第十二話 明かす過去
夕日は沈み、辺りは薄暗い。
大樹の枝葉から漏れ見える月も今は雲に隠れていた。
大きな大樹の根により盛り上がった小高い丘。
整備されているかのように長さの揃った芝の上には、木漏れ日のような穏やかで暖かな光を放つ蛍が飛び交っていた。
まばらに飛び回る蛍。
その中に膝を抱えて座り込む少女が一人。
その少女の後ろに一人の青年が歩き寄り、少し距離を開けて腰を下ろす。
「きれいなところだな」
「……そうね、ここは自然豊かで精霊にあふれている。とてもいいところね」
周囲に広がる幻想的な光景に、二人はしばらく静かに見つめ続ける。
「ねぇ、初めて会った時、何て言ったか覚えてる?」
「……昨日から何も食べてないの」
「いや、それじゃなくて。確かにあの時はお金がなくて苦しかったけど、違うわよ。魔法の使い方よ」
ああ、それか、と思いだす。
ウィルベルがウィリアムと初めて会ったときにいったこと。
強力な魔法を使うには、責任が伴うと。
複雑な想いを秘めた声が小さく届く。
「あんたが悪い奴じゃないってことはわかってるのよ……。だけど、あたしは信じ切れない。顔も過去も教えてくれない、どうして聖人になったかもわからない。故郷の場所も……世界を渡るなんて、正直信じられないの」
「まあ、そうだろうな」
「軍に入るときはグラノリュースが酷いことをしてるって、マリナを見て思った。だからついていこうと思ったけど、わからなくなっちゃった」
ウィルベルが指を蛍に向ける。一匹の蛍が指に止まり、愛おしげに見つめる。
「わからないのよ。落ち着いて考えると、やっぱりおかしいわ。記憶を取り戻したのに、どうして聖人であることがわからないのか、どうしてあんた一人なのか。天上人が全員あんたと同じ、他の世界から連れてこられた人なら、どうしてその人たちはグラノリュースのために戦っているのか」
「……彼らには元の世界に居場所がない。彼らは元の世界で一度死んでいるんだ」
「……どういうこと?」
天上人は皆、この世界に呼ばれる前の記憶を有している。
その記憶の最後は決まって自分が死んだ記憶。
やってきた天上人は、死んだ人間があの世界に戻っても居場所はないし、死んだのだからとあきらめがついている。
むしろ、偶然手に入れた新たな生を懸命に生きようとしている。
だがウィリアムは違う。
彼は自分が死んだ理由がわからない。
彼の中にも最後の記憶はある。唐突に胸に走った激痛を最後にこの世界に来た。だがその激痛の原因がわからない。
「彼らはもともと死んでいて、その後にこの世界に来た。でも俺は違う。この世界に来るから死んだ。グラノリュースに俺は殺されたも同然だ」
悔しげな力のこもった声に、ウィルベルは眉をひそめる。
「確かにそれは辛いわね、でもそれじゃあ、元の世界に帰っても居場所がないんじゃない?」
「そうかもしれないな。だが確実に死んだ記憶もない。もしかしたら倒れたまま生きているかもしれない」
「そんなことありえるの? 倒れていたら死んじゃうんじゃない?」
「元居た世界は、ここよりもずっと安全なんだ。文明も発達してる。ここよりもずっと死ににくい……。俺はあんな死に方をするはずがなかった。健康だったし、病気もなかった」
――なのに、俺は急に倒れた。
「不自然に死んで、気づけば記憶を失ってこの世界にいた。……これは偶然か? そんなはずない。俺はあいつらに殺された。そのうえで俺を利用しようとした。許せるわけがない」
ギチギチと音がなるほどに、拳をにぎりしめる。
「……じゃあ、あんたはグラノリュースの人に復讐がしたいの?」
ウィルベルの同情するような声に、ウィリアムは首を横に振る。
「そんなのはどうでもいいんだ。確かに許せない、復讐したいと思う。でもそれ以上に俺は……家族に会いたい、友人たちに会いたい。たとえ死んでいても……俺はあの世界の人たちに謝りたい」
――勝手に死んでごめんなさいと、親孝行もできずに死んでごめんなさいというんだ。
ウィリアムは悲痛な声で、そういった。
「……最初からそう言ってくれればいいのに」
「俺には、過去を言いふらす趣味はないよ。言っても信じてもらえないだろ」
ウィルベルは苦笑して、指に乗った蛍に軽く息を吹きかけ飛ばす。
元気に飛んでいった蛍を見つめる彼女は、景色に負けない楚々とした美しさを秘めていた。
「あんたがあたしたちに顔を見せないのは? 後ろめたいことがあるからじゃないのね?」
「……」
ウィリアムは夜空を見上げる。
「……笑うなよ?」
「笑わないわ」
ウィリアムが前方に腕を伸ばす。そこに飛んできたのは蛍ではなく、彼と同じく神気を帯びた鷲だった。
鷲を見つめるその様は、まるで神に許しを請う聖者のよう。
青年は朴訥に語り出す。
「俺は元の世界じゃ、虫も殺せないような男だったよ。この世界の人からしたら、軟弱者とか臆病者とか言われる人間だった」
嘲るような、力のない声。
この世界で、強い彼しか見ていないウィルベルは眉を顰める。
「想像できないわね。今はもうヒュドラも悪魔も殺せる英雄でしょ?」
その言葉に力無く首を横に振る。
「この世界に来て初めて人を殺した時、俺には記憶がなくて、軍人としての教育を受けていた。敵を殺すことに、大した忌避感は持っていなかった」
青年は助けを求めるように鷲の顎を優しくなでる。
「記憶を取り戻した今は?」
鷲は何も言ってくれない。
「……吐きそうだよ。人を殺した時の感触が、今も脳裏にこびりついてる。知らない間に自分が人殺しになっていた。元の世界じゃ大罪だ。最も忌むべき行為だよ。そんな存在に自分がなっていたんだ」
「敵だったんでしょ? 正当防衛だし、大義名分だってあるわ」
「違うんだ。そういう問題じゃないんだ。敵だからいいなんて、俺にはとても思えない。相手は俺と同じ人間だ。俺と同じ、誰かを想って必死に生きた人間だ。そんな人間を躊躇なく殺した。知らない間に自分がそれをやっていたことを考えたことはあるか?」
ウィルベルは悲痛な声で嘆く青年に対して、何も言えなかった。
彼女はまだ人を殺したことがない。人殺しなんて普通はしない。この世界で戦うのは魔物や悪魔がほとんどだ。軍人であっても、人と戦うことなんてほとんどない。
彼女に人を殺すことは理解できなかった。
ウィルベルは彼から視線を外して遠くを見る。
「俺は、自分を偽らないと生きていけない。顔も名前も変えて、今の自分が別の人間だと思わないと、今すぐにでも足を止めてしまいそうなんだ」
「そんなことができるの? あんたは変わらない、同じ人間よ?」
「匿名と言われれば、嫌いな人になんでも言えるのと同じだよ。本当の自分じゃないんだ。……こんなことも言いたくなかった」
「ずっと、あたしたちに本心は見せなかったってこと? 今までのことは全部嘘だったってこと?」
「どうだろうな、もう自分でもわからないよ。ただ……もうお前たちが死んでもいいなんて言えなくなってしまったよ」
空を見上げ、諦めたように目を細める。
沈黙が落ち――
「ベル、頼みがあるんだ」
真剣な彼の声。
「何よ」
「マリナを連れて、軍を抜けろ」
「っ! どうして――!?」
ウィルベルは思わず外していた視線を戻してウィリアムを見る。
――息を飲んだ。
そこに、いつもの仮面をしたウィリアムはいなかった。
そこにいたのは黒髪黒目の青年。
何の変哲もない、純朴そうで、それでいて泣きそうな。
それが誰なのか、一瞬理解できなかった。
「ウィル……?」
信じられなくて、確認するようにその名を呼ぶ。
青年は泣きそうな笑みを浮かべて――
「もうすぐ、グラノリュースと戦いが起こる。飛行船はもうすぐ完成する……俺の本当の戦いが始まる。そこにお前たちを巻き込みたくない。アイリスたちとは違う、二人は俺についてきただけだ」
「あたしたちだって、自分の意志でここまで来たのよ。みんなが戦っている中で、のんきに暮らせって言うの?」
「そうだよ、二人に人を殺させたくない。二人は俺とは違う……この世界に家族がいるんだ」
彼は誰よりも優しかった。
ずっと人を想っていた。
だから巻き込まないように、仮面をつけて冷たくあしらった。
ウィルベルは思い知った。
その声に込められた想いを受けて。
その顔に浮かぶ苦悩を知って。
自分がぶつけた言葉がいかに愚かだったか。
初めて見えた彼の顔。
優しそうで、それでいて泣きそうで。
仮面の下にいつもこの顔を浮かべながら戦っていたのだ。
「イヤよ」
「ベル」
だからこそ、彼の頼みは聞けない。
ウィリアムはいつものように、ただの反骨心からの否定だと思った。
考え直せとその名を呼んだ。
それでも彼女の意思は変わらない。
「絶対に嫌よ。あんたを慕うマリナを連れてったら、あの子の中であたしが悪者じゃない」
「そんな理由かよ。俺からも言っておくからさ。適当に任務をやるよ」
「はぁ、あんたは自分の気持ちはちゃんと理解しているくせに、他人の気持ちは理解しないのね」
「わかるわけないだろ。人の気持ちなんてわかったら苦労しない」
ウィルベルは立ち上がり、ウィリアムのそばに座り直す。
顕になった彼の顔を覗き込む。
「あたしもマリナも、あんたには生きて欲しいのよ。あんたがあたしたちに別の世界でも生きて欲しいと思うように。だから一緒に戦うの。……大丈夫、もしあんたがこの世界に残りたいなんて言ったら、ひっぱたいてでも送り出してやるわ」
優しい声で、されどその眼は力強く、頑固な意思を示していた。
ウィリアムはウィルベルの視線を受けて、気まずそうに眼をそらす。
「顔も名前も見せない相手を、信用できないんじゃなかったのか?」
「今、見せてくれたじゃない。昔マドリアドで聞いてた通りね」
「? なんていわれてた?」
「男前だって言ってたわ」
ウィリアムは体を震わせ、腕を抱く。
「冗談よせよ。鳥肌立つだろ」
ウィリアムが手に持っていた仮面をつけようとすると、ウィルベルはその手を取って顔を隠すことを防ぐ。
ウィリアムは彼女を見ながら、露骨にいやそうな顔をした。
「手、放せよ」
「もうちょっと見せてよ。ウィルは思った通り、顔に出やすいのね。何思っているか丸わかりよ」
「仮面は本当に便利だよな。どんな顔してもばれない。ベルを馬鹿にして笑っても怒られないからな」
「そんなことしてたの!? ちょっとその仮面寄こしなさい!」
「嫌だよ。これは俺んだ。ほら、もう戻るぞ。飯でも食いに行こう」
鷲が飛んでいき、空いた手でウィルベルを抑える。もう一方の手で仮面をすると、手遅れだと理解したウィルベルが暴れるのをやめる。
「みんなには顔見せないの?」
「今更見せなくていいだろ。というか恥ずかしい。本当に必要なとき以外は外さない。だから言うなよ?」
「いいじゃない別に。減るもんじゃないんだし、見せといたほうがみんな喜ぶわよ」
「別れることは変わらないんだ。必要以上に仲良くする気はないよ」
「仮面と一緒で頭までお堅いのね」
いつも通りの軽口をたたきながら、二人は図書館の中、マリナとアイリスのもとに向かう。
二人の背後には月華が咲き、たくさんの蛍が舞い踊っていた。
次回、「未来を想う」