第十七話 他の誰かにとっての君を
少し長いです。
目的の遺跡に向かう途中。
馬車を操って町からはだいぶ離れた森の中で。
俺は馬車の御者を務め、ベルは箒に乗って周辺の警戒、馬車の中には学生二人とマリナがいる。
学生二人は初めて会うマリナに対して、最初はおっかなびっくり話しかけていたが、歳が近いこともあって、時間がたって打ち解けたようだった。
季節はもう秋だ。
日が沈むのも早くなり始めたために、そろそろ野営地を探そうとした、その時だった。
「ウィル!何かいるわ!」
「どこだ!?」
「すぐ近く!何らかの方法で姿を隠しているわ!数は……20!?」
ベルが何かの接近に気づく。しかし20とは随分と多い。
なによりその接近にベルが気づかなかったことも気がかりだ。もちろん俺も気が付かなかった。
ただの獣や魔物ならこんなことはあり得ない。気が抜けていたとしても20もいればさすがに気づく。
なら相手は姿を隠せる魔物の類と想定する。
ベルがすぐさま風を起こして土煙を発生させると、舞い上がった砂にまみれて、異形の集団が露わになった。
その数は聞いた通り二十、いやもっといるかもしれない。
「こいつら、悪魔か!?」
見たことのない相手、だが知識としては知っていた。あれは悪魔だ。
悪魔はこの世界のどこにでも出現するが、その生態は謎に包まれている。悪魔は人語を介さず、加護もない。知性はあっても理性が薄く、人を始めとした生物を襲うことに執着している。
「気を付けて!中位の悪魔がいるわ!魔法で姿を隠してるのよ!」
ベルの知らせに思わず舌打ちをする。
加護はないために、よくあらわれる下位の悪魔は大した力はない。
だが中位の悪魔は違う。そいつらは一定以上の力と理性を持ち、魔法を使うことがある。
魔法の使えない人類の宿敵とされている。
「ベル!突っ切るぞ!他はいいから前方だ!」
「わかったわ!合図したら走って!」
今回はそんな中位の悪魔が20体の低位の悪魔を引き連れて襲撃してきた。
そんな悪魔どもに囲まれては馬車を守りきるのは難しい。前方を突破するしかない。
そう決めてベルの準備が整うのを応戦しながら待っていると、馬車の中にいたマリナが話しかけてくる。
「ウィル!……何があったの!?」
「悪魔の襲撃だ!突破するから衝撃に備えろ!」
「ちょっと!悪魔ってどういうこと!?こんなところに悪魔なんているわけないじゃない!」
悪魔と聞いて、ヒルダがマリナを押しのけて俺に叫びかけてくる。
「ヒルダ!とにかくじっとしているんだ!」
「できるわけないじゃない!悪魔が出たんなら戦わないと!」
「突っ切るからじっとしていろ!」
興奮したヒルダをアルドリエが嗜める。
ただの魔物やら動物なら、2人に手伝ってもらってもよかったが、この規模の悪魔となれば話は別だ。
そうこうしているうちにベルの準備が整った。
「さぁ、突っ込みなさい!」
合図とともに手綱で鞭打ち、馬を走らせると、目の前から襲い掛かってきた悪魔3体が爆炎で吹っ飛んだ。訓練された馬はそれにひるまずに走り抜ける。
悪魔の包囲を抜けてからも走り続ける。
やがて日は完全に落ち、目の前の道が山道に入った。そこは反対側が崖のように切り立っている危険な場所だった。
さすがにここでは速度が出せない。道幅は十分にあるが馬も疲れているし、何かあれば馬車ごと真っ逆さまだ。
ただここまでくれば遺跡まであと少しだ。
本来ならここで休むころだが、悪魔どもが追ってきているなら安心はできない。暗くなってきたがそれでも進むしかない。
「ちょっと!悪魔どもはどうなったのよ!」
少し落ち着いたところで、再びヒルダがヒステリックにわめきだす。
「騒ぐな。恐らく追ってきているからどこかで迎え撃つしかない。2人は馬車で待機、俺とベルで応戦する。マリナは二人の護衛だ」
「なんでよ!私だって戦えるわよ!アルドリエだって!悪魔を前にして黙っていられるもんですか!」
「おい!!」
ゆっくりとはいえ、それなりの速さで進んでいた馬車からヒルダが転がり出る。ちゃんと着地できる当たり、腕にも確かに自信があるのだろうが、この暗さと魔法を使う悪魔が相手だ。
この暗闇で姿を隠されれば、対策なしでは立ち向かえない。
彼女が残って戦おうとするので、慌てて馬車を止め、御者台から降りて戻るように言う。
「かかってきなさい!悪魔ども!」
「ふざけてんじゃねぇぞ!戻れよ!」
剣を抜いて、近くにいるであろう悪魔に向かって叫ぶ。
まずい、非常にまずい。包囲を破った後、わざわざベルが悪魔から逃げられるように煙幕を張ってくれた。そのおかげで今は逃げられているが、彼女が叫べばこちらの位置が晒される。
止めようとヒルダの肩を掴む。
抵抗するようにヒルダが俺の腕を払う。
「うるさいわね!私なんか放ってとっとと行けばいいじゃない!」
「できる訳ねぇだろうが!」
こいつは!少しは人の言うことを――
「ちょっと二人とも!危ない!」
ヒルダともめているその時。
ベルの声が聞こえると同時、足元に爆発が起きて、目の前が真っ白になった。
中位の悪魔の攻撃だ――
一瞬で理解した。
そして頭が理解するよりも先に、とっさにヒルダの手を引っ張りかばう。
その直後、足元から巨大な重しにかちあげられるような鈍い衝撃が全身を襲った。
痛みを感じるよりも先に、全身を強い浮遊感が襲う。足が地面から離れる。
次の瞬間、2人そろって崖から放り出されていた。
馬車の方では、悪魔と戦うベルの姿。
俺達に気づいて、手を伸ばしているのが見えた。
俺も手を伸ばすが、その手は空を切り、そのまま崖の下、夜の森に落ちていった――
*
くそ、ぬかった。
崖から落ちたが着地の際に風の魔法を使って何とか着地した。
ヒルダもつかんでいたので、今はそばにいるが気を失っている。無事とはいいがたい。
爆発を二人とももろに受けたんだ。俺は半ば聖人で常人より頑丈だが彼女は違う。俺でも節々に酷い痛みを伴っているくらいだ。彼女に関してはところどころで血が流れ、足が折れている。
見たところ、命に別状はなさそうだがそれもこのままでは危ない。
彼女の手当てのために手頃な木を折れた足に添え木として使う。
他にも応急処置は済ませたが、あとは彼女が目覚めるのを待つしかない。
さて、これからどうするか。
あの状況ではベルはすぐにはこちらに来られない。あの場には悪魔が大勢いた。その状況ではマリナとアルドリエを置いてこちらに助けに来るのは難しいだろう。よしんば悪魔を全員倒したとしても、他にいないとは限らないから、助けに来るのは期待しないほうがよさそうだ。
となるとこちらは別で動くしかない。集合場所は決めていないが、ここから近い遺跡なら何とかたどり着ける。3人が遺跡に来ることを願って俺たちも進むしかない。それもタイムリミットは明日まで。ここから崖の上まではおよそかなりの高さがある。
とても登れそうにない。
まだ空を飛ぶ魔法を覚えていない。もう半年近く練習しているのにな。
あと少しでできそうだがまだ安定しない。
「ん、うん……」
声がしたので見てみると、ヒルダが目を覚ましたようだ。
ただ起きた直後に体に走った痛みに顔をしかめている。
「大丈夫か?足が折れているから無理はするな」
「な、なんで……」
「覚えてないのか?悪魔の使った魔法のせいだよ。爆発が起きて巻き込まれたんだ。そして今は崖の下。遺跡からだいぶ離れたな」
ぼんやりとしていたが、俺の説明で現状を理解すると、すぐさま胡乱だった目を苛烈に険しくしてわめきだす。
「あんたが邪魔するから!」
「騒げるなら平気だな。それに指示を聞かずに飛び出したのはお前だ。それを邪魔するのは当然だ」
「それがなければ勝ててたわよ!あんたのせいではぐれたじゃない!」
「魔法の存在を知らないのか?魔法を使える者に普通の人間が勝つことなんてできない。知らなければなおさらだ」
「それでも倒さなきゃいけないの!お父様の仇なんだから!……つっ!」
言い合っていると痛みが走ったのか、彼女が顔をしかめわずかに声を上げた。
目に少し涙がたまっているようでかなり痛いらしい。
「あまり声を荒げるな。傷に響くぞ」
「誰のせいよ!っ!」
叫んでまた痛みだしたようだ。学習しないのか?
まあ、もしかしたら冷静な判断ができてないのかもしれない。
とにかく落ち着かせないと。
「悪かったよ。戻れたらちゃんと謝るから静かにしてくれ」
「フン!それよりこれからどうするのよ……帰れるの?」
「帰れるさ。ちゃんと合流できればな」
帰れると聞いて少し落ち着いたようだ。
ただその合流が少し難しい。俺一人なら何とかなるがケガをした少女一人抱えてとなると話は違う。マリナを連れて魔境を抜けたときとは違い、戦うも守りも一人でやらねばならない。何よりも今回は素手だ。
御者をしていた時に槍も盾も邪魔になるので、近くに置いていたが、彼女の予想外の動きで置いてきてしまった。とはいえ、魔法があるので戦えないわけではない。
「とにかく移動しよう。ここにいても危険だ。また悪魔が襲ってくるかもな」
「悪魔!今度は邪魔しないでよ!」
「何言ってる。その足で戦う気か?」
「死ぬまで戦ってやるわよ!」
「やめろ。合流すればいくらでも戦わせてやるから」
とにかく落ち着けて肩を貸して移動する。肩を貸す際にもひと悶着あったが、なんとか説得して歩き出した。
それにしても、どうして彼女はこんなにも悪魔や俺を目の敵にするんだろうな。
悩みながらも進む。すると野営にはちょうど良さそうな開けた場所に出た。
獣が寄り付かないように魔法で火を発生させて、ヒルダを下ろす。
「ここで休もう。食うものはないがしばらく我慢してくれ」
「……何も持ってないの?準備くらいしてたでしょ」
「あいにくと全部馬車の中だ。獣でも出れば食えるんだがな」
「け、獣食べるの!?」
「狩ったなら食うさ。以前食べた飛竜はうまかったぞ」
「飛竜!?食べたの!?いつ!?」
「グラノリュースから出るときに通った山だ。あの時は危なかったよ」
驚いた彼女に懐かしむように飛竜と戦ったことを話す。話しながらも野営の準備のために周囲の枝や葉を集める。
「鱗や牙も結構いい値段で売れたし、飛竜はおいしい獲物だったよ」
「普通勝てないと思うんだけど……先生って人間?」
「人間だよ……この世界の人とはだいぶ異なるけどな」
「何か言った?」
「何も」
枝や葉を集めて火をつけたら次は土の魔法で周囲に壁を作る。上は焚火をしているので開けたままだ。
土が盛り上がっているのを見てヒルダが話しかけてくる。普段ほとんど話さないのに今日はなんだか饒舌だった。
「……先生はいったい何者なの?天上人らしいけどグラノリュースでいったい何があったの?」
「……聞いても面白いもんじゃない」
「こんな状況じゃ何しても面白くないわよ」
確かに。彼女の言葉に少しだけ笑ってしまった。
彼女が気にしないなら、別にいいかと思い、話し出す。
俺がこの世界とは別の人というのは伏せながら、反乱があったことやそれまでの経緯、多くの人を失ったことなど、講義では語らなかったことも話した。
すべてを聞き終えたヒルダは、いつものヒステリーが嘘のように落ち着き払った……いや、落ち込み沈んだ声を出す。
「そんなことがあったの」
「……聞きたくなかったか?」
「そうね。聞きたくなかったわ。私にとって、天上人なんて敵でしかなかったもの」
そういうと彼女は目を伏せる。その顔には憂いが浮かんでいて、複雑な事情がありそうだった。
この際だ、俺が話したのだから彼女にも話してもらおう。
「確かにこの国にとって天上人は因縁があるだろう。だがそれにしてもお前の異常なまでの悪魔やグラノリュースへのこだわりはなんだ?」
「それこそ面白くない話よ」
「俺もしたんだ、話せよ」
促すと彼女は俯きながら、淡々と沈んだ声で話し出した。
「私の家は代々軍人を輩出している名門。かつて南部の将軍だった人もいる。先生は南部が以前、グラノリュースに侵攻したことくらい知ってるでしょ?」
「ああ」
「……そこで曾おじい様は死んだわ。大勢の気球にのった兵士たちを率いて攻め込んだ。みんな勝てるって、必ず帰れるって笑いながら向かったって」
「だが結末は……」
「ええ、曾おじい様に関わるものは何も帰ってこなかった。遠征に行った兵士もほとんど帰ってこなかった。僅かに残った兵士が言ったのはわずか数人の天上人を名乗る人間にほとんどすべての気球を落とされたこと」
アクセルベルクがグラノリュースに侵攻したときの話は、軍人になったときにディアークから聞いている。
たくさんの兵士や当時最先端だった気球を大量に投入しての軍事作戦。
結果は、彼女が話した通りの結末。
悲しい声の中、ヒルダはわずかに嘲笑を交える。
「笑えるわよね。絶対勝てるなんて息巻いて戦いを仕掛けてふたを開ければたった数人の人間に負けたんだもの。まだ私は生まれていなかったけど、当時のことを知るお婆様や幼かったお母さまは何度も私に言い聞かせたわ。強くなれって、グラノリュースにいつか復讐するんだって」
そんなことを幼いころから聞かされて育てられた彼女にとって俺はどう見えたのだろうか。
目の前に宿敵である天上人がのうのうとこの国で講師をしている。それもこの国の中枢で。
きっと内心穏やかではなかっただろう。
「お母様とお婆様が私にそんな話ばかりをしてくる中でも、お父様はいつも私にやさしくしてくれた。自分がやりたいと思ったことをやればいい、強くなるのは誰かを守るためだって教えてくれた。そんなお父様は軍人じゃなくて騎士だったけど、たくさんの人から慕われていたわ。だから私はそんなお父様の力になりたいと思って強くなろうと思ったの」
ヒルダが父親の話をするときの表情はとても穏やかでわずかに微笑んでいた。
なかば洗脳に近いほどの母親と祖母の教育の中でも、彼女の父親はとてもまっとうで優しかったのだろう。
彼女の父は軍人ではなく騎士だった。アクセルベルクで騎士とは軍人と異なり、教会に所属し、町の治安維持に務める者のことを言う。聖騎士とも呼ばれるもので地球で言うところの警察だ。
軍人は国家のために命を捧げ、騎士は民のために剣を捧げる。
そんな父に憧れて、彼女は努力したのだという。
話が進むと、再びヒルダの瞳に影が差す。
「……でもそんなお父様も、悪魔との戦いで亡くなったわ。最後まで大勢の悪魔に襲われた村の人たちを守って戦った。生き残った人たちはみんな感謝してた」
「素晴らしい人だったんだな……」
「ええ、本当に誇らしかったわ。民のためなら死などいとわないって言っていたの。かっこよかったと今でも思う。でも、でもね……」
そこで彼女は言葉に詰まる。そして放たれたのは嗚咽交じりの甲高い声。
「それでも私は!お父様に生きててほしかった!かっこ悪くてもいいから生きて欲しかった!私のために、生きて、欲しかった……」
しゃくりあげ、湿った声。まだ幼い少女の泣き声。
膝を抱えてうつむく彼女の下には、いくつものシミができていた。
彼女の慟哭を聞いても、俺には何も声をかけることができなかった。
本当の父親を亡くすつらさを俺は知らない。
彼女に懸けるべき言葉は、ついぞ見つからなかった。
しばらく泣いた彼女は、落ち着くとまた話してくれた。
「……お父様が死んでも、お婆様もお母さまも何も変わらなかった。強くなれって、グラノリュースを落とすんだって」
それを聞いて、俺の中にもわずかな熱が生まれた。
この熱の名前はなんだろうか、そうだ、怒りだ。
彼女の母や祖母は父のことをどう思っていたのか。代々軍人を輩出する家系でありながら騎士に属する父にいい思いを抱いてなかったのか。
それとも南部の将軍だった曾祖父に並々ならぬ誇りを持っていたのかもしれない。南部の将軍といえば今でいうアインハード中将だ。つまり聖人であり、それが自分の家族とあれば、末代までの誇りだろう。
だが民のために命を賭した父親の死を、悼まない理由にはならない。
「私は、グラノリュースなんてどうでもいいの。それよりもお父様を殺した悪魔が憎いの。皆殺しにしてやりたい。だから強くなろうと必死に勉強もしたし強くなった。それでもお母さまもお婆様もお父様のことなんて忘れてグラノリュースのことばかり!執行院の人も努力したのに力だけの馬鹿だと見下してきた!」
またヒルダの声に熱が戻る。
そこには、抑えきれないほどの怒気があった。彼女の大声が、静かな森に出来上がった、小さな土の壁の中で反響し、響き渡る。
「お母さまもお婆様も、執行院の人もみんな嫌い!大っ嫌い!……何よりいつまでもお父様の仇を取れない自分が嫌い!」
叫び、彼女は荒い息を吐く。
彼女の本音を初めて聞いた。
アルドリエは他の人に馬鹿にされてふてくされていると言っていたが、まったくもって違った。きっと彼も彼女の事情を知らない。
傲慢に思えたのは、余裕がなかったからだ。強くならなければと強迫観念に駆られて、周りの人間がのんきに過ごしているのを見て、我慢ならなかったんだ。
「もういやよ、今だって悪魔を前にして何もできなかった。大っ嫌いな天上人に助けられて、悪魔から逃げ出した。私、何のために生きてるのかな」
それから一転、彼女はひどく落ち込んだ。
日々のストレスや今の状況によって情緒が不安定に見える。
無事に帰れても自殺するんじゃないかと思えるほど、今の彼女はひどく不安定だった。
そんな彼女に、俺はありきたりな言葉しかかけられなかった。
「つらかったな」
「……つらかった。誰にも言えなかったもの。今はどうして話す気になったか不思議よ。あなたが私と同じで、大事な人を亡くしたからかしらね」
「忘れられない痛みだな……今でも思いだす。あの時、どうすればよかったのか」
「私にはそれもない。ある日突然、知らされた。心の準備も覚悟もなかった」
お互いに大事な人を失い、それが深い傷となっている。
だから今は傷のなめあいをしているが、これが不思議と落ち着いた。思えば、ソフィアを失ったあの時から、ずっと必死に生きてきた。
ハンターとして生きるための知識を学んで、決死の覚悟で国を出て、この国に来てからはずっと魔法や飛行船の研究だ。
心から安らぐ時なんてなかった。マリナやベルに対しても話していないことがあるし、そもそも顔も見せていない。
こんな雰囲気だからかセンチメンタルになってしまう。
だが俺にはこんなことをしてる暇はない。彼女に弱みを見せたいわけじゃない。
「人の死は突然だ。簡単に死ぬ。だから強くならなきゃならない」
「私にはもう無理。強くなりたい理由がないもの。グラノリュースに対する恨みも悪魔への憎しみもなんだか馬鹿らしくなってきちゃった。私には戦う力なんてない。執行院のみんなが言った通りね」
彼女には自信がない。今回の演習で自信をつけさせるつもりが逆効果だったようだ。
でもまだ演習は終わっていない。まだ彼女は立ち直れる。
「本当にそうか?」
「……どういうこと?」
「確かにグラノリュースへの恨みも悪魔への憎しみもなくなったのかもしれない。でもきみはまだ、父親が大好きなんだろう?」
「でももうお父様はいない」
「そうだな。でもだからといって父の願いまで死んだわけじゃないだろう」
「え?」
ヒルダが顔を上げる。その顔は泣き腫らして、涙や鼻水でひどい顔だ。
でも、彼女の目はまだ死んでない。
「君の父は君に生きていて欲しかったんだよ。強くなって誰かを守って欲しかったんだよ。村の子供たちを、他の誰かにとっての君を、助けたかったんだよ」
「でも、それで自分が死んでちゃ意味ないじゃない!」
「意味ならあった」
そう、意味ならあった。父親の死は彼女にとって辛い思い出だ。だがそれでも誇りに思っている。
死んだ人間の生に意味を作るのは後に残った人間の役目だ。
だから彼女の役目はまだ終わってない。
その役目も理解しないまま死のうとするなんて、それこそ無意味じゃないか。
「父親の死には意味があった。そしてその意味を作るのはヒルダ、君だ。君が父の遺志を継ぎ、誰かを守ろうと強くなれ。そして君の父の生には意味があったのだと、胸を張って言え。そして君の意志を継ごうと他の誰かが強くなれば、君の父の意志は、存在は、これからもずっと生き続けられる」
「……」
「ヒルダがここで諦めれば、それこそ本当の意味で父を殺すことになる。君はそれで本当にいいのか?」
きれいごとかもしれない。父の意志もなにもかも俺の勝手な想像だ。
それでも彼女の父親は彼女に生きて欲しいと望むはずだ。
俺の父さんは、きっとそう思ってくれるから……
「でもお父様がいないと私は……」
「父親がいないなら君が果たすしかない。それにヒルダを支えてくれる人は父親だけじゃないだろ?落ち着いて周りを見渡すといい」
「支えてくれる人?」
ヒルダを想ってくれる人は父親だけじゃない。ずっと一緒にいたアルドリエがいる。
「ああ、アルドリエはずっと君を気にかけていたよ。努力家な君に自信を取り戻してほしいと相談してきたくらいだ」
「あいつがそんなこと……」
「つらいこともあったろう。でも一人じゃないんだ。抱え込むな。俺たちだってヒルダが気になってるんだ。心配させるならせめて一緒に悩ませろ」
「……頼んでないわよ!」
彼女は声を荒げて、初めて会った時と同じようにそっぽを向いた。
ただその理由は、あのときと全く違う理由だった。
次回、「紫電一掃」