第12話
裕也は、部屋の中で立ち尽くしていた。カーテンは閉じたまま、空気はよどみ、冷蔵庫の稼働音だけが生活のリズムを刻んでいた。あれ以来、バイト先には行っていない。というより、もう行ける空気ではなかった。村井との会話がきっかけで、あの空間は裕也にとって「過去」になった。グループLINEに入っていた他のバイトたちからも、何も言われなかった。ただ、静かに距離を置かれていく感覚だけが残った。気づいたときには、シフト管理アプリから自身の名前が削除されていた。
形式上の連絡もなく、LINEも未読のまま。問いただす気力もなく、裕也はスマホの電源を切った。それが、すべての接点だったのに。それすらもいらないと思えるほど、自分自身が不要に感じられていた。通知も、通話も、もう来ないことはわかっていた。この部屋と外の世界をつなぐ線は、あっけないほど細く、そして静かに断ち切られていた。
家賃は高かった。見栄を張って契約した駅近の1K。都心にしては設備がよく、入居当初は「勝ち組っぽい暮らしだな」と満足していた。だが、収入の出どころが絶たれた今、ただの重荷だった。家賃、光熱費、スマホ、ネット回線、日々の食費。手元にあったキャッシュは徐々に削られ、数字が減っていくたびに、現実の残酷さが濃度を増して迫ってきた。
食事はコンビニの半額弁当。もしくは、袋ラーメン。以前は買い物のついでに限定品を探すことが癖だった裕也も、今や価格しか見ていなかった。買って売る。それだけのことで、金を得ていた日々が、もう二度と戻ってこないのだと、本能が知っていた。
PayPayフリマとメルカリ。両方から「利用制限」の通知が届いたのは、ある雨の日だった。雨音がガラスを叩く中、スマホに届いたメールの件名を見た瞬間、心臓が一度だけドクンと跳ねた。
「ガイドラインに反する出品行為」
「悪質な転売と判断」
「今後の利用は不可」
文面は淡々としていたが、その一文一文が、裕也にとっては終わりの告知だった。ツールは死に、アカウントは封じられ、すべての収益経路が断ち切られた。
SNSのアカウントも、もう触っていなかった。いや、正確には触れなかった。新しく投稿する勇気などなかった。何を言っても燃料にされる。黙ってても「逃げた」と書かれる。過去の投稿が延々と転載され、顔も出していないのに、知人から「これお前じゃね?」というDMが来る。それだけで、外出する足が止まった。コンビニに行く時間を深夜にずらし、駅前の店は避けた。目が合っただけで「バレたんじゃないか」と疑い、背中に視線を感じた気がして振り返る。被害妄想と知りながらも、心が休まる瞬間は一度もなかった。
誰かに話そうにも、話せる相手がいなかった。友人と呼べるような関係は、元々あいまいだった。転売で生活を立て直し始めてから、わかり合える人間が少なくなっていった。苦労話をしても理解されず、自慢と捉えられるか、引かれるか。だから、会話は減った。会わなくなった。
普通の人間として接するには、裕也はすでに逸脱しすぎていた。そして今、稼げる人間としての看板も失った。どこにも属せない。何者でもない。それは、思ったより冷たい孤独だった。
室内には、在庫の山が積まれていた。一時期、仕入れ用にストックしていたもの。プレ値で売れるはずだったその箱たちは、今やどこにも持ち込めない。不用品回収業者に連絡する気力もなく、それはただ、墓標のように部屋の隅を占拠していた。あの箱たちを見ながら、裕也は思った。「これが俺の成果だったのか」と。
何も残らないという現実は、金が尽きてからではなく、期待が消えてから訪れる。もう次はない。次の転売も、次のチャンスも。次の仕入れ先も、アプリも、フォロワーも。次に来るのは、この世から消える順番だけだった。