第十三話 未来を想う
ウィルベルとウィリアムが話をしている間。
ウィリアムを見送ったマリナは、積み上げられた本の一つを手に取った。
その本の背表紙には『星と世界』の文字。
「世界……やっぱり本当なんだね」
本の表紙を撫でながら、小さな声でつぶやく。
彼女が本を物色していると、アイリスがマリナのもとにやってきた。
「ここにいたんだね。マリナはウィルと何か話をしたのかい?」
「一緒にいるって言っただけ……家族になりたいって言ったら、断られちゃった」
マリナの言葉にアイリスが目を丸くして驚く。
「それってプロポーズってことかい? マリナは意外に大胆だね」
「ずっと一緒にいるってできないのかな……世界を渡るなら私も行きたい」
「それは……すべてが終わってからじゃないとわからないね。多分ウィルにもわからないよ」
世界を渡る方法がわからない以上、マリナが一緒に行けるかは誰にもわからない。
現状ではウィリアム一人も行けるかわからない。
ウィリアムの誤算だったのは、彼はマリナが自分に依存していると考えていたこと。
いろいろな人、広い世界を知っていけば、自然と自立して、この世界で生きてくれると考えていたこと。
だがそれは大きな間違いだった。
――マリナにとって、ウィリアムは世界の全てだった。
孤独で貧しい、過酷なだけの人生から救ってくれた人。
数々の偉業を、当たり前のように平然とやってのける人。
英雄と呼ばれ、たくさんの人に慕われる人。
……だけど本当は、誰よりも優しく、弱い人。
それでも戦う彼を尊敬し、愛情を抱くのは当然だった。
ウィリアムがマリナに世界を知ってもらおうとするたびに、マリナが世界と沢山の人を知っていくたびに。
余計にウィリアムの異質さが際立っていく。
ユベールの図書館に入ることも本来であればできないことだった。ヒュドラの討伐も高位の悪魔の討伐も何もかも。
そんな彼が何もなかった自分を大事に想っていることが、彼女には何よりも幸せで。
そんな彼の力になりたかった。
マリナの思いに気付かないまま、アイリスはマリナと二人きりのタイミングで、気になっていたことを尋ねる。
「そういえば聞いていなかったけど、マリナが聖人に近い理由はわかっているのかい?」
彼女の質問に、マリナは何も不思議なことはないとばかりに堂々と答える。
「それは私の加護のせいかな……今は変わってしまったけど、私の当時の加護は生きること」
「生きること? それってつまり、ずっと発現しているタイプの加護かな?」
「ううん、私は瀕死になったとき、何度も死にたくない、生きたいって願った……そのたびに体が楽になっていく感覚があった」
「つまり回復したってことだよね。それが聖人になった理由?」
そう、とマリナは小さくうなずく。
聖人になる条件はいまだ明らかにされていない。
限りないほどの戦闘を重ねていけば、いずれ聖人に至ると言われている。だがそれだけの戦闘を行ってもたどり着けない者がほとんどであり、逆に数多く戦闘に参加していない者が聖人になることもある。
加護が関係しているのではと言われているが、聖人になったものでも加護の強さも効果も条件も千差万別、共通するものはないためにずっと謎とされてきた。
だがマリナには確信があった。自分の加護が聖人にいたった理由だと。
「アイリスは聖人がどういった人間か……知ってる?」
「確か体の多くが神気で構成されている人だったかな。人よりも頑丈で力が強く、加護の効果も大きい」
「そう、身体の多くが神気でできている人間……じゃあ体を神気で作るには?」
「それが難しいんじゃないか。身体を神気にするには、たゆまぬ鍛錬と試練で肉体を昇華させるっていうのが通説だよ。まさかマリナの経験した過酷な環境で、肉体が昇華しているってことかい? 耐えられたのは加護のおかげということ?」
アイリスの推測をマリナは首を横に振って否定する。
過酷ではあったが、あの日々は言ってしまえば辛いだけ。
食事も満足にとれず、寒さに凍え震える日々。だがそれだけで聖人に近づけるなら、今頃教会の修行僧はみな聖人になっているはずだと。
彼女が加護のおかげだと言い切るのはその効果によるものだ。
「加護は神気を入れるただの箱……中の神気を意思に適した形で吐きだすだけのただの籠。私の加護は生きること。身体を神気で癒すこと」
確信めいた言葉。
マリナの言うことが理解できず、アイリスは首をかしげる。
「加護は意志によって形を変え、神気を放つ……つまり傷ついた身体を元に戻すのに神気を使っているということ」
「ということは、加護で傷を治せば、それだけ聖人に近づくってこと?」
マリナは頷く。
「私が聖人に近付いたのは、恐らくそれが理由……たくさんの試練や戦闘を行えばなれるというのは、それだけ加護で傷を癒してきたから」
「確かに軍や教会には癒しの加護をもつ人がいる。彼らがいれば傷を癒すのは可能だろうね」
この世界の治療は大きなものとなると加護に頼る。
実は癒しの加護は少なくない。
人の役に立ちたい、人を守りたいといった人が発現することが多いからである。
だが加護は不安定で効果もまばらであり、安定してたくさんの人を癒せる加護はそれだけ効果が小さい。効果の大きい加護はその分、発動する条件が厳しい。
こういった理由で、少し大きなケガをすると治せないことが多い。
戦闘となると簡単な怪我は応急処置で済ませてしまう一方で、大きな怪我をすると加護の発動が間に合わず、死に至ることもある。
だがマリナは自分の生命が脅かされたとき、加護が間に合うタイミングで必ず発動している。
それを幾度となく繰り返したから聖人に近づいた。
マリナの仮説に、アイリスは否応なく高揚していく気分に陥る。
「それが本当なら凄いことだよ! 長年の謎が解き明かされたんだから」
「でも実証なんてできない……今の私は加護が変化しているし、きっと信じてもらえない」
「ううん、きっと信じてもらえるよ。ウィルもいるしね」
「そうかも……でも聖人になる方法なんてどうでもいいよ。それよりもどうしてウィルは聖人になったのか」
マリナにとって気になるのは、聖人への至り方ではない。
本当に聖人になる方法が加護による癒しだった場合、どうしてウィリアムがあそこまで聖人に近付いたのか。
ウィリアムは気づいたときにはなっていたと言っていたが、本来であればあり得ない。
「ウィルは加護を見たことは数回しかないって言っていたね。癒しの加護なんてマリナが初だとも」
「それなのにあそこまで聖人に近づくなんてありえない……ありえるとしたら、瀕死のほぼ死んだ意識もない状態から、加護のみで傷を癒したとか」
「でもウィルは鍛錬で負った傷が精々だって言っていたよ。それだって加護じゃなくて自然治癒だし、そもそもこの世界に来た時から聖人に近かったんだ」
アイリスからの情報にマリナは顎に小さな手を当てて考える。眠たげな瞳を伏せて、しばし沈黙する。
やがて眼を開けて――
「となるとウィルが聖人になったのは他の方法……もともと彼の身体は神気で作られた」
「どういうこと?」
「ウィルはこの世界にどうやって来たのか……死んだと言っていた。でもその体は? 体をそのままにやってきたなら、ウィルを始めとした天上人は死んでいるはず」
「まさか天上人の身体は、この世界に来た時に神気から作られたっていうこと? 一体どうやって……」
マリナは天上人がみな一度死んでこの世界に来たと聞いてからずっと不思議に思っていた。どうして彼らは生きているのだろうかと。
その体はこの世界に来た時に治されたのか、それとも作られたのか。
天上人は誰もが他の人間よりも優れた膂力と頑丈性を持っている。ウィリアムはその中でも極めつけである。
もし死んだ肉体を神気で治し、この世界に来たのなら強くなるのは当然だ。
ではなぜウィリアムはその中でもとても強いのか。
マリナは一つの仮説を立てる。
「もしかしたら、本当にウィルは死んでない……だからこの世界に体を持ってくることができずに、一から体を作り直さなければならなかった」
「それが天上人としても異質な理由、か。でも一から作り直したなら、ウィルはもう聖人になっていてもおかしくないよ。それにもともと生きていたなら、その体をこの世界に持ってくればいいだけじゃないかな」
「そうだね……だから結局あの国に行かないとわからない。今のは全部ただの予測」
アイリスの全身に戦慄が走る。
マリナという少女を恐ろしく感じたからだ。
長年の謎だった聖人へ至る方法を見つけ、なおかつウィリアムの肉体についても仮説を立てた。本人にもわからないことにも当たりをつける彼女の才をアイリスは畏れた。
彼女はこの国に来て学び始めてまだたったの一年半。軍医になり、鍛錬も怠らない彼女は誰よりも才に溢れていた。
とはいえ、アイリスもマリナも今の仮説が正しいとは思っていない。あくまで可能性の話である。
そこまで話したところで、二人がいる場所に二人分の足音が近づいてくる。
聞き覚えのある音を聞いて、二人の表情にぱっと明るい華が咲く。
「やほ、戻ったよ」
「二人ともここにいたのか。飯でも食いに行こう。腹が減ったよ」
部屋の入り口から、ウィリアムとウィルベルが顔を出す。
二人の顔は先ほどとは違い、どこか晴れやかだった。
マリナとアイリスは、部屋の入り口にいる二人のもとに駆け寄った。
「二人とも仲直りしたようで本当に良かったよ」
「ま、ウィルがもうちょっと頭がやわっこければ、こんなことにはならなかったんだけどねぇ」
「ほざけ。言ったら言ったで信じないくせによ」
「だったら信じさせるように努力しなさいよ」
「あはは、本当にいつも通りだね。安心したよ」
アイリスがたわいもない会話をする二人を見て笑う。
マリナも安心して、食事の後にでも先ほどの話の内容を話してみようと考える。
ただその考えは、ウィリアムと一緒に入ってきたウィルベルが、耳元で小さくつぶやいた言葉で霧散してしまうことになる。
「マリナ」
満面の笑みでマリナの耳元に顔を寄せる。
「どうしたの……機嫌がいいね。そんなにいい話をされたの?」
「そうね。長年の悩みがすっきりしたってとこね」
「長年の悩み?」
「そ……ウィルってホントに男前だったわよ」
ウィルベルの言葉にマリナは驚き、ウィルベルを凝視する。ウィルベルはいたずらっぽく笑い、部屋から出ていくウィリアムとアイリスの後を追う。
マリナは一瞬、呆然と立ち尽くす。
「……私も見たいっ」
頬を膨らまし、三人の後を追う。
彼女の頭の中から、先ほどの聖人の内容は見事に抜け落ちていた。
*
「ねぇ~ウィル~仮面取んなさいよ~」
「取らない。飲みすぎだよ、アホ」
「全然飲んでません~。あんたこそ全然飲んでないじゃないのよ~」
「ちゃんと飲んでるよ。ベルは一気に飲みすぎだ」
「何よ~あたしのお酒が飲めないの? こんなにかわいいウィルベルさんが飲ませてあげるのに?」
エルフの一つの部族である実の一族の集落。
その酒場の一つの片隅で四人の男女が食事をしていた。
四人のうち、魔法使いのような恰好をした少女が酒のにおいまで伝わってきそうな甘い声で、隣に座る仮面の男に絡んでいた。
ウィリアムたちは四人で食事をとろうと酒場に入った。久しぶりにゆっくりできることと和解記念ということで酒を飲む流れとなったのだ。
この世界で酒を飲めるのが十六から、ウィルベルは今年で十六。初めてとなるお酒を飲んだウィルベルは、みるみる酔いが深まるのがわかるような飲みっぷりで、あっというまに出来上がってしまった。
もともと白い彼女の肌と髪は対照的な赤に染まり、締まりのない顔を浮かべる。
「ウィルベルはお酒弱かったみたいだね」
「そうだな。まあ、大声で騒ぐタイプじゃないからいいだろ、絡み酒だけど」
「確かにそうだね。それでいうとマリナは眠くなるタイプだね。ずっと船を漕いでいるよ」
マリナもお酒を飲んでいたが、いつもの眠たげな眼がいつも以上に眠たげで、上下の瞼がとても仲良くなっていた。
正しいマリナの年齢はわからなかったが、背格好からウィルベルと近いことは明らかだった。ウィリアムは二人とも成長はほとんど止まっているからいいだろうと許可を出したのだ。
二人は酒の強さは同じくらい。
ただウィルベルの方がペースが早かったから、出来上がりに差はあった。
「マリナは大きくなったわねぇ。会ったときは凄く細くて、ボロボロで見ていられなかったもの」
「……そうだな。それが今はこんなに強くて頼れるようになって、本当に良かった」
ウィルベルが、机の上に置いた腕を枕に眠るマリナの頬をつつく。
ウィリアムは頬杖をつき目を細める。
「ボクは彼女が軍人になってからしか知らないけど、そういえば三人はどうやって出会ったんだい?」
「そうねぇ。あれは遥か昔、凍えるような寒さの日。あたしたちは追っ手をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「嘘を言うな嘘を。南なんだからそんなに寒くない」
「いいじゃない、物語に脚色は必須よ? せっかく話すんだから、劇的にしましょうよ」
「そうだな。俺もベルとの出会いは衝撃だった。金を使い果たして食い倒れていて……」
「わー! ごめんなさい! 南国だからそんなに寒くなかったわ!」
ウィルベルは恥ずかしい過去を晒されそうになったために、慌ててウィリアムにつかみかかる勢いで止めに入る。
傍から見れば仲良くじゃれているようにしか見えない。
アイリスはそんな二人を見て声を出して笑った。
「? 急に笑い出してどうしちゃったの? 酔っぱらった?」
「二人がとても仲良く見えてね。さっきまで喧嘩していたのが嘘みたいだ」
「仲良くないぞ。おちょくるのが楽しいだけだ」
「あんたね。もうちょっとレディには優しくしなさい。そんなんじゃ女の子に嫌われるわ」
「嫌ってどっか行ってくれれば、俺の気苦労は一個減るんだけどな」
「そうなったら意地でも逃げてやらないわ! 地獄だろうがあの世だろうが他の世界だろうとついて行ってやるんだから!」
「ストーカーがいるぞ。そんなに俺のことが好きならそう言えよ。可愛がってやるぞ」
「そんなわけないでしょ。嫌がらせしてやるってだけよ」
アイリスが話をそらしても、すぐに口喧嘩のようなじゃれ合いをする二人を見て、アイリスは瞳に涙すら浮かべ、再び声を上げて笑うのだった。
*
「ふわふわする~……」
「飲みすぎだよ。まったく」
ウィリアムはウィルベルを背負いながら、彼女が泊っている部屋に着く。
眠ってしまったマリナはアイリスが部屋に連れて行った。
ウィリアムはウィルベルから何とか鍵を受け取り、部屋に入ってベッドに彼女を寝かす。さすがのウィリアムも女の部屋に長居するのは悪いと感じ、部屋を出ようとした。
しかし服の裾を掴まれ、阻まれる。
「おい」
「もう少し飲みたい……」
とろんとした目を浮かべながら、その手はしっかりとウィリアムの服を掴んでいた。
「アホ、これ以上飲んだら明日に響くぞ。もうフラフラなんだから」
「お酒って楽しいのね。あたし好きかも」
「程々にな。特に男の前で飲むときは気をつけろよ」
ウィルベルの小さな手を、指一つ一つを丁寧にはがしていく。
ウィリアムの最後の発言を聞いて彼女はからかうように笑った。
「もしかして、襲いたくなっちゃった? やめてよ、あたしは安くないのよ」
「誰が襲うか。ちんちくりんめ」
ウィリアムはこの世界の女性と深い仲になる気はなかった。
これはウィルベルであってもだ。
それに彼から見てもウィルベルはまだ幼く見えた。歳も少し離れているため、そういう目では見れなかったのだ。
ウィリアムはまた意地の悪いことを言って絡まれるかと思ったが、ウィルベルは気にせずに、酒気を帯びたとは思えないような穏やかな声で、
「疑ってごめん」
突然に謝った。
いつになくしおらしい声。
ウィリアムはクスリと笑い、
「いいさ。ベルが背負ってる責任は知ってる。俺と違って、最初に教えてくれたしな」
ベッドの横に座り、横になる彼女に目線を合わせる。
「ねぇ。本当に元の世界に帰っちゃうのね?」
「……帰るよ。この世界に俺はいないほうがいいよ」
ウィルベルは近くに来たウィリアムの胸のあたりに触れる。
覚束ない手の動き、視線、赤くなった顔。
その表情は、今日初めて見た誰かの顔に似て、どこか泣きそうだった。
「みんな、あんたと一緒にいたいのよ。マリナもアイリスも……」
「嬉しいけどな。でも行かなきゃ」
「あたしたちがついて行ったらダメ? あんたの世界に行ってもいい?」
「……駄目だよ。みんなはこの世界の人だ。世界を渡るなんて何があるかわからない。俺一人いなくても大丈夫。マリナと一緒ならどこでも生きていける。二人が一緒なら俺も安心できる……さ、お休み。ウィルベル」
ウィルベルの頭に触れながら、子供をあやすような優しい声で告げた。
少女はここで眠気に限界が来たようで、彼の手の温かさを感じながらゆっくりと、でも確かに深い眠りに落ちていく。
彼女の手は彼の胸をしっかりとつかんでいた。
次回、「手紙」




