牙を立てる
この状況にあって、婀瓏孅の理性は今も葛藤を続けていた。食べちゃいけない、食べたら悔やみ続けると、必死に自分に言い聞かせている。しかし、体は止まらない。一口だけ、一口だけと、自分への甘えが生まれる。しかし、この欲求に負ければ、自分は絶対にルルノを食べてしまう。それが判るから、両腕を張って体を止めようとする。
その時、不意に婀瓏孅はルルノの表情をじっくりと見た。それは死を覚悟した顔。生きることを諦めた顔であった。
なんて悲しい顔なのだろう。眠る様に目を閉じた少女を見て、婀瓏孅はそう感じた。そしてそれを見た瞬間に、自分の中で暴れている衝動が僅かに緩んだのを感じた。体が少しだけ動かせる。そうと見るや、ルルノの首に触れそうだった自分の顔を強引に遠ざける。腕の筋肉が痛むが、負けてもいられない。
婀瓏孅はルルノを生かしたかった。それなのに、そう思っている相手にこんな悲しい顔をさせて、そのまま命を終わらせるわけにはいかない。興味があるのに、それを崩すなんてできない。
考えを巡らせる。この少女を噛まない方法を探し、探し、そして行き着く。今できる衝動を抑える方法を、婀瓏孅はどうにか思い付いた。そしてその方法を、考慮する時間も惜しいと、思い付くままに実行に移す。
そんな婀瓏孅の葛藤を知らず、ただ目を閉じていたルルノは、できることなら苦しまずに死ねると嬉しいなどと考え、できる限りの感覚を閉じていた。だが、いつまで経っても殺される気配がない。すぐに殺されると思っていたルルノは、もしかするともう自分は死んでしまっているのではないかと思い始める。
その途端、先程よりも顔に水滴が降り注いだ。唾液なのだろうか。それなら、自分はまだ生きているのだろうか。何故まだ喰べられていないのだろうか。
色々と考えてしまうと好奇心が生まれ、ルルノはもう二度と開くことはないだろうと思っていた瞼を、ゆっくりと重たそうに開いていく。
「え?」
目の前の光景が、ルルノは理解できなかった。
婀瓏孅は、婀瓏孅自身の白い右腕を噛み、その腕から大量の血が溢れさせていた。
頭の中が白む。何一つ理解が出来なかった。
「な、何を、して」
ルルノは目を見開き、光景を何度も確認する。歯は付け根近くまで、細く美しい腕の中に埋もれていた。後少しで腕を噛み千切りそうな程、それは深くまで肉を抉っている。
がぱっと、間の抜けた音を立てて、婀瓏孅が自分の腕から歯を抜く。より血が溢れるが、それはルルノの顔の上からどかされたので、婀瓏孅の血はルルノの服を染めていった。
「ふふ、あなたがあんまり悲しそうな顔してるから、笑わせてあげたくなったわ」
そう強がる顔は、血の気こそないものの、普段の婀瓏孅の顔だった。




