第七話 中層を抜けた先に
出発の晩、ウィルベルと下層に向かう道を歩く。
装備に登山道具諸々なのでかなり大荷物だが、ウィルベルは随分と荷物が少ない。ほぼ手ぶらだ。
「本当にそれで行く気か?荷物少なすぎないか」
「平気よ。この帽子の中に隠してるの。魔法使いなら当然よ」
「そうか、じゃあこれも入れてくれ」
「いやよ、だって重いもん」
「帽子の中に入れてるのに?」
「入れれば入れるほど、魔力がかかるの。そんなに入れたら、あたし動けなくなっちゃう」
空間魔法で帽子の中にものを入れるのか。定番だし便利そうだけど、さすがに楽なだけじゃないらしい。
「俺にも使えるようになるか?」
「できるんじゃない?もっと修練を積まなきゃだめだけどね」
ウィルベルがどや顔で自慢するように言ってくる。
腹立つが、確かにやっと基本属性を使えるようになった程度だ。ほかの魔法はまだまだ難しい。
「それよりどうやって下層に抜けんの?飛んじゃだめなら無理だと思うんだけど」
「そりゃ正面からいくさ」
横でウィルベルが馬鹿なんじゃないかといった目で見てくるが、考え付く中で一番安全でばれないのはこの方法なんだから仕方ない。
*
中層の防壁を堂々と抜け、下層に入った。
入った瞬間に感じたのは鼻につんと来る腐臭と排せつ物の匂い。
周囲にはボロの家屋が多く、貧しい生活を送っている人が多かった。夜ということもあり人通りは少ないが、そこらへんにみすぼらしい人が座っている。
下層はこの国で最も貧しく過酷な場所。それは自然環境ではなく、軍による迫害が最も激しいからだ。
満足に屋根のある場所で寝ることもできない。
幸いなのはこの国が南国で夜が冷えないことだろうか。
もっとももう冬だ。
夜遅くなるか、朝早くは冷える。
「ねぇねぇ、さっきいったい何をしたの?衛兵の態度がころころ変わって怖かったんだけど」
防壁を抜ける際の出来事を気にしたウィルベルが、何をしたのか聞いてくる。やったことは俺が城から逃げ出して中層に来た時にしたことと同じだ。
「何って会った衛兵たちの記憶から俺たちの記憶を抜いたんだ。そうすれば抜けても報告される心配もない。さりげなく頭部に触るのが難しかったが、結局記憶を抜くんだから問題ないな」
「記憶を抜くなんてできるのね……まさかそれあたしに使ってないわよね」
「大した記憶がなさそうだから抜いてねぇ」
「何よそれ!あんたの知らないこともたくさん知ってんだかんね!」
「そうか、じゃあちょっと頭貸せ」
「え、うそです。何も詰まってないんでやめてください」
馬鹿なことを言い合いながらも町を進む。いまだ発展途上といった具合で宿屋も見つからないので、適当な空き地で野営をすることになった。
テントを張って焚火をし、食事の準備をする。するとここで問題が起きた。
ウィルベルが食事の時間になっても何もしないのだ。
「お前、食事は?」
「……お金なかったから買ってない」
「……これでも食え」
「ありがと!」
一気に目を輝かせて食事にありつく。
これは困ったな。俺は食料を多めに持ってきているとはいえ、一人分しか持ってない。
食料がないとなると大変困ったことになる。今はまだ余裕があるが、いつ補給ができるかわからない。下層は食料に余裕がないから知らない人間に分けてくれない。
彼女はいったいどこから来たのだろうか。お金の使い方も杜撰だし、仕事の探し方もいまいちわかっていない。
魔法があって能力はあるのに活かし方がわかってないようだ。
「金がないなら言えよ、貸すから」
「お金の問題は大変だから安易に貸し借りするなって教わったし」
「誰に」
「お婆様」
「どこから来たんだ?グラノリュースじゃないんだろ」
「どこって言われても困るわよ、この国には送ってもらったから、どう来たかなんて知らないの。だから私も帰れないのよ」
帰れない?
……俺と同じで事情があるのか?
訝しんでいると、ウィルベルが肩をすくめながらなんでもないことのように言った。
「大したことじゃないんだけどね。一人前の魔法使いになるために外で修業しなさいって言われたの。この国に来たのは占星に優れたお母さまが占ってくれたから。この国に運命の人がいるからって。だから転移の魔法で送ってもらったの。でもお金がないから仕事を探してたらこんなことになったわ」
「急に送られたのかよ。準備もなく?」
「お金なら一応持ってたけど、使っちゃったのよ。外の世界なんて初めてだし、どうすればいいのかわからなかったから仕事探してるうちに無くなって、占って仕事を探したらここに来たのよ。ここに着いたときにあんたがいなかったの聞いてがっかりしたわ。食事もとってなかったし」
今言ってるのはウィルベルと会う前日の話だろう。彼女も占えるらしいが、精度は彼女の母ほどではないらしい。占ったところギルドにある掲示板が映ったということで、マドリアドのギルドを通じてこの場所に来たようだ。
彼女は故郷を出たことがなく、魔法使いが多いことから特殊な場所にあるんだろう。そこから外に出たのなら確かに今の様子も納得だ。
「そうか、ならこうしよう。魔法を教えてもらう間、君の生活の面倒を見る。これまで対価は銀貨だったが、こうして一緒に旅するなら問題ないと思うが」
「本当!?助かるわ、お金もらっても相場も価値もわからないもの。早速お小遣い頂戴」
「当分いらんだろ。下層はまっすぐ抜けるからすぐ山越えだ」
「ええぇー、おいしいごはんー……」
文句を言ってくるがこれから先、こんなことは頻繁に起こるから我慢してもらわないと困る。
この日はテントで夜を明かした。
*
明朝、日が昇ったばかりの時間に目が覚める。
ウィルベルはまだ眠っていたので、起こさないようにテントを出て町を散策する。見張りはしていないが鳴る戸を設置していたので問題なかった。これが獣相手なら無意味だが下層には人がいる。これで十分だった。
町を散策して下層の様子を見る。状況を見ていたが、この辺りはかなり貧しいスラム街のようだ。門が近いために軍からの略奪に合いやすいのかもしれない。
少し離れたところまで行ってみようと、路地裏を通ると複数の男が騒いでいるのが聞こえた。
様子を見ると2人の薄汚れた男が、座り込んでいるぼろ布をかぶった人物に絡んでいた。
「お前女だな?こっちこいよ、この辺り危ないからいいとこ連れてってやるよ」
「そんな体でも大丈夫だろ、楽しませろよ」
「い、いやぁ……」
朝っぱらから盛んだなと思いながら無視して通り過ぎる。
――だが直前で、ほんのわずかな違和感を覚えた。
進む向きを変更して、絡んでいる男2人のもとに向かう。
「いいからこっち来いって!」
「抵抗すんな!……あん?なんだてめぇは」
「ちょっとそこの奴に確かめたいことがある。どけ」
「ああ!?俺らが先に目を付けたんだぞ!」
「邪魔すんならふごッ!」
「がっ!」
穏便に済ませようと思ったが絡んできたので蹴り飛ばした。数メートル吹っ飛び、白目をむいて倒れた。死んではいないだろう。
力なく座り込んでいる絡まれた人物を見る。
布で全身隠れてわからないが、随分と小さい。
視線を合わせるように座り、顔を覆っているぼろ布を少しずらして顔を見る。
多少抵抗のようなものをされたが何の抵抗にもなっていなかった。
露になった顔を見て。
自分でも眉根が寄り険しい顔をしたのがわかる。
それは、かなり痩せこけていて汚れている女だった。
座り込んでいて背丈はよくわからないが小さく、病的なまでに細い。骨と皮しかなく、布の隙間からわずかに覗く胴体は、あばらが浮きまくっていた。
伸び放題の爪にぼさぼさの白髪交じりの黒髪。
今にも眠ってしまいそうな瞳。
さっきの男たちは、よくこんなので欲情したもんだ。
だが顔を見て違和感が確信に変わった。正確にはほんのわずかに体から発せられる神気を見て。
神気とは加護の力といってもいい。マナとは別の力の源だ。
イサークやオスカーが加護を発現した時には色のついた神気を体から発していた。
それが彼女からは非常に微弱だが常に神気が発せられているのが感じられる。光るほど明確な形があるわけじゃない。加護という形になっていない神気が常に彼女の体を作っている。
襲われたために加護が発動したのかと思ったが、助かった後でもそのままだ。
「名前は?」
「……」
聞いても警戒しているのか疲れているのか、こっちをボーっと見るだけで何もしゃべらない。
……いや、小さな口が僅かに動き、かすかな息を吐いているから何かしゃべろうとはしているのか。
喉が渇いているのかと思って、持っていた水筒を口にもっていって飲ませる。
何の変哲もないただの水だったが、よほど飢えていたんだろう、まるで乳を欲する山羊のように革袋に入った水を懸命に飲んだ。
無限に飲もうとするので、ある程度で止めて、再度質問をする。
「名前は?」
すると力のないかすかな声で答えた。
「ない……」
……名無し、ねぇ。
つまり物心ついたときから一人で生きていたのか。
その後もいくつか質問をしたがどうやら身寄りはなく、ずっとごみなどを漁って生きてきたそうだ。時には恵んでもらえたがこの間軍に攻められて逃げてきたらしい。
質問をしている間もずっと神気を放ったままだ。もしかしたらずっと発動するタイプの加護なのかもしれない。だが正直それはかなり珍しい。
なぜなら加護は自分の心からの願いと、その時の思いと行動が一致しないと発言しない。
例えば、オスカーの場合、心の底から願っているのはソフィアを守りたいという願いだ。そしてイサークにソフィアがやられたとき、ソフィアのために強敵に挑むという意志と行動が一致したから加護が発現した。
だが彼女は今なにもしていない。行動だって襲われたとき、食事をしている時、話している時とあったが常に変化しているからだ。
これは加護について深く知るチャンスかもしれないな。
「食事や寝床が欲しければついてこい」
そういって立ち上がり、背中を向けて歩き出す。
少女は少し悩んだのか、数秒止まってから、よたよたと立ち上がりついてくる。碌な食事をしていないから体力がない。
ゆっくり歩いてテントがある場所に戻ると、ウィルベルがすでに起きていた。
「どこ行ってたのよ、心配したじゃない」
「悪かったな、少し気になることができたんだ」
「気になること?」
そういってついてきた少女を見やると、ウィルベルが軽蔑するような目で見てきた。
「あんた、もしかしてそういう趣味?」
「ふざけろ。彼女を見て何か感じないか?」
「感じないわよ、あんたみたいな変態じゃないもの」
「しばらく飯抜きだ。そうじゃなく神気だよ、微弱だけど発してるだろ」
「ああ、確かにね。でもあんたからも出てるわよ。彼女より強く」
「何?」
それは初耳だ。なんでだ?
俺は加護が発現したことなんてない。オスカーもソフィアもアティリオ先生も俺から神気を発しているなんて一言も言わなかった。
だがウィルベルは何もおかしなことなどないと言わんばかりに、何気なく聞いて来た。
「自分のことだから気づかないのかもしれないけどね。前から気になってたんだけど、あんたってもしかして聖人?」
「……一歩手前とは言われたよ」
「やっぱりね。実は結構すごい人だったのね」
「その聖人てのはなんなんだ」
ウィルベル曰く、聖人というのは体の多くが神気で構成される進化した人種だそう。聖人になれば人よりも頑丈で膂力が大きく向上し、加護発現の効果も大きくなるらしい。また体の多くが神気であり劣化しないため、寿命が大きく伸びるとも。
ここに来て俺の体の謎が1つ、明らかになった。
「だから俺の身体はやたら力が強いのか」
「あたしとしてはあんたがそれを知らないことのほうが驚きよ。有名な話だし、てっきりあんたは半神になろうとしてるのかと思ったわ」
「半神?」
「それも知らないのね……」
呆れたような目で見てくるが知らないのだから仕方ない。
詳しく聞くと半神とは聖人であり、魔人でもある者のことらしい。
魔人とは体のほとんどが神気ではなく、マナで構成される進化した人種のことで聖人とは異なる特性を持つ。回復力が大きく上がり、敏捷性といった身体能力が大きく上がる。そしてマナに対する親和性もあがるため、魔法を強力かつ容易に使えるらしい。聖人同様にマナで体が構成されるため、寿命も延びる。
この聖人魔人になると半神と呼ばれ、神への階梯を上るという。ただ歴史上半神になったものは数少ない。
「歴史上、聖人は多いんだけど魔人は少ないのよね。だから一般的に聖人になるより魔人になるほうが難しいって言われてるのよ。その方法もわからないしね」
「寿命が延びるか……嬉しくないな」
「どうして?長く生きられるっていいことじゃない。誰だって死にたくないでしょ」
「どうだかな、少なくとも俺は寿命は人並がよかったよ」
さて、話は逸れたが少女のことだ。彼女から俺と同様に神気が微弱に発せられてるということは彼女も聖人に近いということだ。加護を調べたいだけだったが、今の話を聞けば、きっと彼女は役に立つ。
「聖人に近いとなれば思わぬ発見だ」
「まさか連れてく気?彼女これからの旅についてこれるの?」
「幸いやせ細ってるから背負えるだろ。この様子なら食料をさほど食うわけでもないし、森に入れば獣を狩ってなんとかなる。聖人に近いなら俺の分の食事を与えてもしばらくは生きられるだろ」
「なんでそこまでするのよ」
「必要になるかもしれないからだ。もし役に立たないとわかれば次着いた町で生きられるよう金を渡しておさらばだ」
「最低ね」
「同意はとるさ。それにここにいても地獄だ。それよりはマシだろうさ」
「そうかもしれないけど……」
渋る彼女の気持ちもわからんではないが、これから俺はこの国の王と戦わなければならない。戦力は少しでも欲しい。そうでなくても神気について知るチャンスだ。
無理に連れて行っても後ろから刺されかねないので同意はちゃんととるし、別れるにしても最低限生きていけるようにはするつもりだ。
汚れてやつれにやつれた少女に確認を取ろうと思って見るが、まだこちらを警戒している。ついては来たが、先ほどの襲ってくる人間同様に怖いのだろう。
どう警戒を解こうか。そう思うと隣から腹の音がした。
「……ごめん」
「……とりあえず飯にするか」
ウィルベルが少し恥ずかしそうに謝る。
ひとまず連れていくかは置いておいて、食事にすることにした。ウィルベルも俺も朝食を食べていないし、少女にいたってはまともな物なんてろくに口にしていなかっただろうから。
持ってきた手鍋に魔法で水を入れ、火を使って湯を沸かす。荷物の中から体に良く、消化しやすいものを取りだす。
ただどんなに胃に優しいものといっても、もともと健常者二人のための食糧だ。消化にいいものはそんなになかった。
だからよくゆでて、消化しやすいように調理することにした。干し肉は茹でて柔らかくする。出汁にも具材にもなるし、南国とはいえ、今は冬だ。長袖を着ていれば十分だが、このボロボロの少女はどこかで拾ったボロ布一枚羽織っているだけだ。時折体が見えているから温かいものを食べたほうがいい。
身体が見えても、その体は病的なまでにやせ細っていて汚れている。欲情なんて当然しないし、むしろ何とも言えない気持ちになる。
こんなものを見て先ほどの男たちはよく襲う気になったもんだ。彼らも追い詰められていたのだろうが、穴があれば何でもよかったのか。
茹でた干し肉の出汁に野菜を入れる。味に癖はあるが滋養強壮にいい野菜だ。
匂いが立って下層の貧しい住人たちに集まられると面倒になるため、ウィルベルが風魔法で匂いを散らす。
しばらく茹でているといい具合に干し肉の出汁が出て柔らかくなった。皿や椀なんてないため、少し大きいスプーンを使って食べる。スプーン自体は俺とウィルベルで二つある。今回は俺のを少女に貸すことにした。
ウィルベルはよだれを垂らしそうに口を半開きにして待ちきれないようだ。
一方で少女の方は変化に乏しい表情を変化させている。眠たげな目と小さな口が先ほどよりも少し開いている。驚いているようだった。
先に少女にスプーンを渡す。ただどう食べればいいのかわからないようだった。見かねたウィルベルが先に食べて手本を見せる。
少女は戸惑いながら、恐る恐る鍋を食べる。
「熱いから気を付けてね」
「……ん……!」
熱くて驚いたようで、口から食事をこぼす。
「あっ……う、うぅ」
せっかくの食事をこぼしてしまい、少女が涙ぐむ。そして癖になっている。落ちた土まみれに汚れた具材を取ってそのまま食べようとする。
俺は彼女の手を取ってそれをやめさせる。
「……!」
少女は俺の目を見てすぐに伏せる。一瞬ではあったが少女は絶望したような顔をしていた。
やめろよ、取り上げたいわけじゃない。
俺は落ちた具材を水でよく洗ってから、自分の口に運ぶ。少女は取られたと思ったのか伏せたままだったが、別に取ろうとしたわけじゃない。身体が冷えているのだから温かい方を食べればいいと思っただけだ。
彼女はスプーンを固く握ったまま、使おうとしないので、仕方なくウィルベルからスプーンを借りる。彼女も一連の流れを見て感じるものがあるようだった。
スプーンで鍋を掬い、うつむいたままの少女に差し出す。
「おい」
「!……んっ」
呼びかけてこちらを向いた少女の口にスプーンを突っ込む。今回はちゃんと熱くなく、冷たくもない程度にしたから大丈夫なはずだ。
少女は驚きながらもこぼすことなく咀嚼し、飲み込んだ。そのまま俺が続けて彼女に食べさせ続ける。
食べさせていると、彼女が俯く。
地面にぽたぽたと何かが落ちる。
また口からこぼしているのかと思った。でも違った。
聞こえてきたのは鼻を啜り、しゃくりあげる音だった。
思わず驚き、ウィルベルを見るが彼女も驚いていた。
できるだけ優しい声で尋ねる。
「どうした?」
「……あったかい……おい、じい…」
泣きながら、少女は答える。
よほど、今までの生活が過酷だったのだろう。
ただ、食事が温かいだけで、簡単な鍋の食事で。
泣くほどに嬉しいのだ。
俺とウィルベルは、彼女が泣き止むまで、ただただ待ち続けた。
*
少女が落ち着き、俺とウィルベルの食事が終わった。
先ほど食べた食事の水分がすべて出たと思うほど、泣き続けた彼女の目元ははれ上がっていた。ただ彼女の顔色は体温が上がったこともあって気色が良かった。
今ならちゃんと話せると思って、彼女を連れてきた本題に入る。
「俺たちはこれからこの国を出る。危険な旅になるが食事も出すし、町に着いたら自立できるようになるまで面倒を見てやる。来るか?」
「……どう、して?」
「お前の力が必要になるかもしれないからだ」
「なにも……できない」
俺が当てにしているのは、他の人間よりも彼女が聖人に近いということだ。聖人はとても珍しい。
そんな彼女が味方になって鍛えることができれば、きっと戦力になる。無理やり戦わせる気もないし、彼女が戦うのは拒否したとしても聖人として、神気について調べることができる。
彼女は俺たちに何も利点がないと思っているだろうがそんなこともない。恩返しなんて要らないし、こんな状態の少女にそんなことを期待するわけがない。
何より、今は何もできなくてもこれからできるようになればいい。
「そんなものはこれからだ。来るか来ないかどちらか選べ」
「……いきたい」
彼女はしっかりと俺の目を見て言った。
俺は笑った。
決まりだ、彼女は連れていく。
朝食の片づけをして、出発する。
少女は歩くのもフラフラなので体力がつくまでは俺が背負っていく。背中に背負っていたリュックは前にした。
下層は広く、1日中歩いても出ることはできなかった。下層は基本防壁に沿うようにできているが、ところどころ壁から離れたところにも村が点在している。そのためこの国を出るというとかなり歩かなければならない。
夜になり、食事をとって女二人が水浴びをしている間に野営の準備と食事を作る。できたところで二人が戻ってくるとウィルベルともう1人のぼろい少女がウィルベルの替えの服を着て戻ってきた。
見た目もさっぱりしてやせ細って不健康ではあるが見れるようになった。
「だいぶ見れるようになったな」
「あんたほんとに失礼ね。それより名前つけてあげてよ。いつまでも名無しじゃかわいそうよ」
「そうだな、頼めるか?」
「あんたがつけなさいよ、拾ってきたのはあんたじゃない」
参ったな、名前なんて付けたことないし思いつくのは日本名だ。
この世界じゃ目立つ。どうしようか。
……そういえば、聖人に近いなら日本名でもいいものがある。
「ならマリナにしよう」
そういうと、ウィルベルは目を閉じて、その名前を口の中で転がすように噛み締める。
そしてにかっと笑顔を浮かべて言った。
「いい名前ね。苗字は?」
「いるのか?」
「あったほうがいいよ、浮浪児として見られなくなるし、それなりの家の生まれってわかるからね」
「……悪いが思いつかない、苗字は頼んだ」
「しょうがないわね~。じゃあノーナミュリンにするわ。聖人だし神に近いってことで」
これで名前は決まった。マリナ・ノーナミュリン。
変わった苗字だと思ったが、意味は聖人やら神やらが関係するものらしい。俺にはわからん。
「マリナ・ノーナミュリン?」
「ああ、お前は今日からマリナだ」
「うんうん!いい名前ね!」
「……二人の、名前は?」
「ウィリアムだ」
「ウィルベルよ」
「ウィリアム、ウィルベル……2人は兄妹?」
「「ちがう」わよ」
マリナに名前を教えると似ているから兄妹だと思ったらしい。歳的にもありえなくはないし、俺は顔を隠しているから仕方ないかもしれない。
でも黒髪と銀髪だから全然違う。
お互いに名前を呼ばないから余計に誤解を招いているのかもしれない。
「似てる……何て呼べばいい?」
「好きに呼べ」
「じゃああたしはベルって呼んでくれていいよ!」
「ウィリアム、ベル……二人は、お互いに、なんて呼んでるの?」
「おまえ」「あんた」
「……」
ウィルベルと目が合い、にらみ合う。間にいるマリナは困っている。
「女の子に対してその呼び方はないんじゃない?」
「歳上に向かってその口の利き方はないんじゃないか?」
「仲いい?」
「よくないわ!」
言い合っているとマリナが仲いいと言い出し、ウィルベルが否定する。
俺としても魔法を教えてもらえればいいのでこのくらいの距離間のほうがいいかと思っていたが、仲良さそうに映るのか?
「じゃあこの際だからちゃんと名前を読んであげる。ウィリアムね」
「なんでそんな偉そうなんだ。わかった、名前で呼ぶよ。ウィルベルな」
そう言って名前と呼び方の話は一段落したので食事にする。体力をつけるためにマリナは多めだ。といってもたかが知れてる。
下層もだいぶ進んできたから、明日には下層の外、魔物や悪魔のいるエリアだ。
しっかり休んで備えなければならない。
今日がゆっくり休める最後だろう。
次回、「魔境」