脳の治療
目覚めると、私は息苦しさを覚えました。無理矢理呼吸させられているようで、勝手に肺が動くのですが、自分の思う様に息を吸って吐こうとすると、どうにも勝手な動きとリズムが合わず、気持ち悪く、苦しく、涙が滲んでくるので、わけもわからず、ひたすら呼吸をしようとしますが、すればするほど苦しいのでした。そうしていると、ある時パッと私の顔に装着されていたものが外れ、落ち着いた頃にそれがマスクであった事を理解しましたが、それが外れた瞬間、私の呼吸は私の思う通りできるようになったのです。マスクを外した方は看護師さんのようで、私に向かって、気が付きましたか、と微笑みました。
「お名前は言えますか」
名前を言うと、
「ここがどこだかわかりますか」
病院ですね、と言うと、
「なぜここにいるかわかりますか」
「……どうしてでしょうか」
わかりません。それだけ、どうしても、思い出せないのでした。一体自分が身体のどこを悪くして、どうやってここに来たのか。
「大丈夫ですよ。もう少ししたら、先生が参りますから、説明があると思います。息は苦しくありませんか」
大丈夫だと答えましたが、看護師さんは、念のため胸の音も聴かせてくださいね、と聴診器で聴き取ってから、マスクの補助がなくても呼吸はできていますね、と微笑んで、それから病室を出て行かれました。
病室は個室で、薄暗く、それが私には心地良く感じられました。左側には点滴のポタポタという音が聞こえます。右側には心電図の電子音が聞こえます。右手人差し指の先には何かの器具が付いているようです。何らか医療的意味のある物なのでしょうから、そっとしておくことにしました。
しばらくぼんやりとただ天井を眺めていると、扉の開く音がしました。今度はお医者様のようです。先生は軽く名乗った後、直ぐに状況説明にかかられました。
「あなたの受けた手術について説明しましょう。まずあなたに何が起こっていたかというと、脳のですね、脳の一部が壊死していたんです。細胞が死んでいるわけですね。死んでいるので当然壊死した部分は元には戻らない、というのがこれまでの医療の限界でした。ところがですね、最近は光明が見えてきていまして、万能細胞を用いた壊死組織の再生技術が確立してきたんですね。つい最近、人間での脳の再生治療の治験が開始されまして、既に一名、無事な経過をみせて退院していますし、他にも数名、手術が成功して経過観察中ということです。あなたにも脳の壊死が起こっていたので、どうにかしなければかなり重度の意識障害と麻痺が出ていたわけですが、御両親の御同意が取れましたので、治験参加という形で治療をさせていただいたわけです」
両親は、なんとしても私に治って欲しかったのだな、と思いました。確かにそうでしょう。普通ならまだほとんど病院の世話にもならずに済むほど健康に過ごせる若い年齢の我が子が、重い麻痺を遺してしまうなど、そう簡単に受け入れられるものではありません。まだ子供をもったこともない私にも容易に想像はできました。
「ところで、看護師の記録によると、あなたの認知機能は概ね正常なようですが、なぜここにいるのかは答えられなかったそうですね。ここに来るまでのことは覚えていませんか」
「はい。……大丈夫なんでしょうか」
「あなたとしては思い出せなくてすっきりしないかもしれませんが、医学的には問題ないといいますか、少なくとも現状の不調というわけではありません。壊死していた部位には記憶を司る場所も一部ありましたから、そこを新たに再生させて壊死した古い組織と入れ替えたことで、治療前の一部の記憶に欠けが生じた可能性はあります」
先生は、また明日、様子を見にきます、と言って出て行かれたのでした。