第1話 透明なウィンドウ
小学生の頃の記憶は、だいたい薄くなっていくものだと思っていた。
けれど、あの日だけは違う。
体育館裏。放課後。
ランドセルを背負ったまま壁に押し付けられて、腹の底が冷えるような声で笑われた。
「お前さ、マジでキモいんだよ」
拳が来る、と身構えた瞬間。
「――やめなよ」
澄んだ声が割って入った。
振り向くと、知らない女の子が立っていた。学年もクラスも分からない。髪は肩で揃っていて、目だけが妙に落ち着いている。
いじめていた奴らが「誰だよ」と言い返すより先に、女の子は手をひらりと振った。
空気が、ぴしりと固まった気がした。
次の瞬間、いじめっ子たちは顔色を変え、何かに怯えたみたいに後ずさりして、逃げるように去っていった。
何をされたのか、当時の俺には分からなかった。ただ、見えない何かが“そこ”にあった。
「大丈夫?」
「……え、うん……」
俺が礼を言うより早く、彼女はポケットから小さな包みを取り出した。カラフルな紙に包まれた、キャンディが四つ。
「これ、あげる」
「なにこれ」
「不思議なキャンディ。舐めるとね、力が出る」
その言い方があまりに真顔で、俺は笑いそうになった。でも、さっきの“空気”のことを思い出して笑えなかった。
「力って……超能力?」
俺が言うと、彼女は小さく頷いた。
「俺も使いたい。……これ全部舐めたら、四つ分?」
「ううん。一人一つ。制限がある」
じゃあ残りは? と俺が聞くと、彼女はキャンディを包む紙を指でなぞって、少しだけ迷う顔をした。
「もし本当に誰かの助けが欲しい時は、それを信用できる近くの人に渡すといい」
「信用できる、近くの人」
俺が繰り返すと、彼女は「うん」とだけ言って、名前も名乗らずに去っていった。
あれから、数年。
俺は高校一年生になった。入学式の日、校門の前で写真を撮る親子の列を避けながら、胸の内側が妙にざわついているのを感じていた。
ランドセルじゃなくてリュック。上履き袋。制服の襟の硬さ。
“新しい生活”のはずなのに、俺の時間はずっと、あの日の続きを引きずっている。
机の奥には、今でも残り三つのキャンディがある。
誰にも渡していない。渡す相手を決められないまま、ここまで来た。
そして、もう一つ。
俺には、誰にも言っていない“変な現象”がある。
それが起きるのは決まって、頭がいっぱいになった夜だった。
布団に潜って、スマホを閉じて、天井を見つめている時――視界の端に、薄い光が浮かぶ。
透明な、ウィンドウ。
ガラスみたいに薄い枠だけが見えて、中は空っぽ。
でも、そこに文字が打てる。勝手に指が動くわけじゃない。ちゃんと、俺が“打つ”。
不思議なのは、送ると返事が来ることだ。
相手は誰か分からない。名前も、アイコンも、プロフィールも出ない。
ただ、文字だけ。
最初の頃は怖くて、何度も目をこすった。
夢だと思いたかった。でも、翌日も、翌週も、そのウィンドウは“必要な時”にだけ現れた。
今日も、入学式が終わって、クラスの自己紹介が終わって、なんとなく笑って、なんとなく疲れて、帰ってきて。
夜。机に突っ伏したまま、俺はぼんやりと天井を見ていた。
透明な枠が、すっと浮かぶ。
――来た。
画面の下に、入力欄がある。俺は息を吐いて、打った。
『金持ちになりたい。どうすればいい?』
送った瞬間、ウィンドウの向こう側が一瞬だけ暗くなった気がした。
そして返ってきた文字は、やけに落ち着いていた。
『まず確認。君の生年月日、いつだっけ?』
“いつだっけ”という言い方が妙に引っかかった。前に話したことがあるみたいな口ぶり。
でも、俺は相手のことを何も知らない。
『2010年8月10日』
『今いくつ?』
俺は一瞬迷った。日本の年齢の数え方ってややこしい。高一の春だと、まだ十五。けど「今年は十六になる」。
『十六になる年』
『そっちの日本の、今の日付と正確な時間は?』
日付と時間? さすがに変だろ。
でもこのウィンドウは、変な時にしか出ない。変な相手としか繋がらない。今さらだ。
机の横に置いたスマホを見て、打つ。
『4月2日。23時41分』
返事が来るまでの間が、やけに長かった。
ウィンドウの透明さが、急に底なしに見える。
やがて、文字が現れた。
『なら、今月のジャンボ系。連番じゃなく同番号を複数。
「――」を買うといい』
数字らしきものが続いていた。
だが、俺は反射的に目を細めた。ここで具体的な数字を見たら、冗談で済ませられなくなる。
『それ、なんで分かるんだよ』
俺が打つと、相手は平然と返した。
『統計だよ』
思わず笑いが漏れた。乾いた笑い。
『どんな統計だよ!?
宝くじの番号が統計で分かるわけないだろ!』
すぐ返ってくる。
『君の反応は正しい。
ただし「統計」の定義が君と違う』
定義?
頭の奥がじりじりする。
『もう一つの案もある。
来週、国内で「○○」という仮想通貨に近い仕組みが出る。
親に頼んで一万円程度。十年後には大金持ちだ』
“親に頼んで”って、こいつ、俺が高校生だと知ってる。
いや、さっき年齢聞いたか。けど、それだけじゃない。まるで、俺の生活圏が見えているみたいだった。
『お前、誰だよ』
送った瞬間、ウィンドウが微かに揺れた。
水面に落ちた小石みたいに。
『君がそれを知る必要はない。
君が知るべきなのは、これが「選択」だということ』
選択。
俺の背中が、じわりと汗ばむ。
『俺が買わなかったら?』
『買わなければ、何も変わらない。
少なくとも君の側では』
“君の側では”。
その言い回しが、ぞっとするほど自然だった。
俺は椅子をきしませて立ち上がり、机の引き出しを開けた。
奥の、小さな箱。中に、三つのキャンディが眠っている。
四つあったはずのうち、一つは――いつの間にか消えていた。
舐めた記憶は曖昧なのに、現象だけは現実にある。
透明なウィンドウが、俺の視界に浮かんでいる。
文字を打つ指が、震えた。
『……お前、未来の人間なのか?』
返事は、すぐには来なかった。
代わりに、今まで見たことのない表示が、ウィンドウの端に小さく灯った。
《機能:同期確認》
そして、ようやく相手の文字。
『質問を変えるべきだ。
君は「未来」だと思っている。
だが――』
そこで文字が途切れた。
送信中の点が、三つ、ゆっくり点滅する。
俺は喉の奥が乾くのを感じながら、つい打ってしまった。
『だが、何だよ』
次に表示された一文は、短かった。
『君は、どこからそのキャンディを手に入れた?』
胸の奥が、どくんと鳴った。
――名前も知らない女の子。体育館裏。四つのキャンディ。
“信用できる近くの人に渡せ”。
俺は画面を見つめたまま、答えを打てずにいた。
透明なウィンドウは、逃げ道みたいに静かに光っている。
でもその向こう側は、底の見えない夜よりも暗い気がした。
机の上のスマホが、23時42分を示す。
明日、俺は学校に行く。
初めての友達を作る。
部活を決める。
普通の高校生のふりをする。
そのはずなのに。
たった一つの選択が、
この先の十年と、百年と、四百年を、変えてしまうかもしれない。
俺は、引き出しの奥のキャンディを指先で触った。
冷たい紙の感触が、妙に現実だった。
そして、ウィンドウに、ようやく打った。
『……小学生の時。知らない女の子に助けられて、もらった』
送信。
返事は、すぐに来た。
『やっぱりね』
その三文字が、なぜか一番怖かった。
俺は椅子に座り直し、息を吸って、震える手で次の言葉を打った。
『――で、宝くじ。
俺は、買うべきなのか?』
ウィンドウの向こう側で、何かが決まる気配がした。




