食欲と我慢
思考が霞む。耐えること以外を考えられなくなる。笑う余裕さえなくなっていく。
「玉蟾、玉蟾。あなたは何を望んだの。あなたは、私に何を求めたの」
どうするべきかと、弱音を虚空に投げ掛ける。
ただ、実際に玉蟾に問い掛けてみたところで、自分はどう言って欲しいのか婀瓏孅にも判っていない。食べろと言われれば、恐らく食べた後に悔やむ。食べるなと言われれば、何故食べろと言ってくれないのかと恨む。つまり、婀瓏孅の望む答えなどない様に思えた。結果を求めるなら食べぬ方が良いが、その過程を助ける言葉が思い付かない。
新鮮な苦しみに、婀瓏孅は普段の余裕を失っていた。
「玉蟾の馬鹿。食べていいのか、食べちゃ駄目なのかくらいは、断言しときなさいよ」
八つ当たりをすることで、心に少しだけ余裕が生まれる。問題なのは、ルルノが人間であることだけではなく、その上でとても美味しそうに見えてきてしまったということだ。
どうすれば、あんな子供が美味しく見えるのか。考えても、判りそうにはない。
「はぁ、今日は、何も出来そうにないわね。でも、そうだわ、ルルノを別の部屋に移さないと」
荒い呼吸とぼやける視界に眩みながら、柔らかく目を閉じて深呼吸をする。今、もし目の前にルルノが眠っていたら。そんなことを考えてみると、食欲を抑えられる自信はあまり湧いてはこなかった。もしこれで、もう少し朦朧としていたら。そこまで想像すると、血の気も引く。
しばらく考えて、断食行の間は皐詠舞祷にルルノを預けることに決めた。彼女に頼めば、ルルノをうっかり喰べてしまうこともないだろうし、上手いこと世話をしてくれると思った。そしてそう思うや、婀瓏孅はしんどい身体を這うように動かして鈴を手に取ると、静かに鳴らして皐詠舞祷を呼び寄せた。
「先生っ!」
部屋に入るや、皐詠舞祷は婀瓏孅に駆け寄った。ここまで弱り切った師を見たのは初めてで、皐詠舞祷には激しい驚きがあった。しかしそれ以上に、顔から血の気が失せて、まるで今にも死にそうな顔をしている婀瓏孅が心配でならなかった。
「ふふ、そんなに不安そうな顔、見たことないわね」
「それはこちらの言葉です! そんな青い顔をされて」
皐詠舞祷にそう返されるとくすくすと笑うが、声にも力がない。
「だ、大丈夫なんですか。その、お体の調子が悪いのでは?」
皐詠舞祷は取り乱し掛けている自分を必死に抑えて、どうにか理性的に言葉を吐き出す。それでも、抑えられない不安に皐詠舞祷の顔も真っ青になっていた。
そんな弟子を可愛がる様に、婀瓏孅はそっと頬を撫でてやりたかった。だが、体が重くて、それは叶わなかった。
死にかけとはこんな感じなのだろうかと、婀瓏孅は心の中でひとしきり笑った。そうしたら、少しだけ身体が楽になった。
暖かい風が、部屋を抜けていく。
「慣れないだけよ。でも参ったわね。こんなに衝動が強かったの、初めてだわ。子供の肉なんかに。きっと不味いのよ、あれは」
妖怪にとって人間の肉の味わいは、感情の起伏や智恵や業が深まれば良くなっていく。起伏の乏しい子供とあっては、さぞ味気ないはずである。
「はぁ……あなたたちの師匠なのに、様にならないわ」
強がる顔には力がなく、息も荒い。そんな状況を見れば見る程、皐詠舞祷の表情は崩れていく。けれど、どうにか波立つ感情を抑え続け、歯を噛みしめて平静を装うと、これからどうしたら良いのかを考えた。
「ルルノを、一度山から降ろしましょうか。そうすれば。落ち着くまででも」
婀瓏孅のことを考えると、恐らくその原因であろうルルノをどうにかすれば良いという結論に行き着く。




