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戦国タイムトンネル  作者: サクラ近衛将監
第二章 与えられし能力

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2ー5 長浜の統治の話と魚捕り

 目が覚めたら、夕方近くだったが、トト様はまだ帰ってきていなかった。

 で、ビワマスは半分が焼き魚になって夕食のおかずに用意されていた。


 因みにカカ様の話では、残りの半身はご近所におすそ分けしたらしい。

 ここの近所に居るのは、木下藤吉郎叔父の配下と、信長さまの配下で今は藤吉郎叔父の与力となっている者らしい。


 一応、小谷城での合戦が終わって、浅井(あざい)家が滅び、この辺を含めた領地が木下藤吉郎叔父の支配下に置かれたようや。

 支配下と言うのは、いわゆる領主ではあるが知行地では無いようなんじゃ。


 領地は、信長様が直轄管理していて、徴税は信長様の直臣が行うようになっている。

 よくわからんのだが、徴税は、領主の仕事ではないらしいのや。


 織田家中における領主とは、どうも徴税権限のない代官のような存在らしい。

 その代わりに信長様から当該領主には給金が出る。


 但し、後には禄米では無くって、石高の知行地を与えていたような節もあるので実際のところはよくわからない部分ではある。

 信長の配下はよく領地を替えられていたから、単なる支配地の表石高がその部下の地位を示していただけの話かもしれない。


 どちらかと言うと給料をもらいながらすこしばかり地方政治も行う傭兵やったのかなと思っているよ。

 領主は、自分で給金や禄米を出すことにより直臣(信長から見れば陪臣?)も抱えられるが、いざ戦となればそれだけでは人数が不足するので、信長様の元に居る直臣を与力として借り受け、それらを配下として戦闘を指揮することになるようやな。


 おそらくは、戦国時代において、このような方式をとっていたのは織田家だけなんじゃないだろうかと思ってしまうぜ。

 それが農繁期にでも動ける兵力の秘密でもあるわけや。


 兵農分離じゃなければ農繁期に戦はできないからね。

 但し、完全な兵農分離だったわけじゃない。


 大勢の武士や兵士を平時に遊ばせておくほど余裕は無かった筈で、精々が傭兵を大目に抱えていた程度でないかと思っている。

 戦国時代以前において農繁期に戦をしないというのは、ある意味で食料を確保するために必要な最低限度のルールやった筈。


 それを破ったのが信長だったということかな?

 まぁ、他にも同じような制度を取り入れていた者が居たかもしれないけれど、歴史の中に埋もれて名前が出てこない人物だったということやろ。


 相手を困らせるために行う焦土作戦なんてのは、現代にも通ずる典型的な戦法だから、単に信長が時代の先駆者やったということなのじゃろう。


 ◇◇◇◇


 ところで、令和では18歳だった半分大人になりかけの俺、・・・。

 いや、こっちでも俺って元服してないし、数えで十歳の子供が武器やら火薬を購入しても本当に良いの?


 この時代、武家の家なら普通15歳辺りで元服なんやけど、早いところでは12歳からでも元服させる場合があるようや。

 でも、木下家(ウチ)は元々武家じゃないからなぁ。


 そうは言いながらも、トト様は腰に刀を差して毎日仕事に出かけてるからね。

 まぁまぁ、武士の範疇には入るんやろう。


 それなら、もしかして数えで12歳から15歳で俺も元服して武士になるかも知れないね。

 俺の髪は今のところ総髪で、背後で小紐でまとめているだけやで。


 トト様には一応(まげ)らしきものがついているな。

 髷というよりは短いポニーテールが下じゃなくって上に向いている?


 そんな感じの髪型だな。

 でも月代(さかやき)()っていない。


 俺の頭も天頂部を剃ったりはしていないんやぞ。

 そのへんは、農民上がりの野武士に近い家だから、割と奔放(ほんぽう)なのかもしれないな。


 長浜ではあまり見かけていないが、小牧山や岐阜に居た頃の与一郎の記憶の中には上級武士の子は、牛若丸の髪型によく似た格好をしていた子が居たな。

 きっと、あれは()()()()の坊ちゃんなんじゃろう。


 町民の子は、普通に短く刈っているだけの髪だったと記憶しているし、長浜の長屋に居る近所の子も似たようなものやな。

 春から秋にかけての着るものは俺と一緒で一重の着物だけ、ふんどしをしている子もいればフリチンのままの子もいるな。


 俺の場合は、床上げのお祝い代わりに小さめに作った越中ふんどしを貰ったよ。

 あれって、しっかり締めないと緩んでしまって、脇からナニがポロリとこぼれるんだよなぁ。


 そのうちパンツも異世界商店で購入したいな。

 あ、この時代の女性は、カカ様も含めて皆さんノーパンが常識みたい。


 月のものがあるときだけ、当て布をしてふんどしを締めているようなんや。

 女の人って大変だよね。


 カカ様へのプレゼントには生理用品も考えとこう。

 後は、化粧品かな?


 滅多にしないけれど、たまに化粧をする場合もあるようなんや。

 そんな時は、鉛入りの白粉(おしろい)を塗りたくるようだから、あれはやめさせるべきやと思う。


 なんだか色々と改善すべきところがあるんやけど、俺は、いつ頃本格的にこの時代に介入すべきなのやろな?

 まぁ、それでも、俺のスキルの確認が最優先で、次に生き抜くために異世界商店で色々と購入し、おまけに与えられた異能で自分の身が守れるようになってから、徐々になすべきことをして行くことにしようと思っているんや。


 異世界商店を利用するためには、何は無くとも先立つモノが必要で、まずは24金を確保しなきゃぁな。

 今日も川辺に行き、純金探査と採取を開始、およそ40グラムほどの24金を採掘した。


 俺の口座の蓄積ポイントは、140万pを超えたな。

 実は、昨日、サプリやプロテインを購入するのに結構なポイントを使ったけれど、それでも口座残高は140万pを超えている。


 天気が良ければ、明日には、間違いなく200万pを超えるだろうな。

 臨時保管庫(インベントリ)には、ペットボトル入りの水(この時代にはないやろから、人には見せられない代物)も用意してあるし、万が一のためのエネルギー源としての飴も用意してあるぜ。


 虚弱(きょじゃく)な与一郎の身体は、純金の採掘で歩いているだけでも疲れてしまうので、少し休憩してから、琵琶湖岸に行って魚獲りや。

 今日はカカ様に言って、お持ち帰り用のザルを用意しているんやで。


 そう言えば、昨日よりも俺の探索の範囲が5割ほど拡大していたな。

 正確な数値はわからないが、おそらくは、俺を中心に22m~30mあたりの範囲が確認できる。


 湖岸から湖を探って見つけた中には、琵琶湖大鯰(おおなまず)もいたよ。

 けれど、鯰は泥抜きと臭み取りがめんどうなんよね。


 油を使った料理が割と有名だけど、そもそも油が高いし、大量入手が難しい。

 だからこの時代には油で揚げるという食文化が無い。


 もう少し時代が下がると天ぷらもお目見えするけどね。

 食用油の大量生産ができないと難しいんやろな。


 俺の異世界商店で食用油を入手するのは簡単なんやが、俺が大量に供給するのは、将来的に色々と問題がありそうじゃ。

 油採取の方法や、油を使った料理を教えて、先見の明がある誰かさんに食用油の増産を促した方がましやろな。


 もしくは、いろいろな植物から油を(しぼ)ってみるか?

 確かこの時代の油は油座(ギルド)があって、専売していたはずやけど、仮に俺が作れるとしても、その原材料を入手できなければ大量生産は難しいということや。


 ところで、湖の中には鯉の一種であるワタカもいたが、鯰と同様に泥抜きや臭みを取らなければならないのやろうし、こいつは小骨が多くて食べにくいらしいんや。

 で、俺が選んだのはホンモロコ。


 コイ科の魚ではあるけれど、令和の時代では一番おいしいと言われる幻のコイ科の魚や。

 獲ったのは全長十センチぐらいの奴かな。


 それが群れでいたんやが、全部を採らずに、その中から24匹を採取、夕食のおかずにはなるやろう。

 因みに俺のスキルの確認で、このホンモロコを水属性魔法で冷やしてみた。


 凍らせることもできそうやったけれど、その直前のチルド状態な。

 カカ様に渡す直前に水若しくは温水をかけて常温に戻すつもり。


 因みにその作業は、俺の亜空間倉庫の中で出来たんで、仙術って、ものすごく便利やね。

 令和の浩一郎は、ホンモロコを食べたことが無いけれど、(ちまた)の噂では内臓や骨までおいしく食べられるとのことやった。


 だから塩焼きでも十分行けると思う。

 その日の夕食で実際に美味しくいただきました。

 

 そうして食後のひと時には、トト様やカカ様から現在の周辺国の情勢についてお話を聞いたり、昔話を聞いたりするのが俺の日課になっているんや。

 十歳の子が織田家の周囲の情報について聞き廻る?


 そんな異常なことに若干違和感を覚えながらも、トト様とカカ様は色々とお話をしてくれるんや。

 そのおかげで与一郎が生きている時期や周辺情勢も把握できた。


 前に言ったかもしれないが、俺は必ずしも歴史には詳しくない。

 それでも滋賀県内の歴史ならば多少は覚えている。


 叡山の焼き討ちは、元亀二年9月12日(1571年9月30日)のことだ。

 俺は西暦でしか覚えていなかったけれど、トト様が和暦と日付を教えてくれたので一応整合できた。


 今は天正二年4月なんやが、西暦に直すと1574年で日付は20日ほど先になるから、陽暦で言うと四月末から5月初旬頃やな。

 来年の夏までには、多分長浜城も完成し、藤吉郎叔父(秀吉)が正式に長浜城に入るはずなんや。


 安土城の建設も間もなく始まる頃合いやな。

 確か安土城の建設開始は、1976年の正月と記憶している。


 作事奉行には、丹羽(にわ)長秀(ながひで)が任ぜられたが、藤吉郎叔父も縄張り等に駆り出されるはず。

 家臣の宿舎が、麓から天守に至る途中の中腹に造られ、確か藤吉郎叔父の宿舎もあったはずや。


 藤吉郎叔父は長浜城主でありながら、多分、トト様に城代をさせて長浜には不在のことが多いのやろうと思うよ。


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