石段の手前の躊躇
それからしばらくして、ルルノは熊から離れた。すると熊が足を曲げて伏せたので、満足してここで眠るのかな。そう考えたので、ふぅと一息を吐いてから山へと向き直る。
「さて。そろそろ往きますか」
置いていた荷物を持ち直すと、熊に向かい小さく手を振ってから、石段に向かい一歩。
次の瞬間、突然起き上がった熊に、首に掛けていた菅笠を器用にも引っ張られた。
「ぐっ!?」
紐が首に極まり、呼吸が止まる。
一歩下がってからけほけほと少し噎せる。それからゆっくり振り返れば、熊が菅笠から手を放し、また伏せていた。
「……あ、あの? もう往きますね?」
再度頭を軽く撫で、向き直り、半歩進み、また掴まれる。
「ぐえ」
ちょっと予期していたので、首への被害は軽微だった。とはいえ、息は詰まった。
ルルノはまた熊の方へ向き直る。熊は伏せているが、よく見れば、ルルノから視線を外していない。ジッとルルノのことを眺めている。警戒していると云う様子はないけれど、何かを伝えたいのだろう、ということだけはなんとなく判った。何を伝えたいのかはまるで察せなかったが。
「熊さん、何かお困りなんですか?」
熊は応えるように小さくが吼えたが、なるほど、意味が判らない。
どうしたものか。どうしたものか。きょろきょろと辺りを見渡すが、なにも糸口になりそうなものは見当たらない。自分を頼るからには、恐らくは治療関連。そう思って熊を見るが、熊はすこぶる元気そう。周りに傷ついた他の熊が居る様子もない。
ルルノの脳裏に、熊の用件をはっきりと理解しなければという気持ちと、石段上って屋敷に向かうのは明日でいいやという考えが同時に浮かび、今はただ、熊へと向き合うことに注力しようということにした。
その矢先、ルルノのすぐ近くに、何かが降りてきた。
「よっと。今帰路か? こんなところで見掛けると思わなかったから、肝が冷えたぞ」
「あ。セクタお兄さん」
大した音もなくルルノの横に立っていたのは、屋敷に暮らす妖怪の一人。容姿は人間にしか見えないものの、この山中で着流し姿の上に裸足で手ぶらという格好なので、およそ人間らしくはなかった。
「ただいま戻りました」
「いやまだ戻ってないから。俺も旅修業からの帰りだし、その挨拶は上で改めて聞くわ」
「そうですね……ほんと、そうですね……」
石段を見て、気が遠くなる。
「なんでこんなとこに。屋敷まで送ってもらわなかったのか?」
「たまにはちゃんと歩いてみようかと、ずっとここまで歩いてみました」
「ここまで……ここまで!? 森の入口から!? え、嘘? あっぶねぇだろ!」
「ひゃあ! ごめんなさい!」
怒鳴られ、ルルノは頭を下げた。そして、思わず怒鳴ってしまったセクタは、こほんと咳払いをする。
「あぁ、悪い。人間だと大変だろう、ここまで歩くのも、こっから先も。それに危ない」
大小六つの山に囲まれ、その中央で最も標高の高いのが今ルルノとセクタのいる山。全体的に深い森に覆われ、獣や妖怪が多いことから、人食いの森とも称されることもある場所である。
この山の山頂にある妖怪屋敷と、ルルノは繋がりがあるからこそ妖怪には襲われる心配はあまりないとはいえ、野生動物や毒虫に襲われる恐れはあるわけで、ルルノにとって決して安全な道ではない。
「で、どうだった?」
「すごく後悔しました……あともう少し後悔しそうです」
運よく、獣にも虫にも襲われることはなかった。だが、かといって歩きやすいわけでもなく、その上で方向感覚が狂う似たような地形に激しい起伏が続く。その為、森に入ってから石段の前に来るまで、ルルノはがっつり三日間迷子になっていた。
「ったく、すごいことする……心配だから、今後はちゃんと、せめて屋敷から森を抜けるまでと、麓から屋敷まではこれからも羚馳さんに送ってもらえ」
「……はい」
しゅんとルルノは俯く。そんなルルノの頭を、よしよしとセクタは軽く撫でた。




