行燈
部屋が暗くなる前に皐詠舞祷が部屋に訪れて、行燈に火を灯した。
薄暗かった部屋に優しい明かりが溢れていく。紙の壁を越えて漏れる光は揺れ、世界の形を弄んでいた。
部屋の全ての行燈が灯る頃に、屋敷中を包む様に鐘が鳴る。日の終わりを告げる鐘が、六つ。
「起きていたのね。初めまして。まだ話したことはなかったわね」
部屋の行燈に火を灯し終えると、皐詠舞祷はルルノに向き直り声を掛けた。そして傍によると、膝を折って顔の高さを合わせる。
「私の名前は皐詠舞祷。あなたの名前は?」
穏やかな視線を向けて、まず名前を質問した。
もちろん、ルルノの名前は知っている。だから、この質問は名前を訊く為のものではなく、簡単な儀式の様な行為であった。それは、お互いが名乗り合うことでお互いがお互いの存在を肯定し合うという考えからであった。
「ルルノ・ヤシュ、です。初めまして」
それは必要最低限の名乗りだったが、その明快さを快く思い、今の弟子の中では最も古い弟子は、この屋敷を訪れた最も新しい人間を受け容れた。
この簡単な挨拶に因って、皐詠舞祷の中の儀式は終了した。
「初めまして、ルルノ。もう体は大丈夫?」
そう問われ、ルルノは屋敷に住んでいる人全員が自分のことを知っているのだなと理解した。そしてすぐに、この屋敷には数人しか住んでいないと玉蟾に教わったことを思い出した。
「痛くないです」
単純な答えだった。昼にルルノがどういう状況だったのかを婀瓏孅から聞いていた為、小さく安堵の息を吐く。そして自分の呼吸を聞いて、不意に、何故薬の調合を手伝ったわけでもないというのに、自分はこの少女の回復を知って安心するのだろうと疑問を持った。
一度首を傾げてから、すぐに、きっと自分の先生が飼うというのだから、それが死んで悲しまれるのは嫌だからなのだろうと結論づけた。
それ以後、少女は特に何かを言うことはなかった。どうもそれが孤独そうに見えてしまったものだから、皐詠舞祷は去る前に何か一つでも世話してやろうという気になった。
「何か訊きたいことはある?」
訊ねられると、ルルノは珍しく思案顔になる。そのまましばらく考えてから、はっとして、ぽつりと呟いた。
「厠」
誰かに向けて口にしたのか判らない程、それは小さな声だった。
言っている意味が判らず一瞬だけ呆気に取られたが、理解すると、皐詠舞祷は可笑しくなってくすくすと笑った。
「いいわよ、案内してあげる。ついておいで」
言いながら立ち上がり、ルルノを起こす為にと片手を差し出す。その手をルルノが怖ず怖ずと掴むと、ゆっくりと引いて体を起こさせた。
部屋を出ると、先行する皐詠舞祷の後ろをルルノは影の様に押し黙ってついていく。少し歩いて厠に着くと、皐詠舞祷は夕餉は部屋に持って行くから部屋で待っていなさいと言い残し、まだ灯し終えていない行燈を灯しに行ってしまった。一人になると、ルルノは厠で用を足し、自分の寝ていた部屋へと戻っていく。
部屋に戻ると、蒲団の上に座り、誰かが訪れるのをじっと待っていた。眠る気は起きなかったが、立ってどこかに行こうという気も起きず、こうしている外にすべきことが判らなかった。




