夜空を見上げて
「ねぇ、ルルノ。ここってさ、人間にも優しいところだと思うの」
自分の瓏々邸に対する感情をそのままに、今度はしっかりと相手に受け入れてもらおうとする。
「だからさ、ここに連れてこられたこと、幸福だったって、良かったんだって、思って欲しいの」
素直に願う。突っぱねられても、噛み付かれても、何としても説得してやるとは思いながらも、そういう気持ちはまず伏せて、ただ単純に。
真剣な顔をする卦籤に、ルルノは振り返って答える。
「はい」
それは短く、たった二文字の言葉。単純な肯定の言葉。それに、卦籤は頭を槌で殴られたような衝撃を覚えた。
「卦籤さんに言われてから、もっと考えてみました。それで、もしここじゃなければ、私はきっと、もっと早くに死んでいたと思いました。だから、ここに来れたことは幸福だったのだと思います。私は、生きられましたから」
淡々とした何気ない言葉ではあったが、それは卦籤にとって何より欲しかった言葉だった。瓏々邸に来て良かったと思って欲しい。卦籤が望んでいたのはそれだけだった。
卦籤は突然湯船から立ち上がり、ルルノの側に歩み寄る。言葉にならなかった喜びに、我知らず涙を流しながら。
「ルルノ、髪洗ったげる!」
満面の笑みを浮かべる卦籤に、ルルノは何事かと驚いて固まってしまう。泣いているかどうかは、卦籤の顔が濡れているのでルルノには判らなかった。
「え、あの」
何を言えば良いか判らず、ルルノは沈黙してしまう。そんなルルノを無視して、卦籤は強引に、けれど丁寧にルルノの髪を洗い始めた。ルルノは戸惑いながら、ありがとうございますと小さく礼を述べる。
「昼には怒鳴っちゃってごめんね。私、あんたのこと嫌いじゃないわ。だから、ちゃんと喰べてあげるからね」
邪気がないとは知りながらも、ルルノはぞくりと体を震わせた。未だに卦籤は、その言葉が逆効果であることに気付いていない。
やがてルルノの髪を洗い終えると、卦籤は自身の体を洗い始めたので、ルルノは卦籤の背中を洗うことにした。
「え、洗ってくれるの?」
洗ってもらおうとは思っていなかった卦籤が、少し驚きながら問い掛ける。それにルルノがこくりと頷くと、卦籤は満足そうに微笑んでそれを受け入れた。
そうして二人して体を洗い終えると、二人は仲良く湯船に浸かった。湯船に体を沈めた二人は、揃って蕩けた顔をしていた。
「あぁ、旅の疲れが抜けていくわ」
旅と、そして今日一日の出来事とが良い形で終わったことが、卦籤にとっては嬉しかった。それなので、嬉しい気持ちが暴れては、そのやり場のない思いをルルノにぶつけたりしていた。正確には、撫でたり抱きついたりしたりという感じである。どちらもやられる度にルルノがばたばたとしたが、それが楽しかったりもして、しばらくの間ルルノは解放されなかった。ルルノにしてもそんな卦籤の行為は、ちょっと恥ずかしく感じるものではあったが、なかなか心地好いものであった。
しばらくそんなことをしていると、がらりと脱衣所に誰かが入ってきた。
「ねぇ、卦籤。ルルノ知らない?」
それは金釘流であった。
「一緒にお風呂入ろうと思ったんだけど、いないのよね」
そして、浴室の引き戸を開けて中を覗く。途端、金釘流はルルノを見つけた。卦籤は何て答えようかなどと視線を逸らしながら考え、ルルノはきょとんとしていた。
すると、金釘流はぎょっと目を見開いた。
「あぁ、ずっるい! そういう時はあたしも誘わなきゃ駄目でしょ! あたしも入る!」
言ったと思うと、金釘流は着替えを取りに部屋へと駆け戻り、あっという間に浴場に入ってきた。
「ごめん、金釘流」
体を流して湯船に入った金釘流は、ルルノを抱き締めながら卦籤から距離を置いて、むすっと頬を膨らませていた。
「あたしだけ仲間外れ」
半ば本気で怒っている金釘流が落ち着くのにおよそ半刻が掛かり、三人はそれから更に一刻程湯船に浸かっていた。
その後、逆上せかけていたルルノを二人が挟む形で縁側に腰を下ろし、三人で夜空を眺めていた。卦籤や金釘流が何かを問い掛けては、ルルノが短く答えるようなやりとり。それは無邪気で、少し姦しいものであった。
そんな光景を、少し離れた位置から婀瓏孅は眺めていた。
先程まで婀瓏孅は、荒れる心を落ち着かせようと池を眺めていた。その時にふと話し声が聞こえたので、元気そうな声の主たちを見てみることにしたのである。
「たった一人の、人間の子、か」
受け取る前と、受け取った後。ただそんな些細な出来事で、随分と色々なものが変わった気がする。そう思うと、少しだけ婀瓏孅は冷たいものを感じた。
「玉蟾。私、少し恐いわよ」
月を見上げて、そう呟く。
些細なことで変化を始めていく世界に、婀瓏孅は戸惑いを感じていた。自分が、弟子が、そしてあの子供がどう変化するのか。
「ふふ。あなたは、全てお見通しなのかしらね」
面白そうに笑う。あの子供を預けた玉蟾を、月に重ねながら。
こうして、また瓏々邸の一日が過ぎていく。様々な生き方をしてきた者たちの思いが、今この時、今この場所で暮れていく。




