第三十八話 南の父
結界が破れた。
限界まで膨れ上がった風船が割れて中身が飛び出すが如く、あたりから悪魔があふれ出す。
飛行船団が落ちた場所にいた軍勢は、落ちたという事実、そして墜落によって起きた被害によって恐慌に陥った。
悪魔は人間の恐怖に付け込む――
溢れ出した悪魔の軍勢に対処できずに連合軍に被害が出始める。
――そんな地上のある場所に、折れたほうきが転がっていた。
その折れたほうきを、血の滴る手が拾い上げた。
一部が破れた黒いローブととんがり帽子、血が滲み、煤や泥に汚れた白い肌。
飛行船から脱出したウィルベルだった。
拾い上げたほうきが折れていることを見たウィルベルは、溜息を吐きながらほうきを放り捨てると、帽子を脱いだ。
すると帽子から同じ形の別のほうきが飛び出した。
彼女はほうきに乗り、ふたたび大空へと駆けだした。
青かった空は太陽が隠れ、飛行船が墜落したことで上がる煙によって薄暗くなっていた。
頭から血を流し、心なしかふらつきながら飛ぶウィルベル。
「……どうなってんの? あんなのあたしの手に負えない。あれが王級の悪魔の仕業?」
突如発生した、一瞬で飛行船を全滅させた一撃。
魔法使いである彼女でもかなわないと感じさせる一撃。
いや、魔法使いだからこそ感じる、常軌を逸した一撃。
飛行船どころか、城を内部から破壊するほどの威力。
しかし壊れかけの結界にはなんの影響もなかったことから、ウィルベルはこれが同一の存在による仕業だと判断する。
「あの結界も普通じゃないわ。あんなに飛行船の攻撃を受けても破れないなんて……」
飛びながらウィルベルは眼下を見下ろし、襲来してくる悪魔たちに必死に対抗している連合軍を見やる。
飛行船の護衛として、空中でも高位悪魔に単独で対抗できる唯一の存在として配属されていたのに、何もできないまま、飛行船はすべて落ち、炎上した。
彼女は寄る辺を失った。
「あいつは、みんなはどこにいるの? とにかく合流しないと……う、うぅ」
目の前で多くの人間が死んでいく。
心を交わした友が死んでいく。
ウィルベルは口元を抑えて嗚咽を漏らす。
「ディアーク……」
思い出すのは、ヘルデスビシュツァーが特攻する直前の出来事。
◆
真っ二つに引き裂かんとばかりに迫ってくる横一線の衝撃波。
それを受けて、随一の大きさを誇るヘルデスビシュツァーが大きく揺れ、制御が効かなくなった。
「すぐに脱出しろ! パラシュートと脱出艇すべて使って構わない! 乗れるだけ乗り込め!」
旗艦の指揮官であり、飛行船団の長であるディアークが懸命に声を張り上げた。
しかし、その指示は他の飛行船にはもう遅く、次々と落下していった。
各所が燃え、落ちてゆく旗艦で、慌ただしく船員たちは脱出のために走り続ける。
唯一、ディアークだけはその場に立ち尽くしたまま。
一切脱出のそぶりを見せない彼を見て、一人、老齢の兵士の足が止まる。
「将軍!? いかがするおつもりですか!?」
部下の心配に、ディアークはふっと笑う。
「この船は俺の友が預けてくれたものだ。最後まで運命を共にするさ」
彼の顔を見て、眼下に広がる城と戦場を見て。
老齢の兵士は再びブリッジの中、配置についた。
「……お供しますよ、ディアーク閣下」
「いや、お前は――」
「私たちだってこの船と、あの人には恩があるんです。命を懸けて返したいんですよ。当然閣下にも」
老齢の兵士のあとに続くように、次々と兵士たちが戻ってくる。
戻ってきたのは、全員が顔に深い皺を刻んだ老齢の南部軍兵士たち。
「……馬鹿者どもめ」
ディアークは困ったような、それでうれしいような表情を浮かべた。
旗艦には南部軍出身のものが多くいた。
そして、南部軍はすべからくディアークを慕っていた。
ウィリアムと同じく、いや、古参からすればそれ以上に、ディアーク・レン・アインハードは英雄だったから。
80年前、敗戦後の南部。
何もない閑散とした未来のない大地。
それを一から、ともに再興した同志たち。
「私たちはずっとともにいます」
「南部の未来は明るいですよ」
「あんな英雄がいるんです。閣下と同じくらいの英雄です」
船とディアークと、運命を共にしようとする兵士たち。
ディアークの頬に、一筋の涙が伝う。
「ああ、とても誇らしい。……南部には数多くの英雄がいる。今までも、これからも。なんと喜ばしいことか」
――俺たちの生は無駄ではなかった。
南部は不滅。
意思は消えない。
彼ら英雄たちの志は、新たな英雄たちへと受け継がれていく。
「ちょっと、何言ってんの!? そんなことしてどうするのよ!?」
そう、新たな英雄へ――
「あいつは、そんなこと望んでない!とにかくこの船は落ちるんだから、すぐに逃げてウィルに合流を――」
待ったをかけたのは、ウィルベルだった。
「ウィルベル、君にもいろいろと迷惑をかけたな」
「え? ちょ、ちょっと!」
ディアークはウィルベルの腕をつかんで、引きずるようにしてブリッジから出た。
抵抗するも、聖人であるディアークの前では、華奢な少女でしかないウィルベルは抗うこともできなかった。
「ねぇ、本気なの!? この船と運命を共にするなんて、そんなバカげたことを!?」
引きずられながら、噛みつく勢いでウィルベルは食い下がる。
「君にはわからないかもしれない。それでも俺たちにとってこの船は、この戦いは絶対に負けられないものなのだ」
「そんなの、あたしだって――」
「俺たちが降りれば、この戦いは負ける」
ディアークの確信を持った言葉に、ウィルベルは思わず抵抗をやめて、顔を見る。
その顔は覚悟を決めた、泣きそうな、優しい男の顔だった。
「目の前にある結界、あれを破らなければ我々は勝てない。そして破れるのは今をもってほかにない。この飛行船を使えば、最後の一押しで破れるのだ」
「で、でも、それであんたたちが死んだら……」
「本当なら、俺はとっくのとうに老衰で死んでいるはずだった。いや、80年前のあの日に死んでいるはずだったのだ」
多くの同胞を、多くの友を失ったあの日。
なぜ自分だけ生き残ったのか。
正しい情報を残すこともできず、自力で南部を再興することもできず。
ただずっと自らの無能を呪い、くすぶり続けていた。
それでも生きた。
そして、出会った。
――三つの眩しい光に。
「俺が生きているのは、きっとこのときのためだったのだ」
「このとき? こんな人が死んでばっかりの戦いのためなんて、そんなバカなこと言わないで!」
ウィルベルの必死の叫びにも、ディアークはただ優しく微笑んだ。
その顔を見て、ウィルベルは顔をくしゃりと歪ませた。
「バカみたいか、そうかもしれないな。でもそう生きるしかなかったのだ。俺たちの世代は生まれた時から戦いばかり。戦っては負け、勝つために日々を生き、その命を散らしていく。それが当たり前だったのだ。ならばその戦いに意味を見出すことは、俺たちにとって大切なことだ」
ウィルベルは小さく首を横に振った。
「そんなの、おかしいわ。だって戦うのは、生きるためでしょ? そのために死ぬなんて……」
「そうだな、生きるためだ。だが、もうそれは俺たちが生きるためではないのだ」
ディアークはある場所までたどり着くと、ウィルベルを引きずることをやめ、手を放す。
解放されたウィルベルはディアークと向き合い、文句を言おうとする。
しかし、ディアークの顔を見て声を詰まらせる。
――今まで見たことないほどの、何の憂いもない満面の笑み。
「俺たちは、次代を担う君たちのような若者が生きられる世界にするために戦っているのだ。だから君たちが平和に生きられれば、それこそ俺たちの勝利なんだ」
「……でも!」
「君と彼は光だ。この世界を支え照らす大地と太陽だ。君たちが生きられるのならば、この命を投げ出すことにためらいなど微塵もない」
「う……うぅ!」
ウィルベルは膝をつき、嗚咽を漏らす。
ディアークは彼女の肩に手を置いて――
「……マリナにも彼とともに生きてほしかった。彼女を守れなかったのは俺にとっても、耐えがたいほどの苦痛だった。年端もいかぬ、今までの人生で苦しい思いしかしてこなかった少女。彼女は幸せにならなければならなかった。それを台無しにしたのは、他でもない。あの国を落とせなかった俺のせいだ」
「そんなことは誰も思ってない! だから――」
「大事なのは自分がどう思うかだ。ウィルベル。そしてこれは自分のためでもある。この船と運命を共にすること、それが俺にできる、世界を作る若者たちへの最後のたむけだ」
ディアークはウィルベルの腕を掴み、強引に立たせる。
そして、彼女の背後にあった扉を一気に開く。
途端に、彼女の小さな体を吹き飛ばすほどの強烈な風が吹き込んでくる。
思わず風から帽子と顔を守ったウィルベルは、目の前に迫ったディアークの手に気付くのが遅れた。
気づけば、ウィルベルは船外へと投げ出されていた。
「ちょっ!」
「君は生きろ、彼とともに。これが俺が君たちへ送る、最後の言葉だ」
◆
船外に放り出されたウィルベルは、慌てて帽子からほうきを取り出したが、直後にヘルデスビシュツァーが生きのこったエンジンを全開にしたために発生した風にあおられ、ほうきの制御を失って落ちていった。
立て直そうとしても、飛行船から落下してくる部品にぶつかり、ほうきが折れた。
着地の瞬間に風魔法で強引に勢いを殺したことで一命をとりとめたが、ほうきは折れて怪我もしてしまった。
ウィルベルは涙を拭い、ふらつく体に鞭打って、アニクアディティ王城へ向けて飛ぶ。
そこにはウィリアムがいる、そう思ったから。
彼と生きろ――
ディアークから最後に言われた言葉に、呆然とすがりつくように彼女は彼を探す。
――しかし、ここは戦場。
彼女は唯一高位悪魔に対抗できる存在。
それは敵からすれば、最優先でたたくべき存在であるということ。
「回収は完了したわ」
ふと、彼女の耳に届いた怪しい声。
振り向いた先にいたのは――
「このような手弱女が最優先討伐目標であると?」
「そうそう、こんな幼いのに強いなんてすごいよね! どんなズルしやがったのか」
「どちらにせよ、ここで討てば下の獲物を好きにしていいって言われたから、さっさとやりましょ?」
「ヒャハハハ! さっさとぶち殺そうぜぇ!!」
ウィルベルを囲うように現れた四人の悪魔。
まるで最初からそこにいたのかと思われるほどに、その悪魔たちには気配がなかった。
悪魔は4人、どれも特徴的な見た目と口調をしていた。
「なによ? あたし、急いでんだけど」
「それはこちらも同じ。手負いのようだな。苦しませずに逝かせてやろう」
最初に応えたのは、赤と金を基調としたもっとも位の高い衣装に身を包んだほぼ人間と同じ見た目をした悪魔。
「カスピエル、何言ってやがんだぁ!? 苦しませて殺すに決まってんだろうが! つい最近開発した魔法を試してぇんだよ!」
口元が引きつったように裂けた悪魔が荒げた声は、わずかにぶれて聞こえた。
その姿もまた、まるで映像のようにぶれていた。
「ベヒモス、僕もやりたいよ! リリスがいれば遊び放題だし! ぐっちゃぐちゃにしてぇ」
次に話したのは、まだ若い青年のような顔をした悪魔。
でも後頭部には別人の顔があり、その顔は前の顔が喋った後に、ひどく苛立った声でしゃべった。
次に喋ったのは緑髪の妖艶の女性。
「ダンタリオン、かまわないけれど、治すにも限度があるからね? 気を付けてね? カスピエルもそれでいいかしら?」
女の悪魔は、両手の先に紫の光を集めながら鞭のように振り回していた。
その光が他の悪魔に触れた途端に、周囲の瘴気が一層深まる。
そして――
「いいだろう。我らが王の予定時刻まで時間はある。『花の収穫』には間に合うようにな」
カスピエルと呼ばれたリーダー格の悪魔が許可を出した途端に、悪魔たちは動き出す。
ウィルベルは左手の指を鳴らした。
途端に周囲に10近くの白く赤熱した剣が現れ、4人の悪魔に殺到する。
悪魔たちは避けることもしなかった。
なすがまま、体に剣が突き刺さる。
これで終わりかと、ウィルベルが不審に思っていると――
「ほう、これはなかなかだ。なるほど、王が警戒されるのもわかるというものだ」
「でもこの程度なら問題ないね! これも見破れないんじゃタカが知れてる」
依然として喋り出す悪魔。
「――っ」
ウィルベルが剣を爆発させる。
しかし、爆発した悪魔の体から霧が溢れ出し、視界を奪う。
周囲一帯から、悪魔の声が反響しだした。
「幻術……」
「「「そう! その通りだよ! 見破るとはさすがだね! ここまでしてわからなければただの馬鹿だ」」」
「そして敵は幻だけではない」
霧が一部、突如晴れる。
晴れた場所からまばゆい閃光が煌めき、真っ白く輝く光球が現れる。
「っ! あつっ!」
霧に隠れて、いきなり至近距離に現れた光球を慌ててウィルベルは防ごうとするが、光球が持つ高熱によって、魔力を持つ彼女のローブの一部が燃えた。
防ぐことはやめ、ほうきを操作して避ける。
しかし周囲一帯は霧の中。
彼女が霧に入った途端に――
「オラオラオラ!」
頭上から引き裂けた口から犬歯をむき出しにした悪魔――ベヒモスが両腕を大量の刃物に変化せて切りかかった。
ウィルベルは魔法剣を作って手ずから握り、見様見真似の剣術で攻撃を防ぐ。
しかしベヒモスは剣術の心得もあるのか、刃物そのものになった腕を自在に振るい、ウィルベルを切りつける。
「あうっ!」
「ヒャハッハー!! まだまだいくぜぇ!」
「このっ!」
錬金術と魔法によって作られた服を切り裂くほどの刃物を受け、ウィルベルの白く細い腕から鮮血が舞う。
距離を取るためにウィルベルは捨て身といってもいいほどの近距離で大爆発を起こす。
霧とともにベヒモスが離れる。
爆発により視界が開ける。
「……くっ」
悪魔たちの姿がはっきりと見えた。
――数十体の悪魔の姿が。
「分身まで……」
歯噛みするウィルベル。
悪魔たちには一切の消耗はない。一方でウィルベルの体は傷が多くつき、片腕はだらりと下がり血が流れていた。
「滑稽だね! とても見てて愉快だよ! このまま苦しませて殺してやりたい」
「4人は過剰だったかもしれないな。侮るよりはいいが」
「このまま細切れにしてやるよ!」
「ふふふ、治してあげようか? もう一度痛みを味わえるわよ?」
あざ笑うダンタリオン、カスピエル、ベヒモス、リリスの4人の悪魔。
ウィルベルはくやしさを滲ませて唇を噛む。
(こんなところで、死ねない!)
次回、「穴二つ」