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誓約龍魂バハムートセイバー  作者: 宮下龍美
第一章 ヒーロー誕生
27/117

魔王の心臓 3

 高らかに名乗りを上げた、仮面の敗北者。

 そこにはもう、悲壮な覚悟はない。空の色に耀く刀身をスペリオルの尖兵に向けて、桐生朱音は、バハムートセイバーと同じく正義のヒーローを名乗った。


「アカギリュウタと敵対していたあなたが、今更ヒーローを名乗るとは。滑稽にも程がありますね」

「私もそう思うよ」


 クスリと、仮面の奥で自嘲気味な笑みが。

 でも、と言葉を区切り、背後の龍太をチラリと一瞥する。


「あの子は元々、私が守らなきゃいけない子だ。私たちの街に住む、かけがえのない一人だ。魔王の心臓(ラビリンス)のことを抜きにしたら、私があの子を守ることになにもおかしなことはない」

「朱音さん……」

「みんなは後ろで見てていいよ。この程度の相手、速攻で終わらせるから」


 言うや否や、朱音が地面を強く蹴る。

 瞬き一つする間にフェニックスへ肉薄して、二人の間に華奢な体が飛び出した。

 朱音の刀とぶつかる、二振りのマチェット。血走った昏い瞳で敵を睨むのは、このフィルラシオで起きた連続殺人の実行犯だ。


「殺す、殺す、殺すころすコロス!」

「ジャックザリッパー、その伝承を取り込んだカートリッジを使ってるのか」


 半狂乱とも言える状態で、少女は叫びながら何度もマチェットを振るう。二本の小剣は反面、熟練の技を感じさせた。

 だが、漆黒のコートを捉えることはない。いなされ、躱され、大振りの一撃が来たところで、朱音の拳がマチェットの一本を真正面から殴り砕いた。


「でも、所詮は偽物。本物の殺人鬼に比べれば、殺意が足りないんだよ」

「ぁ……」


 至近から強く睨まれたジャックが、動きを止めた。小さな体を恐怖に震わせている。

 桐生朱音の放つ殺気に、殺人鬼の伝承と力を与えられたはずの少女が。


 離れた位置にいる龍太にまで、その殺気は届いていた。直接向けられたわけでもないのに、冷たいナイフを喉元に突きつけられたような。生殺与奪権を握られてしまっている感覚。ルーサーとしての朱音と相対した時にだって、ここまでの殺気は感じられなかった。


「人を殺すということの意味を、あんたは理解できていないのよ」


 冷たい瞳で少女を見下ろすその様は、まるで朱音に、他の誰かが乗り移ったかのよう。

 背筋が凍るほどに冷たい声音と共に、銀の炎が揺らめく。


「ああ、あああああああ!!!」

「待ちなさい、ジャック!」


 恐慌状態に陥ったジャックは、フェニックスの声も聞かず、がむしゃらに残された一本の小剣を振るう。当然、そんなものが朱音に当たるはずもない。

 刀を鞘に納めた朱音が、居合の構えを取った。そして、その姿が消える。


時界制御(アクセルトリガー)銀閃瞬火(フラッシュオーバー)


 漆黒のコートを靡かせるのは、ジャックの背後。刀を抜き放っているが、少女の体には傷一つない。まさか不発に終わったのか、誰もがそう思った。

 しかし、振り返ったジャックが再び斬りかかろうとした、次の瞬間。


 少女の小さな体は、血飛沫を撒き散らしながらバラバラに斬り裂かれた。


 部下を簡単に殺されたフェニックスも、龍太たちすら、その光景に言葉が出ない。なにが起きたのかは誰にも視認できなかった。ただ、ジャックザリッパーのスカーデッドはバラバラに斬り裂かれて、血や内臓代わりの機械部品が床に散らばった。その結果だけが目の前に横たわっている。


 銀の炎が持つ力は、時界制御。

 時を自在に操るその炎があれば、過去を斬る因果逆転の斬撃すらも放てる。


「お、のれ……! よくもやってくれましたね……!」

『Reload Phoenix』


 最も早く我に帰ったのは、カートリッジを起動させたフェニックス。紅い球体に包まれ、それがドロドロと溶けて消えれば、炎を纏った不死鳥が顕現する。

 同時に、炎の鏃が朱音へと殺到した。だがそれら全てが、朱音へ命中する直前で凍てつき地に落ちる。


 手元に大型の拳銃を取り出した朱音が、容赦なく二度引き鉄を引く。だが、弾丸は放たれない。

 警戒するフェニックスだが、その背後ではすでに、朱音が刀を振りかぶっていた。


時界制御(アクセルトリガー)銀閃永火(バックドラフト)


 咄嗟のバックステップで斬撃を躱すフェニックスだが、避けた先で吐血する。見れば、胸に二発、銃弾を受けていた。先ほど放たれたはずの、姿を消していた弾丸だ。

 そうして怯んだところで、不死鳥の両翼に剣閃が迸った。刀を振るっていないにも関わらず翼は容易く斬り落とされ、フェニックスは地面を這いつくばる。


「残念、望み通りの未来だよ」

「ぐっ……一体なにが……!」

「未来視で引き寄せた未来を、銀炎と概念強化で補強。後はその未来に弾丸と斬撃を置いただけ。なにも特別なことはしてないよ」


 朱音からすれば当たり前のことなのだろうが、それ以外の者たちからすれば十分すぎるほどに驚異的だ。

 そも、時を操るというその絶大な力には、同じ類の力でしか対抗できない。龍太たちも含めて、今この場にはその力を持つものはいないのだ。


 ジャックを容易く倒し、フェニックスさえ瞬く間に下してしまったのは、当然の帰結ですらある。


「さて、お前は殺さないよ。スペリオルの幹部格らしいし、色々話も聞きたいからね」

「フェニックス様ッ!」


 翼を奪われ、魔力の鎖に縛られたフェニックスを見て、緋桜と戦っていたハイエナが駆けつけようとする。

 だが、それは決定的な隙となった。少なくとも、強者の前で晒すべきではないものと。


緋桜一閃(ひおういっせん)


 鮮やかな緋色の花びらたちが男の手元に収束し、弓と矢を形作る。力一杯引き絞り、一本の矢が音を超える速度でハイエナの脳天を貫いた。

 矢の勢いは敵を射抜いて尚減じることなく、城の壁を粉々に破壊して空へ伸びていく。


「ハイエナ……!」

「緋桜さん、もう少し手加減して欲しかったのですが。そっちも生捕にするつもりでしたのに」

「悪い悪い、いい加減めんどくさくなっちまって」


 全く悪びれる様子もなく、緋桜は笑っている。朱音は呆れたようなため息を一つ漏らして、再びフェニックスに向き直った。


 唯一残された、あるいは敢えて生かされているスカーデッドへ。


「答えてもらうよ、フェニックス。お前たちの親玉、赤き龍はどこにいる?」

「答えるとでも思っているのですか?」

「答えないならどうなるか、分かってないわけじゃないよね。ジャックとハイエナみたいに、二度目の死を体験してみる?」


 フェニックスの能力は、驚異的な再生能力だ。カートリッジさえ無事ならば、不死鳥の名の通り何度でも蘇る。

 だが、朱音には通用しない。時界制御の力があれば、再生能力など関係ない。あるいは、カートリッジごとフェニックスを完全に破壊できる。


 それが理解できていないわけではないだろうに、それでもフェニックスは口を割ろうとしない。


「私は我らが王、赤き龍に忠誠を誓った身です。王の正義を為すためならば、この命も惜しくはない」

「見上げた忠誠心だね。せめて一思いに殺してあげる」


 空色に耀く刀身に、銀の炎を纏わせて。朱音が刀を振りかぶる。


「待って!!」


 だが、純白の少女がそれを止めた。

 その場の全員が、声を上げたハクアへと視線を向ける。彼女はゆっくりと捕らえられたフェニックスへ歩み寄り、その銃口を男へ突きつけた。


「これだけは答えて。あなたの言う王は、本当に赤き龍なの?」

「おかしなことを聞くのですね、白き龍よ。それはあなた自身が、よくご存知のはずでは?」

「……わたしは、白き龍ではないわ。以前にも一度そう言ったはずだけれど」

「その嘘もいつまで通用するでしょうね。そもそも、王の心臓である彼と共にいるのなら、隠し通すにも限界がある。聡明なあなたなら、理解しているはずでしょう」

「いいから答えなさい。スペリオルを率いているのは、世界創世の伝説に語られる二体の龍、その片割れである赤き龍で間違いないのね?」


 答えを急かすように、ハクアはライフルのボルトを引いて弾を装填する。

 龍太には二人の問答について、なにも理解できていない。ただ、色んな人から白き龍と呼ばれるハクアにとって、これは大切なことなのだろうと、それだけは分かる。


 果たして、ハクアの問いに答えたのは、捕らわれているフェニックスではなかった。


『なにも間違いではない、我が半身よ。スペリオルを率い、世界に変革を齎さんとするのは間違いなくこの私、赤き龍だ』



 ◆



 それは、龍というよりも怪人と言った方が適切だった。

 二メートル近い巨躯は、胴が短く脚が長い。全身を真紅に染め上げ、表情というものは全くなく、まるで石像のようにも見える。背中からは、体を覆うほどに大きな翼が伸びていた。


 龍、ドラゴンなどと呼ばれる存在とは、あまりにもかけ離れているその姿。かと言って、お世辞にも人間とは言えない。

 やはり怪人という言葉が最も当て嵌まる。


 誰にも事前に悟られることなく唐突に現れた怪人は、ハクアとフェニックスの間に立ち、ライフルの銃身を掴んでいた。


「お前、はッ……」


 心臓が、激しく脈打つ。

 すぐそこに立つ存在に、赤城龍太という人間の全てが警笛を鳴らすけど。


 反して心臓だけが。


 まるで焦がれた恋人と、あるいは旧知の友人と、はたまた愛する家族と出会えたかのように。音を立てて脈動する。


 知っている。会ったことはなくとも、記憶のどこにも存在していなくても。

 俺はこいつを知っている。


「お前がッ……!」

『ああ、そうだ。私は赤き龍、あるいはそちらの世界では、魔王と呼ばれていた。貴様をこの世界へ呼び寄せた張本人だ、アカギリュウタ』


 沸き起こるのはこの上ない憤怒。体はずっと震えていて、この場から逃げろと本能が告げているのに。

 怒りで視界が真っ赤に染まる。内側に響く警笛を、激情が塗りつぶしていく。


「アアアぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

「リュータ、ダメ!」


 怒りに任せて剣を抜き、赤き龍を名乗った怪人へと駆ける。ハクアの声はもはや耳に届かず、しかし龍太の体は、怪人へと肉薄する前に足を止めた。

 虚空に現れた魔法陣。そこから伸びる鎖で、手足を縛られたからだ。


「落ち着いて、龍太くん。今戦うのはダメだよ、死人が出る」

「なんでだよ! 朱音さん、あいつこそが仇なんだろ! あんたの未来や家族を奪った!」


 龍太を止めたのは、復讐するべき相手を目の前にしたはずの朱音だ。いつの間にやら近くにいたハクアも連れて、後方へ離脱していた。龍太も無理矢理隣に転移させられ、赤き龍との距離が開く。


 自分でも訳の分からない怒りに突き動かされるまま、龍太は言葉を吐き出す。だが朱音は、低く冷たい声で、冷静に返すのみ。


「あれはただの端末、赤き龍の本体じゃない。本物は今頃、どことも知れない場所で端末を通して私たちを見てるだけだよ」

「でもッ!」

「いいから、我慢して」


 反論を許さない力のある声。

 ハッとして朱音を見やると、拳を強く握りしめている。爪が食い込み血が流れるほどに、強く。


『懸命な判断だな、キリの人間。貴様らでは今の私に勝てない。例え我が端末が相手であってもな』

「バカにするなよ赤き龍。魔王の心臓(ラビリンス)の影響があるからって、それで私たちが負ける理由にはならない。お前たちの相手は飽きるほどにしてきたんだ、効率のいい殺し方は心得てるよ」


 押し殺して、それでも漏れ出る彼女の怒りが、銀の炎となって揺らめいている。

 本当なら、朱音こそ今すぐにでもあいつを殺したいはずだ。それをしないのは、龍太を始めとした足手纏いがこの場に多くいるから。


 一度正義のヒーローを名乗った仮面の復讐者は、ここでの犠牲を良しとしない。


『ふむ、銀の炎。転生者の力か。時界制御、それに貴様、この時間軸の人間ではないな? 我が侵略から逃れたのも頷ける』

「ああその通りだよ。私はあらゆる時間という概念の外側にいる。だから、今ここでお前を逃すことになっても関係ない。地の果てまで、時間の果てまででもお前を追い詰める」

『それは怖い。ではお言葉に甘えて、ここはお暇させてもらうとしよう。帰るぞ、フェニックス』

「申し訳ありません、我が王……お手を煩わせてしまうとは……」

『忠臣を見殺しにするような真似はしない』


 背を向けた赤き龍は、最後にハクアを一瞥した。石像のような表情の読めない顔は、やつがなにを思っているのか図らせない。

 対するハクアは、どこか寂しそうな、悲しそうな、哀れみの籠った視線を投げていて。


 それから何を言うでもなく、赤き龍はフェニックスと共に姿を消した。


「終わったんですか……?」


 ペタリと、ずっと見ているしかできなかったヒスイが地面にへたり込み、震えた声をあげた。それを皮切りに、場に流れていた緊張の糸が切れ、弛緩した空気が流れ始める。


「終わったんじゃない、これから始まるんだよ。スペリオルとの本格的な戦いは」

「赤き龍が、ついに表舞台に姿を見せたからな。これから世界は、大きく動き始めるぞ」


 朱音と緋桜の言葉に、龍太は確信をより強いものにする。

 赤き龍。あいつこそ、倒さなければならない敵。この世界で多くの悲劇を生み出す元凶。そして、龍太と幼馴染二人をこの世界に誘った、張本人。


 やらなければならないことが、一つ増えた。

 龍太は未だに、自分の心臓がどうだとか、元いた世界がどうなっているのかとか、詳しいことはまだ何も分かっていないけど。


 あいつとは戦わなければならない。

 正義のヒーローとして。赤城龍太という一人の人間として。



 ◆



「今日は流石に疲れたので、ドラグニアに送るのは明日にしてもいいですかね……いや本当、なんで戦ってないわたしが一番疲れないとダメなんですか……」

「そりゃ一番面倒な仕事引き受けてくれたからねー。よっ、さすがはアリスちゃん! 伊達に最強やってないね!」

「よしてくださいよ〜桃さん」


 などと言う茶番じみたやり取りがあったのは、もう数時間前。

 今日は本当に色々とあったから、あとは休んで諸々明日からにしようということになったのだ。


 そして現在は夜も更けて、フィルラシオの宿屋で各々の時間を過ごしている。

 龍太がシャワーを浴びて風呂から上がると、部屋に残っていた寝巻き姿のハクアは、窓の欄干にもたれかかって夜空を見上げていた。


 思わず立ち止まって、見惚れてしまう。

 どこか遠くを見ているような儚い横顔には、容易に声をかけられないなにかがある。この一瞬を切り取って額縁に収めたい、などとバカな考えが過った。


 しかしそれと同時に、昼間のことが思い返される。

 フィルラシオ城、その玉座の間に現れた赤き龍を見ていた、ハクアの表情。

 寂しそうな、悲しそうな、哀れみの籠った視線は、相手に相応の感情を持ち、またそれなりの関係ではないとあり得ないものだ。


 きっと、龍太の知らない、ハクアが未だ語ろうとしない彼女の過去に、大きく関わっているのだろう。

 だからと言って、無理に聞き出そうとは思わない。彼女から話してくれるのを待つと、そう決めたのだから。


「どうしたの、リュータ?」


 背後の気配に気づいたのか、コテンと首を傾げたハクアが、柔らかな笑みを向けてきた。まさか見惚れてたなんて正直に言えるはずもなく、なんでもないと被りを振って隣へ歩み寄る。


「ハクアこそどうしたんだよ、空なんて見上げて」

「星を眺めようと思ったのだけれど、ダメみたい。今日は雲が多いわ」


 並んで見上げた夜空は、たしかに雲に覆われている。月は隠れてしまい、星も僅かに見えるのみ。

 なにより、これまでの旅で野営した時に見上げた空の方が、どこか澄んでいた気もする。街中よりも田舎や森の中の方が綺麗に見えるのは、異世界でも変わらないのか。


「今日は、色々あったわね」

「だな。朱音さんと和解できたのが一番大きいよ」


 意図せずしみじみとした声になってしまったが、紛れもなく本心だ。

 幼い頃はお世話になっていた人で、龍太が元いた世界の全てを背負って戦い、仮面を被って復讐に身を費やした魔術師。


 そんな彼女と和解できたのは、純粋な戦力以上に大きなことだ。

 きっと今頃、丈瑠やアーサーと色々話しているのだろう。大切な家族、あるいは恋人と一緒の時間を。


「あの人を救うって、助けになるって言っちまったからな」

「それはわたしも同じ。そのためにも、赤き龍を倒さないといけないわね」


 その名前が、ハクアの口から出されて。龍太は僅かに戸惑う。あんな感情を見せておいて、倒すと口にすることは躊躇いがないのかと。

 そんな龍太の戸惑いも、ハクアにはお見通しのようで。


「たしかにわたしは、赤き龍と無関係というわけではないけれど。それでも今のわたしは、リュータとエンゲージを結んだパートナー。今のわたしにとっては、それが全て」

「ハクア……」

「ごめんなさい、全部をあなたに話して聞かせることができれば、それが一番いいのだけれど……わたしには、まだその勇気がないから……」


 きっと、様々な感情と折り合いをつけた末の言葉だ。赤き龍のこと、龍太の知らない過去のこと、長い旅で見知ったことや、今の自分。自惚れでなければ、そこに龍太自身のことも含まれている。

 それらのことを考えて、色んな感情に悩まされて、その果てにハクアが出した結論なら。龍太からはなにも聞かない。


 でも、そうやって沈んだ表情のハクアは、見たくないから。


「大丈夫」

「……リュータ」

「俺は待つから、大丈夫だよ」


 白い手を取り、ぎゅっと握る。力は込めすぎず、けれど絶対に離さないという意思を込めて。

 バハムートセイバーに変身する時以外で、龍太の意思でハクアに触れたことは、一体何度あっただろうか。もしかしたら、一度もなかったかもしれない。ハクアの方から、あるいはその場の流れやなし崩し的に、というなら何度もあったけど。


 だから心臓がバクバクと煩くて、顔も凄く熱い。ハクアからはなんの言葉も返ってこなくて、もしかしてなにかミスったかと不安になる。同時に、羞恥心も襲ってきた。


 やがて聞こえてきたのは、クスクスと楽しげな笑み。耳触りのいいそれは、当然ハクアのものだ。目を弓のように細めて、楽しそうに、嬉しそうに微笑んでいる。

 なにが彼女の琴線に触れたのかは分からないけど、とりあえずは笑顔を見せてくれて良かった。


 安心したのも束の間、握っていた手をグイッと引かれた。

 繋がれた手は簡単に解けて、けれどその代わり、ハクアの両腕が背中に回される。寝巻き越しに柔らかい体を押し付けられ、状況のわからない龍太は混乱する一方。


 その耳に、声が届く。


「ありがとう、リュータ」


 簡素な礼の言葉は、主語がハッキリしていない。しかしそこに込められた想いを感じられないほど、龍太は鈍感ではなかった。

 躊躇いつつもゆっくり、割れ物を扱うように。華奢でしなやかな体に、腕を回した。

 喉から絞り出すのは、とても掠れた声。


「どういたしまして……」

「ふふっ、なあに、それ」


 礼を言われたんだから、その返しとしてはなにもおかしくないだろう。だからきっと、恥ずかしがる龍太に面白がっている。なんだかそれが負けた気分で悔しくて、けれど悪い気もしなくて。


「今日はこのまま、抱き合って寝ましょうか」

「勘弁してくれ……」

「だーめ」


 すぐ近くのベッドに押し倒されるようにして、二人で一緒に横になった。

 これは今日もまた、寝不足になってしまうかもしれない。

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