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戦国タイムトンネル  作者: サクラ近衛将監
第二章 与えられし能力

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2ー14 小一郎の妻ヨシ その一

 私は、木下小一郎長秀の妻、ヨシでございます。

 小一郎殿に嫁いで早10年以上も過ぎました。


 小一郎殿と小牧山の長屋に住んでいる頃にお腹にやや子ができて、小一郎殿と所帯も持ち、その8か月後に生まれたのが、与一郎でした。

 与一郎も幼い頃は元気だったのですが、3、4歳頃から病気がちになってしまいました。


 小牧山に居る頃は、織田勢の稲葉山城攻めが続きました。

 小一郎殿も戦働きで家を空けることが多く、随分と義姉(あね)様の寧々(ねね)様には助けていただきましたなぁ。


 小一郎殿は、兄者である藤吉郎殿の配下に過ぎず、藤吉郎殿から貰う銭は左程多くは無いのです。

 この頃は、藤吉郎殿が足軽組頭で二十人程度の郎党を抱えている状況で、小一郎殿はそのとりまとめ役の小頭でしたな。


 そうして小一郎殿が家に持ち帰る銭は、月々の決まった額ではないのです。

 その時々の働きに応じて銭が払われるものなので、銭がいつ入ってくるのかはわからぬのです。


 これでは留守を預かる妻としては、非常に困る話ですよね。

 一に倹約、二に倹約をしないと、親子三人生きてはいけませぬ。


 そんな中で与一郎に余り良いものを食べさせては上げられなかったのかもしれません。

 私も実家に行って米や野菜を貰うなど致しましたけれど、それにも限度というものがあります。


 それがようよう改善されるようになったのは、おそらく、永禄七、八年頃じゃないかと思います。

 伊木山(いぎやま)砦を根城に鵜沼(うぬま)城攻めを行った際に、藤吉郎殿と小一郎殿が活躍し、褒美の報奨金を頂いたことが切っ掛けで、藤吉郎兄者の懐具合が良くなり、わずかながら小一郎殿の貰う銭も増えたのでした。


 それ以後の数年は、稲葉山城攻めが続き、その過程で藤吉郎殿は一端(いっぱし)の足軽大将格になっていたと思います。

 そうして稲葉山城が落ちた永禄十年九月には、藤吉郎殿は織田家中で武将格にまでのし上がっていたのございます。


 このためこの時点では小一郎殿も陪臣ながら、それなりの収入を与えられていたのではございますが、他の武将格の方に仕えている他の方々と比べて特に多いかと言うと実は左程でもなかったようでございましたね。

 上司たる藤吉郎殿の上昇志向が強く、また藤吉郎殿が上司格の武将などに付け届けなどを欠かさないことから、その分、どうしても小一郎殿を含む郎党への配分が少なくなっていたのです。


 稲葉山城が陥落すると、信長様は稲葉山城を岐阜城と改め、城の有る山の麓に陣屋を築かれました。

 その陣屋の周囲には、織田家家臣の皆様の宿舎も作られたのでございます。


 藤吉郎殿の屋敷もあり、その一角に小一郎殿とともに親子三人が住まうことになったのでございます。

 そうして信長様の上洛、足利将軍の任命、越前遠征などが相次いで御座いましたが、越前遠征では、朝倉勢と戦いの最中に、浅井(あざい)氏の謀反(むほん)があって越前金ケ崎から命からがら逃げ帰ったとも聞いております。


 撤退する軍勢の殿(しんがり)を務めたとのことで、一歩間違えば死んでいたやもしれぬと小一郎殿に聞きました。

 それまで戦話など余り聞いたことが有りませんでしたから、その時ばかりは、女寡(おんなやもめ)になどなりたくはございませぬと、小一郎殿の胸で泣いたことを覚えております。


 その後、姉川の合戦があり、織田・徳川軍は見事浅井・朝倉連合軍を破って、織田勢が優勢に立ち、次いで小谷城を攻め、朝倉をも攻めたのでございます。

 最終的に天正元年に浅井氏、朝倉氏両家が滅びましたが、朝倉義景殿の死が少し早かったと小一郎殿に聞いておりますなぁ。


 この小谷城の戦で大いに藤吉郎殿が活躍され、その恩賞として旧浅井領の12万石相当の領地を与えられることになったのでございます。

 藤吉郎殿は、小谷城が山城であるために不便であることを理由に廃城とし、その代わりに今浜に城普請をすることを願い出て、信長様に許しを得たのでございます。


 その結果、小一郎殿は、近江の国小谷へ城攻めに向かったまま岐阜には戻らず、そのまま今浜にて城造りをしておるそうな。

 そうして小一郎殿が不在の折に、我が子与一郎の容態が悪くなりました。


 薬師(くすし)の話では、もって一月、もう手の施しようが無いとまで言われました。

 私は困り果てた挙句、寧々様にご相談し、今浜へ与一郎を連れて行くことにいたしました。


 せめて与一郎が生きている間に、一目父の姿を見せてあげたいとの思いからです。

 郎党二人を伴い、荷車に与一郎を寝せて運びました。


 岐阜から今浜まで中山道を経由して、14里半、関ヶ原宿で一泊して、二日目の夕刻には無事今浜に着きました。

 今浜はお城の普請中であり、小一郎殿の住まいも一応あるのですけれど、飽くまで仮小屋でございました。


 いずれ、城下町を作るので、その中に、小一郎殿の屋敷も賜ることになっているとのことでした。

 お城を含め、その周囲全体が大きな普請現場になっているのでございます。


 今浜に着いて三日目でしょうか。

 それまで半分意識の無かった与一郎が、突然にがばっと起きあがったのでございます。


 何やら手足を動かしておりますが、そんなに急に動いて大丈夫なのでしょうか?


「与一郎、大丈夫?

 昨夜までは生死の境をさ迷っていたのやから・・・。

 そんなに急に動くのは良くないやろ。」


 そう申しましたなら、与一郎が目覚めてから初めて言った言葉が、


「カカ様、おなかがすきました。」


 なのです。

 確かに、この三日ほどはほとんど食していませんものね。


 お腹が空いたと言えるのなら、少なくとも良い方向に向かっているのではないでしょうか。

 私は思わずうれし涙を流し、そして微笑んだのでございます。


 薬師はもう駄目とまで申していたのに、本当に奇跡でございます。

 神か仏が与一郎の命をつなぎとめてくれたに違いありません。


 それからの与一郎の回復ぶりは周囲の者も驚くほどにございました。

 翌々日には、外に出て散歩をするまでになっており、帰って来るなり「ウミで捕った。」と言って、小さな与一郎では一抱えもありそうな大きな魚を私に寄越したのでございます。


 魚は三枚におろし、塩焼きにいたしましたが、小一郎殿も含めて三人で食べるには大きすぎた故、ご近所で働く顔見知りの女子衆に分けてあげました。

 この普請の飯場で働く飯盛り女衆ですが、気の良い方々で私も仲良くさせて頂いているのです。


 仮住まいは、正直に言って、出来が良いものではございませんが、毎日小一郎殿が返ってくる家なのですから贅沢も言えません。

 与一郎が元気になったのですが、いずれ今浜の城下町に住むことになろうかと思うので、結局岐阜には戻らず、この今浜で暮らすことにいたしたのでございます。


 与一郎は、死にかけの状態から奇跡的に持ち直して後、随分と変わった子になりました。

 散歩に出ると決まってウミから魚を捕ってくるのです。


 ですから、二度目からは貸し与えた(ざる)を片手に、散歩に出かけていますね。

 日に日に健康になり、やせ細っていた腕や足も肉がついて本当に健康になってきているのが目に見えるのです。


 それを見て私と小一郎殿が目を細めるのが、夕餉(ゆうげ)(なら)いでございますね。

 そうして与一郎の物言いが以前よりずっと大人びてまいりましたね。


 私も暇を見ては、文字を教えているのですけれど、覚えがとても早いのです。

 十日も経たぬうちに私が教える全ての文字を覚えてしまいました。


 ですから与一郎の為に書を()うてあげたいのですが、最寄りにはそのようなものを売っている店も御座いません。

 岐阜城下か若しくは都にでも行かねば無いかもしれませんぬなぁ。


 小一郎殿と相談し、追々(おいおい)、与一郎の為に、古い物でも構わないので書を(そろ)えてやりたいと存じます。

 後は、小一郎殿は武士でございますので、与一郎に剣術なども教えねばならぬのでしょうけれど、剣術の師となると、身近にはいないものなのです。



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