第3話 同い年のはずだった
透明なウィンドウが現れるタイミングには、いまだに法則らしい法則が見つからない。ただ一つ確かなのは、俺の意識が「考えごと」に沈みきった瞬間を、まるで狙い澄ましたように突いてくるということだ。
その日もそうだった。夕食を終え、風呂にも入らず、制服のままベッドに腰を下ろして、ぼんやりと天井を見上げていた。宝くじ売り場の場所を頭の中で反芻しながら、行くべきか、行かざるべきかを決めあぐねていた、そのときだった。
視界の端に、淡い光が差した。
枠の色は、あの青みがかったものだ。二人目――女子高生らしい口調の相手。文字が打ち込まれるより先に、俺は小さく息を吐いた。彼女と話すときだけ、なぜか肩の力が抜ける。警戒しなくていい、と無意識に判断してしまう自分がいる。それが正しいかどうかは分からないのに。
『やっほ』
短い挨拶だった。それだけで、彼女だと分かる。
『久しぶり』
俺がそう返すと、すぐに返事が来た。
『三日ぶり? ……あ、体感的にはだけど』
体感、という言葉に一瞬だけ引っかかりを覚えたが、会話の流れの中ではささいな違和感でしかなかった。人はよく、曖昧な言葉を使う。俺自身だってそうだ。
『学校どう?』
『普通』
『それ一番いいやつ』
彼女はそう言って軽く流す。けれど、その「一番いい」という評価には、どこか距離があった。まるで、現在進行形の出来事ではなく、すでに終わった期間を外側から眺めているような、そんな印象を受ける。
もちろん気のせいだ。そう思おうとした。
会話は自然に続いた。授業の話、クラスの空気、部活の見学。テンポも言葉の選び方も、同年代と言われて違和感はない。実際、最初に「女子高生」と言われたとき、俺は何の疑いも持たなかった。
それなのに。
『高校ってさ』
彼女がそう切り出したとき、俺は無意識に背筋を伸ばしていた。
『思ってるより、ずっと一瞬だよ』
一瞬。その言葉自体はありふれている。三年間なんて短い、と大人が言うのはよくあることだ。だが、彼女の言い方には、時間を“消費する側”ではなく、“すでに通過した側”の軽さがあった。俺は違和感を飲み込むように息を吐いた。まだ、この時点では確信には程遠い。ただ、薄い膜の向こうで何かがわずかにズレている――そんな感覚が静かに残っただけだった。
ウィンドウの中で、彼女は何でもないことのように続ける。
『ねえ、部活って決めた?』
『まだ。見学中』
『いいね。迷えるうちが一番楽しい』
迷えるうち。俺はその言い回しを頭の中で反芻した。自分の選択肢がまだ目の前に広がっていることを、彼女は当然のように肯定してくれる。その優しさに似たものが、逆に不安を呼び起こす。なぜなら、それが「今しかない」ことを知っている人間の言い方に聞こえるからだ。
『君の学校、校舎って何階建て?』
話題が急に飛ぶ。唐突さだけなら、同年代の会話として成立する。けれど、俺は質問の方向性に戸惑った。学校の校舎が何階建てかなんて、雑談で聞くものだろうか。
『四階』
『低いね』
低い。俺の指が止まる。俺の中では四階建ては普通だ。少なくとも、周囲の学校も似たようなものだ。
『普通じゃない?』
『今はね。うん、今は』
また「今」。たった二文字が、会話の底に小石のように沈む。俺は、その小石を拾い上げるべきか迷った。拾い上げてしまえば、会話のテンポが崩れる。崩してまで確認したいほどの確信はない。だから俺は、わざと軽く返した。
『今じゃない時代もあるみたいな言い方だな』
『あはは。言葉のあや。気にしないで』
彼女は笑う。笑いの温度は軽い。だからこそ、誤魔化しが成立してしまう。俺は、その成立してしまう感じが怖かった。言葉の隙間に落ちた違和感は、話題が流れると回収されないまま、どこかに溜まっていく。
『修学旅行って国内?』
『多分国内』
『だよね。海外とか行かないでしょ』
『行かないと思うけど……なんで?』
『リスク』
短く言われて、俺は眉をひそめた。
『修学旅行にリスク?』
『うん。今はまだ』
今はまだ。さっきの「今」と同じものが、別の角度から刺さってくる。彼女の言葉は、いつも半歩だけ先を見ている気がする。だがそれは、未来を知っているからなのか、それとも、単に物事を慎重に考える性格だからなのか。判断がつかない。判断できないことそのものが、俺をじわじわと追い詰める。
俺は、別の話題に逃げた。
『スマホ代、高くない?』
彼女はすぐに返す。
『高いよね。通信って基本インフラなのに』
インフラ。俺はその単語に引っかかった。電気、水道、道路。そういうものと並べる言葉だ。確かにスマホの通信は生活必需品だが、俺の感覚では「料金を払って使うサービス」であって、「社会が最低限保障する基盤」ではない。
『インフラ?』
『あ、そっか。そっちだと、まだそういう感覚じゃないか』
そっち。まだ。二つの単語が続けて出てきて、今度こそ俺は、飲み込めなくなった。
『そっちって何だよ。こっちとかあるの?』
『言い方ミスっただけ! 生活必需品って意味。変な言い回ししちゃった、ごめん』
謝罪は速い。速度が速すぎる。まるで、地雷を踏んだことに気づいて、反射で足を引いたみたいに。俺はその反射を見て、逆に確信に近づく。彼女は「言い方を間違えた」だけじゃない。「言ってはいけない種類の情報」に触れた。
それでも、彼女は会話を続けようとする。軽い調子で、話題を戻す。
『てかさ、君、お金持ちになりたいって思ったことある?』
俺の胸が、わずかに跳ねた。昨日――正確には数日前、無色のウィンドウの相手に、同じ質問をぶつけたばかりだった。
『ある』
『だよね。普通思うよね』
『なんで聞くの』
『なんとなく。……でも、お金って持ってるだけじゃ意味ないよね』
この言い回しも、どこかで聞いた気がする。俺の頭の中で、無色のウィンドウの相手が「金を動かせ」と言った声が重なる。二人が繋がっているのか、別々なのか、それすら分からないのに、言葉だけが奇妙に似通っていく。
『使い方の話?』
『そう。でもね、“どこに置くか”の方が大事』
置く。銀行口座の話をしているのか、資産の分散の話をしているのか。高校生の雑談としては、妙に具体的で、妙に現実感がある。彼女はすぐに続けた。
『ごめん、これ以上言うとややこしくなるかも』
ややこしくなる。まるで彼女は、言葉が現実に影響することを知っているみたいだった。俺は、あえて踏み込んだ。
『ややこしいって何だよ。俺、同い年の女子高生と雑談してるだけだろ?』
送信してから、俺は自分の言葉の乱暴さに気づいた。もし本当に同い年なら、こんな言い方はしない。それでも指が止まらなかったのは、溜まりに溜まった違和感が、内側から押し出してきたからだ。
少し間が空いた。
『……ごめん。そうだよね』
彼女の返事は、いつもより短い。軽さが消えたわけではないが、軽さの裏にあるものが、透けて見える。
『君、歴史の授業ってどこまでやった?』
『第二次世界大戦くらい』
『そっか』
その「そっか」が、妙に静かだった。静かすぎて、返事ではなく、確認のように聞こえる。
『その先って、教科書には載ってないよね』
『そりゃ未来だからな』
俺が当然のことを言うと、彼女は一瞬だけ、返答を止めた。送信中の点が、三つ、ゆっくりと点滅する。時間が伸びたように感じる。文字だけの沈黙なのに、息を詰めさせる圧がある。
『……だよね』
ようやく来た返事は、その二文字だった。肯定に見える。だが、その肯定は「未来だから載っていない」という事実を肯定しているのではなく、俺の“立ち位置”を肯定しているように聞こえた。君は未来を知らない側だよね、という確認。
俺は、別の方向から切り込むことにした。
『君って、本当に俺と同い年なの?』
『え、なに突然。ひど』
返事のトーンは戻った。けれど、それは戻しただけに見えた。感情の自然な流れではなく、会話の空気を保つために「女子高生の顔」を被り直した感じ。
『じゃあさ、君の誕生日いつ』
『んー、そこは秘密』
『秘密って』
『だって、こういうのってさ、個人情報じゃん?』
それは正しい。正しいのに、彼女がその「正しさ」を口にすることに、俺は奇妙な違和感を覚えた。現代の高校生なら「だる」とか「なんでそんなの聞くの」とか、もっと感情で返すはずだ。彼女は理屈で返す。理屈で、会話を閉じる。
『ねえ』
彼女が話題を変える。
『君って、今が西暦何年かちゃんと意識してる?』
『2026年』
『そっか』
また、静かな「そっか」。
俺は、ほとんど確信に近いものを抱えたまま、それでも最後の一線を越えられずにいた。相手が未来人だと決めつけた瞬間、今まで成立していた“普通”が壊れる。壊れてしまえば、二度と戻らない。戻れないのは、相手だけじゃなく、自分の側でも同じだ。
だから俺は、手がかりを拾うのではなく、相手に渡してみることにした。
『俺、最近「戦争」って言葉が怖いんだけど』
送信してから、胸の奥が熱くなる。言うつもりはなかった。けれど、彼女の「リスク」「まだそうか」「今はまだ」が、俺の中の不安を掘り起こしていた。
『……分かる』
返事は短い。
『考えたことある?』
『ある』
彼女は、そこで一度だけ送信を止めた。迷った痕跡が見える。迷ったあとで送ってくる言葉は、だいたい本音だ。
『私さ、小さい頃、瓦礫の山で遊んでた』
俺は指が動かなくなった。瓦礫。冗談なら笑える。だが、これまでの違和感の積み重ねが、冗談として処理することを許さない。
『瓦礫って……崩れた建物?』
『うん。鉄骨とか、コンクリとか。危ないから本当はダメなんだけど、子どもってさ、そういうとこ入っちゃうじゃん』
危ないから本当はダメ。子どもってさ。言い回しは確かに高校生っぽいのに、話している内容が高校生の生活圏に存在しない。俺は、喉の奥が乾くのを感じた。
『どこの話だよ、それ。海外?』
『日本』
即答。
『日本にそんな場所あるか?』
『あるよ』
彼女は、そこで一拍置いた。たった一拍が、やけに重い。
『……ある時代には』
それは、もう言い逃れの効かない言い方だった。
俺は、心臓が冷えるのを感じながら、打った。
『ある時代って何だよ。今の日本の話じゃないのか?』
返事が来るまでの沈黙が、長い。長いというより、時間の質が変わったみたいに感じる。俺の部屋は、同じはずなのに、どこか遠くに引き離されていく。
『ごめん』
彼女は、最初にそう送ってきた。
『言うつもりなかった』
俺は息を止めた。
『……じゃあ、言わなくていいから、答えだけ。君はどこにいる?』
『どこ、って』
『今。君の今はどこだよ』
言い方が乱暴になるのを止められない。文字だけの会話なのに、俺は自分が相手を追い詰めていることが分かった。それでも止められない。止めたら、また「曖昧な違和感」に戻ってしまう。それが嫌だった。
『日本だよ』
『今の日本?』
『うん』
『じゃあ、今は何年』
沈黙。
送信中の点が、三つ。
彼女は、逃げない。逃げないまま、言葉を選んでいる。
『西暦で言うなら』
そこで一度止まる。まるで、ここから先の文字が、俺の世界を壊すと知っているみたいに。
『2500年くらい』
俺は、理解が追いつかなかった。
“くらい”というぼかしが、逆に現実味を帯びている。冗談なら、もっと派手に言うはずだ。笑いながら「未来だよ!」と言ってくるはずだ。彼女は、あまりにも静かに、あまりにも当たり前に、それを置いた。
『……は?』
俺の返事はそれしか出てこなかった。
『ごめん』
『同い年って』
『見た目の話。たぶん、そっちの基準だと、同い年くらいに見える』
『女子高生って』
『それも、間違ってない。今の基準だと、私はまだ学生』
今の基準。
また「基準」という言葉が出てくる。彼女の世界には、俺の世界とは違う当たり前があり、その当たり前の上で言葉が選ばれている。
『じゃあ、生まれたのは……いつ』
俺は自分でも驚くほど冷静に打っていた。パニックになっているのに、文字は冷静を装える。文字だけの会話の残酷さだ。
『2483年』
数字が、冷たい。
2026年から引き算をするまでもなく、あり得ないと分かる。
『……五百年後じゃねえか』
『うん』
肯定が、あまりにも軽い。軽いからこそ、五百年という数字が、こちらの現実を切り裂く。
『なんで今まで言わなかった』
『言ったら、君、普通に話してくれなくなると思ったから』
その言葉は、言い訳じゃなかった。事実だった。俺は今まさに、普通に話せなくなっている。
『……じゃあ、さっきの瓦礫は』
『戦後の景色だよ』
『戦争?』
『うん』
彼女は短く肯定してから、少しだけ間を置いた。ここだけは、言葉を軽くできないのかもしれない。
『第四次のあと』
第四次。俺の頭の中で、「まだ起きていない」という常識が悲鳴を上げる。未来の戦争なんて、想像するしかないはずだ。それが、彼女の口から“経験談”として出てくる。
『……第四次? それ、今の歴史の続きにあるのか』
『続きっていうか……私の世界では、そう呼ばれてる』
『呼ばれてるって、他人事みたいに言うな』
『他人事じゃないよ』
彼女はすぐに否定した。否定の速さに、痛みが滲む。
『ただ、慣れちゃうんだ。呼び方とか。数字とか。だって、全部、終わってから習うから』
終わってから習う。
教科書の未来。歴史になった戦争。俺は、その距離感が理解できない。理解できないのに、理解したいと思ってしまう。彼女は、未来の生存者だ。俺は、まだ戦前にいる。
『……怖い? その話』
彼女が聞いてくる。俺は正直に打った。
『怖い』
『そっか』
静かな返事。その「そっか」には、同情とも、諦めとも違うものが混じっていた。未来を知る者が、未来を知らない者の恐怖を受け止めるときの、微妙な距離。
『でもね』
彼女は続ける。
『君はまだ、何も壊してない』
壊してない。その言い方は、裏返せば「壊す可能性がある」ということだ。
『……俺は、何かしちゃってるのか』
問いは、俺自身に向いていた。ウィンドウの向こうに向けたというより、これまで積み重ねてきた違和感の合計に向けた問いだった。
彼女はすぐに答えない。送信中の点が、三つ、ゆっくり点滅する。その点滅を眺めている間、俺の視界の端で、引き出しの奥のキャンディの箱が思い出される。三つ残っている。誰にも渡していない。渡すべき相手が分からない。分からないまま、この会話を続けている。
『まだ決定的じゃない』
ようやく返事が来た。
『でも、選択肢の近くにはいる』
選択肢。
俺の脳内で、宝くじ売り場の場所が浮かぶ。あの無色のウィンドウの相手が言った番号が浮かぶ。十枚、同番号という奇妙な指示が浮かぶ。そして、今、目の前には五百年後の「女子高生」がいる。
『ねえ』
彼女が続ける。
『そのキャンディ』
心臓が跳ねた。
『まだ、残ってる?』
俺は返事ができなかった。返事ができないということは、肯定と同じだ。肯定した瞬間、次の問いが来る。渡せ、やめろ、確認しろ、捨てろ。何を言われても、俺の手はキャンディに伸びる気がした。
『今日は、ここまでにしよ』
彼女は、俺の沈黙を責めない。責めないまま、会話を切る。
『待て』
『大丈夫』
最後に、彼女はこう送った。
『君は、まだ間に合う側だよ』
間に合う側。
その言葉が、優しさと同じくらいの残酷さを含んでいることを、俺は理解してしまった。間に合わなかった側が存在する。彼女は、間に合わなかった未来を生きている。だからこそ、軽い。だからこそ、同年代の仮面を被ってでも、俺と話そうとする。
透明なウィンドウは、ゆっくり薄くなっていき、やがて視界から消えた。
部屋には、エアコンの低い音と、遠くの車の走行音だけが残る。世界は何も知らない。ニュースはいつも通り流れ、明日の授業のことを考える高校生たちは、今日の天気の話をしている。
俺だけが、五百年後の戦後を言葉で見せられた。
俺は引き出しを開け、キャンディの箱を取り出した。包み紙の色は、子どもの頃と変わらない。四つのうち一つは、いつの間にか消えている。舐めた記憶が曖昧なのに、現象だけがここにある。俺はその矛盾を、今まで「変な夢」や「思い込み」で誤魔化してきた。
けれど、もう誤魔化せない。
同い年のはずだった相手は、2500年を生きていた。
そして彼女は、第四次世界大戦の“あと”を知っている。
宝くじの紙切れ一枚に迷っている俺の背中に、ひどく大きな影が落ちた気がした。金の話ではない。未来の話でもない。もっと単純で、もっと逃げられないもの――「選択」の話だ。
俺はキャンディの包み紙に指先を置き、冷たい感触を確かめる。
残りは三つ。誰にも渡していない。渡せば、その人の人生が変わる。渡さなければ、助けられない誰かがいるかもしれない。そもそも、このキャンディはどこから来たのか。2500年の彼女の言葉が頭をよぎる。彼女の世界に、こんな“便利な形”の超能力発現は存在しない。なら、これは未来の延長線上にない。歴史の外から来たものだ。
そして、その“歴史の外”が、俺の手の中にある。
明日、俺は学校に行く。
普通に授業を受けて、部活の見学をして、クラスの輪に入れるかどうか悩んで、帰ってくる。
その普通の隙間に、透明なウィンドウは差し込んでくる。
まるで、普通という言葉そのものを、少しずつ腐食させるみたいに。
俺は箱を閉じ、机の上に置いた。
深呼吸をしても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
同い年のはずだった。
同じ時間を生きているはずだった。
けれど現実には、俺は五百年後の誰かと会話している。
言葉だけで繋がって、言葉だけで未来を触っている。
――間に合う側。
彼女の最後の言葉が、何度も頭の中で反響する。
間に合う側にいるうちに、俺は何を選ぶべきなんだろう。
宝くじの番号か。キャンディを渡す相手か。未来を信じるか。未来を疑うか。
答えは出ないまま、夜だけが静かに更けていった。




