キャンディの箱を取り出した。
三つ。
軽い。
ただの飴玉にしか見えない。
けれど、未来人は断言した。
彼女の世界には、こんな形の超能力発現は存在しない、と。
つまりこれは、彼女の未来の延長線上にはない。
延長線上にないものは、分岐点になり得る。
五%。
数字としては低い。
合理的に考えれば、選ばない理由しかない。
それでも。
時間が武器になる能力は、時間がある時にしか育たない。
俺は箱を閉じ、机の上に置いた。
使うかどうかは、まだ決めていない。
だが、決める時が来ることだけは、分かっていた。
未来は、確率でできている。
けれど歴史を動かすのは、いつだって「合理的じゃない選択」だ。
俺は、五%の重さを掌に感じながら、静かに息を吐いた。




