第11話
翌日、バイト先の休憩室は、いつもと同じように冷房が効いていた。蛍光灯の白い光、微かに聞こえる冷蔵庫のモーター音、コンビニ弁当の温め音が、異様なまでに日常を演出していた。ただ、その中心にいるはずの自分が、まるでよそ者のように感じられて仕方がなかった。スマホを伏せて置いているのに、画面の向こう側の世界のざわつきが、空気を振動させて届いてくるようだった。村井が弁当のふたを開けながら、こちらをちらりと見た。
「なあ。……昨日のことなんだけどさ」
嫌な予感がした。口の中に入れた弁当の味が、妙に薄くなった気がした。
「なんかさ、あれ、やっぱお前だったんじゃね?」
「…は?」
「いやさ、ハンドルネームも似てるし。投稿の文体もわかるんだよ。お前って、自信あるときにああいう感じの書き方するじゃん。“月収30”とか、“大学も就職もいらん”とかさ。あれ、まんまじゃん」
裕也は、箸を止めた。村井の目は、笑っていなかった。詰問でもない。ただ、確かめにきていた。友情でも、好奇心でもない。自分という存在を、どう分類すべきかを確かめる作業。
「見たのかよ」
「見たよ。てか、もうみんな見てるって。あのアカウント、スクショつきでまとめ回ってるし」
「……お前も、叩いたのか?」
「いや、そういうのはしてない。でも、……なんていうか、ちょっと引いた」
「はあ?」
「ごめん、正直に言うわ。俺、転売とか別に全部が悪いと思ってなかったよ。最初は『へー、稼げてんだ』くらいで聞いてたし。だけど、あの投稿はちょっと……」
「何がちょっとなんだよ!」
「煽ってたじゃん。お前らには無理って顔だったよ、あれ。努力したやつだけが勝つとか、並ぶだけで買えるのに買えないやつは負け犬って、そういう匂いがしてた」
裕也は、言葉が出なかった。自分の投稿がそう読まれていたことに驚いたのではない。それをあの村井にまで指摘されることに、なぜか焦りに似たものを覚えた。彼はいつも適当で、深くものを考えない側の人間だった。自分が、心のどこかで勝ったと思っていた相手だ。
「お前も、負け犬の側だったんだな」
それは思わず口から出た。自分でも驚くほど、軽く、鋭く。
村井の表情が一瞬だけ強張った。数秒の沈黙のあと、「やっぱな」とだけ言って、席を立った。ドアが閉まる音が、やけに硬く響いた。
裕也は弁当の残りを見つめながら、食欲がすっかり消えていることに気づいた。箸を置き、スマホを手に取る。Xを開くのに、もうためらいはなかった。燃えていた。というより、完全に素材化されていた。自分の過去投稿が、まとめ画像のなかでサムネイルとして踊っている。動画配信者が「転売ヤー、終焉の記録」と銘打った10分の動画で、自分のアイコンが無断使用されていた。コメント欄には「顔特定まだ?」とか、「こいつバイトしてるらしいぞ、どこだよ」とか、現実ににじみ出す一歩手前の言葉たちが溢れていた。
(ここまで来ると、もう逃げようがない)
やっと理解した。ネットの中だけの炎上という段階は、とうに過ぎていた。村井との関係も、もう戻らない。あの会話が、最後の接点だった。彼の目にあったものは、怒りでもなければ、失望でもなかった。ただ、距離を取るという判断をした人間の目だった。潔癖でも、正義感でもない。これ以上関わって得がないと判断した冷静な線引き。
そして、それは今後、ほかの人間関係にも適用されることになる。家族はどうか。地元の友達は?高校時代のLINEグループで、誰かが話題に出していないと、言い切れるか?
スマホが震えた。通知ではなかった。それは、非通知の着信だった。
裕也は出なかった。受け入れる準備が、まだできていなかった。誰かが、自分を見つけたと伝えてくるかもしれないという恐怖は、ネットの文字よりも何倍も重かった。
目を閉じた。頭の中で、村井の言葉が何度も蘇る。
「ちょっと引いた」
「やっぱな。」
正当化は、もう意味を持たない。自分で掘った穴に、言葉で土をかけても埋まらない。
裕也は、再びスマホを伏せて、机の上に置いた。目の前の世界が、じわじわと狭くなっていくのを感じながら、しばらくそのまま動けなかった。