第四十話 おなかすいた
ウィリアムが部屋を出て行ったことで、処理する書類が倍になったアグニータは机に突っ伏し、声にならない声を上げていた。
「うぇ~……」
そんなとき、
「ウィル~っ! お腹すいた! パン!」
執務室に場違いに呑気で元気な声が入ってくる。
ウィルベルだ。
「あれ、誰もいない……」
「うぇ~……」
「うわっ、アグニじゃない。何してんの?」
書類の山に埋もれ、うめき声をあげるアグニータに気づかなかったウィルベルはその姿に驚く。
そばによって様子を伺うと、のっそりという音が聞こえてきそうな動作でアグニータが突っ伏したまま顔をウィルベルに向ける。
「ああ、ウィルベルさんじゃないですか……どうしました?」
「ああ、いや、なんでもない。それよりどしたの? ウィル――わっ!?」
ウィルという言葉が放たれようとした瞬間に、アグニータは机の上の書類が飛ぶ勢いで体を起こし、心情を吐露した。
「ウィリアムさ~ん! 帰ってきて下さ~い! 書類が! 陳情が! 命令が! 溜まってるんです!」
「あ、あはは、それは大変ね……。というか凄い量ね。2人で処理できるの?」
ウィルベルが二人の机の上に積み上がった書類の山を見て乾いた笑いを浮かべると、アグニータは頭を抱える。
「うぅ、情けない話なんですけど、ウィリアムさんがいれば終わるんです……。あの人は書類仕事も早いので。それにあの人がいないと、私もなんだかやる気が出ません」
「確かにこの量を一人でってなると、やる気なんて出ないよねぇ」
「まあそれもありますけど……」
ウィリアムは書類仕事が早かった。
前の世界でしっかりとした教育を受けているため、本人は気づいていないがこの世界ではとても優秀だった。王女であるアグニータからしても仕事の速さには舌を巻いたほど。
だからこそウィリアムがいないことで彼女が処理する量は大きく増える。
一方でウィルベルはつまらなそうに髪を人差し指で巻きいじりながら、小石を蹴るような動きをする。
「それでウィルベルさんは何をしにこちらへ?」
「お腹がすいたから、ウィルにパンを作ってもらおうと思って」
「そうなんですか。食堂がありますし、そちらでもパンは出ると思いますけど」
「そうだけど、ここのパンの方が美味しいもの。甘いのとか」
へぇ、と適当な相槌をうちながらアグニータは部屋の中央にあるローテーブルの上のお菓子に目をやった。
そういえば、あのお菓子もウィリアムの作だったなと思い出す。
「ウィリアムさんって料理もできるんですね。文武両道ですし家事もできるなんて……」
アグニータが感心していると、ウィルベルは首を傾げた。
「ウィルは料理できないわよ」
「え?」
驚くアグニータ。
「え、でもパンもお菓子も作れるんですよね。料理ができないなんてあります?」
「なんでも食材がわからないらしいの。ハンターが作るような野性的なものしかできないのよ。ちゃんとした料理となると、正直ちょっと食べられないわ」
「そ、そうなんですか……」
料理ができないことが意外でアグニータは面食らう。
対してウィルベルはどや顔で胸を張る。
「3人で旅をしていたときはあたしが作ってたの。結構好評だったのよ!」
「そうなんですかっ、それは意外です!」
「え、どゆこと?」
思わず本音が漏れたアグニータはしまったと口を抑え、ウィルベルの機嫌を損ねないようにと必死にフォローの言葉を考える。
「いえ! ウィルベルさんに料理のイメージがなかったので」
「それってあたしには料理ができないって思ってたってこと?」
「いえ、そういうわけではなく、ただ料理といえばウィリアムさんの方が強かったので」
「……まあ確かにあいつの方がしょっちゅうなんか作ってるけどっ」
ウィルベルが頬を膨らませてそっぽを向く。
(やってしまった……)
アグニータはバレないように額を抑えて小さく息を吐く。ただそこで彼女には一つ気になることができた。
「料理ができないのにパンは作れるんですね」
「……まあ、そうね。なんかお菓子とパンは粉が同じだからって言ってたわ。ちょっと何言ってるかわからなかったけど」
「粉が同じ? ……ウィルベルさんはパンを作らないのですか?」
「一回作り方を教わって自分でやってみたんだけどね。めんどくさいし、うまくできなかったからやめちゃった。だからあたしはウィルのパンを食べる専門なの」
ウィルベルの少し横暴な言い分にアグニータは苦笑いをする。
その笑みを理解してくれたと勘違いしたウィルベルは勝手に彼女に約束をした。
「アグニもウィルのパンに興味あるなら一緒に食べる?」
だがその提案は彼女にとって嬉しいものだった。
「いいんですか!?」
「もちろんよ。こうして仕事ほっぽらかしてるんだもの。それくらい許されるわよ」
「ゴクッ……そうですね、それくらいなら許してくれますよね」
こうして、ウィリアムの知らないところで勝手に彼の仕事が増えるのだった。
ちなみに、この間にアグニータは書類の仕事を全くしていない。
その間に部屋の前の書類置き場に投函される書類は増えていく一方である。
「それで結局あいつはどこにいるの?」
「さあ、少し出るとしか。なんだか急いでるようでしたけど」
二人が雑談をしていると廊下から足音がした。
途端に、アグニータの目が見開かれる。
「はっ、この足音はウィリアムさん!」
「え? 足音でわかるの?」
「あの音の立て方、リズム。間違いありません」
「……ちょっと引くわね。そんなに追い詰められてたの?」
女の勘など一切働かないウィルベルは、ただアグニータの頭にドン引きする。
やがて扉が開く。
そこにはやはり仮面をつけたウィリアムの姿。
「ウィリアムさん! 何してたんですか!」
「ああ、良いことがあったんだ! 実は――」
「ウィル! お腹すいた! パン!」
ウィリアムの言葉をウィルベルが遮る。
普段であれば文句の一つでもいうウィリアムだったが、仮面を斜めにして顔を露にしながら、機嫌よく接する。
「また? こないだも作ったじゃないか」
「いいじゃない。戦争も終わったんだし」
「いいけど時間がかかるぞ」
「ならあたしがご飯作ってるわ」
いつものことのように2人はなんの違和感を抱くこともなく、隣に繋がっている簡易キッチンに移動する。
そのあまりに自然な流れに、そしてウィリアムがあっさり顔を見せたことにアグニータは一瞬あっけにとられた。
2人が部屋から出たところでアグニータは慌てて追いかける。
「ウィリアムさん! お仕事が!」
部屋には、山積みになった書類だけが残された。
次回、「報告しよう」