第四章 赤い瞳
世界に闇がやってくると、国は不気味なほど静まり返る。
街灯のないこの国は、月明かりだけが道を照らしていた。
国の端っこに、小さな小屋があった。
そこに住むニシェルは、藁の敷かれた小屋の中で、丸い月を眺めながら、そっと呟いた。
「今日もやっと終わった」
魂の抜け殻のような瞳で、新しく出来た体の傷を手でさすりながら、月を眺める。
すると、小屋の扉の方から、誰かの足音が聞こえてきた。
それはリエンのものとはまるで違う。
「……」
「来ると思ってた」
ニシェルは足音の主に言った。
足音の主は赤い瞳をギラつかせている、黒髪の少女だった。
「君は……強いんだね。羨ましいよ」
昼間の怯えた声ではなく、はっきりとそう言うニシェルを、少女は黙って見ていた。
「生まれた時から、ボクはリエン様の奴隷だったんだ。ボクはずっとこの小屋で、餌を与えられながら育ったんだ」
「……」
ニシェルの青い瞳が、微かに揺れる。
それが月明かりに反射した。
「どうして――」
虫の音が夜の国に、壮大な音楽を奏でる。
「どうして冷たい人間がいるのかなぁ……」
そう言ったニシェルの瞳から、思いがつまったたくさんの涙が零れ落ちた。
少女は無表情のまま、腰から長い剣を抜いた。
金属の澄んだ音が、暗闇に響く。
ニシェルは言った。
「ボクが世界を変えるきっかけを作れるなら、それを拒んだりしない。でも、これだけはアリス様に伝えてください」
剣がニシェルに、音もなく向けられる。
「ボクを愛してくれて、ありがとう」
少女は剣を、力強く突き出した。
ロウソクが一本だけ燃えている。
アリスの暗い部屋は、その光だけが照らしていた。
「……おかえり」
アリスは言った。
部屋の扉の前には、赤い瞳の少女が立っていた。
赤く染まった服に身を包み、顔にも真新しい液体が滴っている。
「二名……、激しい抵抗もなく――。リエンは眠っていた」
クロウサギは淡々とした口調で、そう報告した。
アリスは小さく、
「そう」と頷き、クロウサギを見る。
アリスの表情は、穏やかなものではなかった。
体を震わせ、涙を堪えているのがわかる。
「何か……、何か言ってた?」
「……」
アリスのその質問に、クロウサギはニシェルの言葉を思い出す。
「ニシェルが、笑っていた。笑って、あなたにありがとう、と言っていた」
「……クロウサギ」
アリスは揺れるロウソクの光を眺めながら、クロウサギに問いかけた。
「私は間違ってると思う?」
「……あなたの考えが間違ってるかどうかは、ボクにはわからない。でも」
クロウサギはアリスを見ながら言った。
「ニシェルは剣を向けられている時、あなたに『ありがとう』って言っていたのは事実」
「……」
黙り込むアリスを残し、クロウサギはそっと部屋を後にする。
扉が閉じる音と同時に、アリスは溜まっていた涙を流した。
「この世界がここにあり続けても、きっと……」
自分に言い聞かせるように、そう囁きながら、涙が枯れるまで泣き続けた。
家族だったシロウサギは、時が経つにつれて、いつの間にか召使いや奴隷のような扱いになってしまった。
間違った道から避ける為の道案内人は、その本当の仕事すら満足にさせてもらえず、首に下げた金色の時計を閉じて働く。
それぞれのシロウサギが思う気持ちは同じだった。
とても極端で、純粋な思い。
『アイサレタイ』
月が沈み、まるで何もなかったかのように太陽は昇った。眩しい光が国を照らすと、いつもと同じように賑やかな朝がやってくる。
リエンとニシェルは、国の端にある小さな小屋の中で朝を迎えた。藁の真ん中に並んで座り、目を瞑ったまま無言だった。
二人の間に、止まった金色の時計が置いてある。ニシェルとリエンの手は、それの上に重ねて置いてあった。
動かない二人が見つかったのは、朝がやってきてから、しばらく後のことであった。