エピローグ~回顧~
夜遅く、獣人たちがいる屋敷から抜け出した。
夜の灼島を一人で歩く。
活火山の島というだけあって、夜でもとても暑苦しい。海の傍だから肌にまとわりつくような湿気が気持ち悪い。
でもこの湿気が、街並みと相まって日本を思い出させてくれる。
一人、静かな夜。
夜気の中をかすかな潮の香りが流れる。耳に入るなだらかな波が寄せては返す音。
こんな静かな夜は、どことなくセンチメンタルな気分になってしまう。
……早く元の世界に帰りたい。
心に浮かんだのは変わらぬ願い。
あの懐かしい日本の料理が食べたいし、祭りにも行きたい。
時折見える竜人たちの着物にも袖を通してみたい。
畳の上に寝そべりたい、海で遊びたい。
友人たちに会いたい。
家族に会いたい。
たくさんやりたいことがある。
そのうちのいったいどれだけを叶えることができるだろうか。
そもそも叶えられるのだろうか。
不安は尽きない。
きっと、俺は元の世界じゃ死んでいる。
戻っても、俺の居場所はどこにもない。
それでも伝えたい。
たった一言、届かなかったとしても。
――ごめんなさいって言いたいな。
何に対する謝罪なのか、誰に対する謝罪なのか。
親に向けたものか、友人に向けたものか。
殺してしまった命に対してか、好き勝手に振り回したこの世界に対してか。
歩いていると桟橋を見つけた。
なんとなしに桟橋を進み、その先端に腰を下ろす。足元には、光をゆらゆらと揺らすさざ波がある。
周囲には誰もいない。
仮面を取る。
竜麟を鍛え、竜を模して造られた仮面は昼間の戦いで傷が増えている。
この仮面をしなくてもいい日が、いつか来るのだろうか。
来たとしても、その頃には俺はどうなっているのだろうか。
未来にいくら想いを馳せても、何も見えやしない。
だからといって、過去にすがる気も今に向き合う気も起きない。
代わりに足元の水面に目を向ける。
覗き込めば、水面に揺られ、白く輝く月が見える。
後ろを向けば、橙色に赤熱した溶岩が空気を揺らしている。
手のひらを上に向ければ、青白い紫電が空気を焼く匂いがする。
「陽炎稲妻水の月。手を伸ばしても届かない、届きそうになっても逃げていく」
呟き、自嘲する。
いつの間に俺は詩人になったのだろうか。それも自虐的な。
体が震える。
きっとそれは夜でさむいからだ。
仮面を被る。
すっかり冷えてしまったな。
もうすぐ南部、暑いくらいの太陽が照らすあの場所に帰るんだ。
南部を出てからおよそ二年近く。
長かった。でもその甲斐はあった。
立ち上がり、屋敷に戻る道を歩く。
月がもう西の空に落ち始めている。まだ空が白むほどではないが、十分に朝といってもいい時間かもしれない。
ぼーっと空を見上げながら歩いていると、
「いたっ。見つけた! わんわん、眠れないの?」
前から明るい声がした。
見れば、エスリリにベル、マリナ、アイリスがいた。
エスリリとアイリスは元気そうだが、ベルはあくびを噛み殺しているし、マリナは眠たげだ。
「どうしたよ。全員そろって」
「なにって、あんたがいないって心配したエスリリに起こされたのよ。おかげでいい迷惑よ」
余計なことを。
別に夜に散歩するくらいは今までも平気でやっている。
「眠れないの?」
マリナが目をこすりながら聞いて来た。
「……灼島の夜は寝苦しい」
嘘をつく。
実をいえば、この世界に来て眠れない夜なんてしょっちゅうだ。最近は特にひどい。
でも今は聖人の体になったから、多少眠れないくらいは何も問題ない。
あまり深く聞かれたくなくて話題を変える。
「それよりも、本当に付いて来るのか? あっちに獣人にとって面白いものなんてないだろうし、命の危険だってある」
エスリリに尋ねる。
彼女とは昨日今日知り合ったばかりの、たいした思い入れもない相手だ。お互いに。
自らのためになんてびた一文にもならない戦場にどうして赴こうとするのだろうか。
「命の危険なんて戦士なんだからあたりまえ!」
俺の陰気な質問に、彼女は馬鹿みたいな明るい声で答えた。
「そこまでする必要があるのか? 昨日知り合ったばかりじゃないか」
エスリリは鼻から息を大きく吸い込み、
「だってとてもいい匂いがする! それにとても強いから好き!」
吐き出さんばかりに大きく言った。
俺は溜息を返す。
「そんな理由で?」
「そんな理由!」
「アホか?」
「あほじゃない!」
この後も何度か危険なことを説明したが、全然残る気はないようだ。
正直説得も難しい。
なんせ考えることを放棄しているから、いくら理詰めで説得しても意味がなかった。
「もういいじゃない。ウィル、この子だってもう子供じゃないんだし」
眠いからさっさと戻りたいのか、ベルが投げやりに言った。
「いや、子供だろ。歳いくつだ」
「十七!」
「子供じゃん」
この世界の成人は十六からだ。
長命種であるドワーフやエルフ、竜人は計算が異なるが、獣人は人間と同じだ。一応大人扱いではあるが、俺からすれば子供だ。
まあその辺を言ってもエスリリは引かないだろう。
俺は溜息を吐きながら諦めることにした。
「わかった。もう知らん。とっとと帰ろう」
「わんわん! やったね!」
「まったくもう、頑固なんだから」
「心配してるだけ……ウィルだから仕方ない」
「素直になればいいのにさ」
三人の言葉に若干ムッとしながらも、彼女たちの後ろについて泊っている屋敷に帰る。
「エスリリの尻尾ってふわふわね。触ってもいい?」
「いいよー」
「わあ、すごい……ホントにふわふわ。暖かい」
「これは、癖になりそうだね」
目の前で、楽しそうに話す四人の後ろ姿。
すぐ近くに居るのに、その姿が、その声が、とても遠くに感じる。
こうしてみれば、全員ただの幼い少女。
彼女たちには未来がある。家族がある。夢がある。
彼女たちの帰りを待ちわびる仲間がいる。
その辺の道端で無邪気に遊んでいそうな四人を――
死地に向かわせるのは誰だ?
人を殺めさせるのは誰だ?
傷つけるのは誰だ?
――『俺』だ。
彼女たちとは違う、未来のない『俺』だ。
どんなに生きたいと願っても、どんなに未来を夢見ても。
元の世界じゃ死んでいる。帰ったところで生きられない。
元の世界に帰るという目的が無ければ、未来のある彼女たちを犠牲にしなければ、『俺』は生きられない。
最近眠れないのは、そのせいだ。
自分の死が近づいているのがわかる。
どんな結果になったとしても、元の世界を生きた『俺』という存在は死んでしまう。
帰れば『俺』は死ぬ。この世界で生きることになったとしても、『俺』という存在は死んでしまう。
元の世界を諦めれば、『俺』は『ウィリアム』という、この世界の人間に取って代わられる。
だからこそ、この結末を自ら望んだはずなのに、怖くて怖くてたまらない。
これから先の戦いは、必ず誰かが死ぬことになる。
この四人が揃う光景も見ることはできないかもしれない。
他でもない、ただ家に帰りたいだけの俺の命令に従って。
この世界のために、彼女たちのために戦う気なんてさらさらないのに、彼女たちは俺のために戦ってくれるという。
「ほーらっ! ちんたら歩いてたら、置いてっちゃうよ?」
遠い世界に生きる四人。
ウィルベルが俺に手を伸ばす。
この手を取ることを、俺は許されるのだろうか。
答えは出ない、誰も教えてくれない。
悩んでいたら、必ず教えてくれる人はここにいない。
……父さん。
きっと父さんが今の俺を見たら、怒るだろう、止めるだろう。
でも、それでも。
まだ俺を息子と呼んでくれるなら。
今だけは、どうか愚かな俺を許してほしい。
彼女たちの暖かな手を取ることを、許してほしい。
差し出された、白く小さな手を取って、歩き出す。
白みだした空の光が、冷え切った俺の体を温める。
もうすぐ俺たちは、最も陽の当たる南に帰り、天上へと向かうのだ。
――俺の、本当の戦いが始まる。
次回、「幕間9:ウィルベルさんはモテる」
大変申し訳ありません、ストックはあっても気力が持ちませんでした……。