ナーゼルとレイシェ
「グズ! 『第一に』私を守りなさい! あんた、何回言ったらわかるの!」
がなり声が、走り回っている練習生達の動きを制する。が、止まった試合の流れはすぐに再開された。訓練生はそれぞれ、またか、と心の内でつぶやき自分達の戦闘に戻る。外野にいる訓練生達がにやにやと視線を向ける先で、ふてくされた少年に食いかかる金髪の少女のがなり声が続いていた。先ほどまで帽子を被っていた為に乱れた髪を直しながら
「何のために盾を持ってるの。こんな時に左腕の筋トレ? 自分の部屋でやんなさい。そもそも、あんた、自主練してるの? 部屋でエッチな本ばっかり読んでんでしょう、どうせ。不潔! なんで、あんたみたいな不器用で変態なチビと一年間、ペアを組まなくちゃいけないのよ」
読んでねえよ、と反論する少年の声を無かったものとした少女の怒りは、収まる気配を見せない。
「私達、この科目、成績最下位よ。誰のせいか知ってる? あんたよ、あんた。かわいそうと思って今まで言わなかったけど」
毎日聞いてるけど? との外野の茶々も無かったものとなった。少女は早口でまくしたてる。
「せっかくペアを組んであげてる私を守れないから、魔術成績クラストップで天才候補の私が連帯戦闘の成績が最下位なの。だいたい、あんたに補助魔法をいくら使ってあげても、魔法使いが殺られたら負けってルールを理解できてないだから魔力の無駄よね。戦闘相手ばっかり見てて、私を見てないんだから。いくらやっつけても私を守らないと負けなのよ。わかってるの?」
わかってるよ、という言葉を少年は口にした。たぶん。落ちていた帽子を少年に手渡されながら、少女は礼を言うかわりに
「戦士なんか自分で回復も出来ないんだから、魔法使いを守るのが当然でしょ。死にたいなら一人で死ねば。あんたが死にそうになっても助けてあげないから! 私を守れないような男を助けると思う?」
「うるさいよ」
言われっぱなしだった少年が言い返した。さすがに頭にきたらしい。その視線は彼女をかすかに見上げている。並んでいれば、少年の方が低い身長であることを確認できる。
「誰が魔術成績がクラストップなんだよ。みんな、初歩回復魔法と行動速度上昇魔法しか教えてもらってないだろ。自称天才候補様が一番、習得に時間がかかったと思ったのは、俺の記憶違いか? それとも、天才様は記憶を変える魔法を独学で覚えたのかな」
「な! 物覚えが悪いみたいな言い方しないでくれる。あんたと違うのよ」
「俺のどこが物覚えが悪いって言うんだよ」
「悪いでしょ。ルールを覚えられないんだから。スライムでも三回説明したら理解するわよ!」
「スライムに人間の言葉がわかるわけないだろ!」
「そういう反論をするから、あんたは馬鹿だって言うのよ!」
「くそ、おまえ――――」
「文句あるわけ?――――」
言い合っている二人を相手にしないで進んでいた集団模擬戦は、最後の一組のみとなっていた。敗者組は帽子を取って外野に出、本来はフィールドには帽子を誰にも落とされなかった勝者のみとなるのだが
「……ナーゼル。レイシェ。お前達、さっさと出ろ。0点にするぞ」
師範の声で我に返った二人は、勝者組の冷ややかな視線に愛想笑を返しながら(そうする以外なかった)いそいそと外野に出た。
午前の訓練が終わって、大地に座った訓練生達に師範役のコーフィンが語りかけていた。
「二人ペアでの戦闘訓練は、街の外に生息するモンスター達との乱戦を想定したものだ。敵味方が入り乱れる戦闘の際は、各自が単独行動を取るよりも少人数によるチームを組んだ方が効率的だという理由からの訓練だが……」
言葉を区切ったコーフィンは真剣な眼差しを訓練生達に向けた。コーフィンは二十一歳で、この自治区一の剣士だ。十代半ばの訓練生達にとって憧れの的。特に女子からの人気は高い。理由は簡単である。美男子だからだ。
「…………」
コーフィンの眼差しは誰を見るというわけではなかったのだが、何を勘違いしたのかレイシェが
「ペア戦闘の基本が集団戦闘の基本で、だからこそ、この訓練ができるかできないかが生死を分けます」
誇らしげに発言するレイシェはナーゼルを一瞥し
「ペア相手を守れないようなことがあるなんて、集団生活ができないって言ってるようなものです。問題です!」
コーフィンは、レイシェの明らかな人格攻撃を聞きながらも、微笑みつつ言葉を返した。
「そう、問題だね」
同意を得ることができたレイシェが、興奮した面持ちで口を開こうとしたとき
「チームとしての問題だ。支えあってなくちゃいけないのに、それができない。これはどちらが悪いとかいう話じゃない」
「そうなんです。ですから、ペアを変えてください」
プライドを傷つけられたナーゼルは我慢できない。
「そんなの今更できないのは知ってるだろ」
二人がまた口げんかをしそうになったのを、銀髪の美男子が制した。
「そうだな。変えよう。宿舎の部屋を」
「は?」
「宿舎の……部屋ですか」
二人は、コーフィンの爽やか微笑の理由がわからなかった。いや、その場にいた全員が。
「二人部屋に移って、共同生活をしてもらう。では今日はここまで。はい、解散」
ざわつきながらも、訓練生はそれぞれに散っていく。コーフィンは爽やかに奇妙なことを言い、優しそうな雰囲気と裏腹に頑固である。それは訓練生達にとっての常識だった。だから、皆、レイシェとナーゼルとが共同生活するのは免れないと結論づけた。しかし、二人はそうはいかない。
「ちょっと待ってください。絶対イヤです」
「俺だってイヤだよ。コーフィンさん!」
売り言葉に買い言葉でしかないとコーフィンは聞き流したようだ。
「あ、ボクの隣の部屋が空いてるから、そこね」
「コーフィンさん。こんな不潔と一緒なんて……私のプライベートが」
レイシェに詰め寄るられるもコーフィンは涼しげな顔だ。それは年齢差から来る余裕というより、コーフィンの図太いとも言える性格からであった。
「二人だと寂しくならないね。レイシェは意外と寂しがりだから」
秘密を暴露されて面食らったように見えるレイシェより、ナーゼルがその言葉に反応した。
「うそっ?」
「嘘って何よ」
レイシェがかみつかんばかりの距離でナーセルを睨んで来る。ナーゼルが一瞬たじろんだのを見逃さず
「無神経。鈍感。役立たず。毛無し毛虫! 共同生活なんか絶対しないからね」
「毛無し毛虫ってなんだよ! 俺だってお前となんか――――」
「今日の昼飯、宿舎でバイキングらしいけど……早く行かないと無くなっちゃうよ」
と言い残すと、コーフィンはそよ風とともに去り…………もう見えなくなった。
「はや…………」
ナーゼルが呆然とその方向を見ていると、その視界に走っていくレイシェが写った。自分に行動速度上昇魔法を使っている。
「…………あ!」
大声を上げたかと思うとナーゼルも走り出した。
「バイキングが無くなるって……コーフィンさんが全部食うからじゃんかよ」
懸命に走りながらも、ナーゼルは自分が昼抜きになるであろう事を、予想せずにはいられなかった。そして、その予想は見事に、または不幸にも、当たった。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「……………………グ――――」
「………………」
共同生活初日の午後、部屋にはナーゼルの腹時計の音だけが鳴り響いていた。
「グ――――――」
この宿舎は、自治区の自衛組織の生活宿舎であると共に、訓練生の仮宿舎でもある。この地区では、十代の一時期をここで過ごし戦闘訓練を受けなければならない規則になっている。親元から離れ集団生活をしながら、男子は戦士として、女子は魔法使いとしてモンスターとも戦えるよう訓練を受ける。
「グ――――――――」
志願すれば自衛組織の正人員として、より高度な訓練を受けることも可能であり、男子が魔法の訓練、また女子が戦士としての訓練を受けることもできる。コーフィンは剣士として組織人員に所属しているが、女子訓練生のカリキュラム程度の魔法は習得している。
「グ――――――――――」
この自治区が、言うなれば魔法戦士で構成された自衛組織を持っているのは、人を襲うモンスターが巣食う未開地帯に接しているからだ。自治区の外周を城壁で囲んではいるが、それは王家の城の城壁のような屈強なものでない。そのためにモンスターが街まで侵入してくることも、度々ある。モンスターといえど集団的に目的を持って人間を襲うという事ではなく、あくまで餌を探しているうちに街に迷い込むようだ。しかし、どんな理由があれ、人間としては、排除、退治しなくてはいけない事に変わりは無い。その為の自衛組織である。
「グ――――――――――――――――――――」
「うううるっさいわよ! あんた、わざとやってるでしょ」
ベッドに横たわったナーゼルは顔を赤らめながら
「わざとの訳無いだろ。ほとんど食べれなかったんだよ。知ってるだろ」
実際ナーゼルが食堂に着いた頃には、二十数人の練習生と一人の大人気ない大人に食い尽くされていた。
「……どんくさ」
「な!」
「なによ。ホントの事でしょ」
「――――」
言い返したい気持ちはやまやまだが、レイシェに背中を向け寝返りをうった。
コーフィンの一言で本当に共同生活をさせられている。ナーゼルにはコーフィンの意図がわかっていた。わかっているが実行する気には絶対になれない。なぜなら――――
「あーあ、腹時計がうるさくて、魔法の勉強に集中できないわ。出かけてこよっと」
レイシェは眉間に皺を寄せて出て行った。かと思うとドアが開き
「私のものに触ったら、殺すわよ」
勢いよくドアが閉まった。
それの音が消えた頃、長い溜息と腹時計が交互に響いた。
何故レイシェとのペアがうまくいかないのか。自分は敵戦士を体を張って止めているはずだ。では、レイシェの帽子は何故落ちる。
「自分の身は自分で守ってくれよ」
ナーゼルはいつも思う。敵戦士を止めている間に、敵魔法使いにレイシェがやられるのだ。自分は自分のやるべき事をやっている。敵魔法使いまで止められない。だが、レイシェにとっては、魔法使いもナーゼルが止める事が当然。そんなワガママと毎日よくやってると、ナーゼルは正直思っている。けれども、なかなか強く言い返せない理由も自分でわかっていた。
元々この部屋に据えてあったベッドから上体を起こし、端に腰を下ろしたナーゼルは部屋を見渡した。対角の位置にレイシェのベッドがある。レイシェのベッドは、食後にコーフィンとナーゼルが運んだものだ。この部屋には一つしか無かったから、どちらかのを運び込まなければならなかった。ナーゼルはあまりこだわる方でないので、レイシェのしたいようにした。その結果、埃くさいベッドが割り当てられた。レイシェは事前に知っていたようだった。
「はあ」
ただ、女の子にこれを使わせるのも可哀想と思えたので、我慢することにした。レイシェとペアを組んでから我慢が多くなったのは、ナーゼルの気のせいではない。
隣の部屋からドアがきしむ音が聞こえた。
コーフィンが帰ってきたのを知ったナーゼルは、服をはたきながら部屋を出た。服に付いていた彼の短い赤毛が、ふわふわとレイシェのベッドに降りていった。
「共同生活でうまくいくとは思えません」
ナーゼルは、しかめ面をコーフィンに向けた。対するコーフィンは珍しく間の抜けた表情をした。
「…………そうくるか」
「コーフィンさん。そうくるかって何ですか。普通、男女で共同生活ってないですよ。他の師範は反対しなかったんですか」
「うん…………言ってないから」
「言ってないからって、いいんですか? 後で何か言われるのはコーフィンさんですよ」
「ばれたらね」
ウインクした。
「…………ばれないようにしろって言うんですか」
「さすが。よく判ってるね。君は察しがいい」
「笑いながら言うことですか。師範ですよね」
「何だと思ってたの」
「……師範ですけど」
「じゃ、師範の言うことは聞こう。はい、話、御終い。あ、乾燥テナガウオあるけど、食べる?」
「……ありがとうございます。頂きます」
「もしよかったら、全部持ってって良いよ。実家から送ってきたんだけど、僕あんまり好きでないんだよね、乾燥物って。食べると、のど渇かない?」
「共同生活でチームワークを向上させようって御思いなんでしょうけど、無理があります」
話を戻されたコーフィンが、今度は顔をしかめた。
「……やる前から無理って言っちゃダメだよ」
「やる前じゃありません。今やってきました。その結論です」
「成功の秘訣は諦めない事だって、偉い人が言ってたぞ」
「偉い人って誰ですか」
「……鳥の鳴き声って平和の象徴だよね。僕は好きだなあ」
窓の方に視線をそらせたコーフィンに、ナーゼルが
「誰ですか」
「……君って僕に厳しいよね。レイシェには、言われてからじゃないと反抗しないのに」
「そ、そんなことないです」
動揺振りが自覚できたナーゼルは、コーフィンに追い討ちをかけられた。窓から視線を戻した表情は真面目なようで、どこかにやけていた。
「……喜ぶと思ったんだけどな、『同棲』」
してやられた。歯がゆいような情けないような感情を抱えながら、ナーゼルは自分(達)の部屋のドアを開け、硬直した。逆光になっていても直感的にわかる形相で、レイシェが仁王立ちしている。
「これ、何」
ナーゼルの鼻先に突きつけられた物は、赤く短い髪の毛だった。レイシェの行動が理解できないまま答える。
「……俺の髪の毛だと思うけど?」
ナーゼルには、そうにしか見えなかった。その答えを聞いたレイシェが、歯軋りをし
「よくも、しれっと言えるわね」
鼻が当たるほどの距離で凄んできた。その怒りの理由がわからないナーゼルが、思わず身を引くと
「何何何何? 何してたのよ、私のベッドで。考えられない。何? 何したの? 言いなさい!」
「ベッドォ?」
思わず動きが止まったナーゼルに、レイシェの高い鼻が突き刺さった。
「とぼければ逃げれるとでも思ってるわけぇ?」
大きな瞳がさらに見開かれ、まるで虫取り網のようだ。近い。困惑するナーゼルが
「とぼけるも何も……」
「何もしてないって言うわけ? じゃ、これは? 誰の髪? ん?」
「……俺の……」
「どこにあった?」
「どこって……」
「どこぉぉぉぉぉ?」
「レイシェの…………」
「の?」
ナーゼルに逃げ道はない。
「ベッ……ド……」
「なにしてたのか、言いなさぁぁぁい――――――」
大声に驚いたであろう他の訓練生が部屋から覗いている。レイシェに気にした様子は微塵もないが、ナーゼルは恥ずかしかった。耳に入ってくる鬱陶しい含み笑い。その元に伏せた視線を流していると、コーフィンの姿が映った。にこやかな表情で、彼は親指を立てている。その意味がナーゼルにはわからなかった。わかるはずもない。褒められることも評価されることもした覚えはないのだから。嘘をついて、責められている。自分を不利にする嘘をついて、何かを守っている。ナーゼルは、その何かがわからない。
「……俺、なんでレイシェの事が好きなんだろう?……」
間近に迫ったレイシェの瞳が、唇が、肉体が、そして激怒が、ナーゼルにはいろんな意味で悩ましかった。
日が落ち、暗くなった室内に明かりを灯しているとドアがノックされた。ナーゼルがドアを開けると、コーフィンが軽く手を挙げ挨拶した。ナーゼルが進めた椅子に腰掛けながら、
「いや、凄かったね」
明るい声で話を切り出した。
「もう何も言えませんでした。レイシェの思い込みの激しさは、俺にはどうして良いのか」
「どうして良いか? 思うようにしたらいいのに」
あっけらかんと言う。
「コーフィンさん、勘弁してくださいよ。これ以上、仲が悪くなったら、俺どこで寝ればいいんですか」
嘆くナーゼルの様子が、どういうわけかコーフィンには面白かったらしい。声にして笑っている。
「何がおかしいんですか」
抑えながらも、ナーゼルは苛立ちを表した。それを感じたらしいコーフィンが、
「仲が悪いようにも見えたけど、正直僕は……昔の自分を思い出してね。懐かしかったよ」
答えになってない。そう思ったナーゼルだったが、言いたいことは予測が出来た。
「喧嘩するほどってヤツですか」
「うん」
「…………」
「喧嘩しないで仲良くしたいって思ったろ、今」
「やめてください」
そっぽを向いて答えた。図星ではある。
「レイシェもまんざらでないはずなんだけどな」
「まさか……女子の訓練生は皆、コーフィンさんのファンですよ」
「あ、そうなの?」
弾んだ声が返ってきた。
「……嬉しいんですか?」
「嬉しいよ。僕、褒められて伸びるタイプだから」
「そういう事じゃなくて……まあ、いいですけど」
ナーゼルは次の言葉に詰まった。話しやすいコーフィンは、ナーゼルのとって兄のような存在だが、今日はレイシェの事で頭が痛い。
「そういえばレイシェは?」
「あれから出て行ったきりです」
帰ってきたらどうしたら良いのかわからないナーゼルにとっては好都合だった。
「ふーん…………」
コーフィンがそれだけ言うと、部屋は静かになった。昼は鳴いていた鳥の声も、今は聞こえない。
「…………今日はやけに静かですね」
気まずくなったナーゼルが何の考えも無く言うと、鋭い光がコーフィンの瞳に走った。
「静かだ……」
同じ事を返したコーフィンに違和感を覚えたナーゼルは
「どうかしました?」
真剣な雰囲気に気おされた。
「…………夜行性の鳥の声が聞こえない……」
「………………この辺にそんなのいました?」
「いる。毎日鳴いてるぞ…………おかしいな」
窓を開け、コーフィンは外の様子を伺った。その後ろから覗いたが、ナーゼルにはいつもの風景しか見えなかった。高台にあるこの宿舎からは、住宅地区がひっそりとたたずんでいる様子が見下ろせる。住宅地区の手前にはわずかな林があり、そこは普段あまり人気の無い場所ではある。しかし、決して危険な場所ではなく、むしろ小川が流れる安息場でだ。二人が見据える中、その森が震え出し、鳥が逃げて行く。驚く二人がさらに注意を向けると、見た事がないものが空に伸びて行く。
「ああ?」
「コーフィンさん、あれって……」
暗い空に伸びていく白いそれは、うねうねと林を荒らし宙を這いずった。まるで蛇、いや龍だろうか。その頭は突起が五つ飛び出、それぞれが独自に動いている。呆気に取られたナーゼルは、それを目で追いながら次第にわかってきた。
「あれって……手?」
「新手のモンスターか? とにかく行かないと! 君はここで……」
コーフィンの言葉は、叫び声で遮られた。ナーゼルは林から伸びる二本目の手を見つけ、その光景に言葉を奪われた。金髪の少女が捕らえられ、宙を舞っている。
「きゃ――――――――」
「レイシェ! どうして、くそっ。ナーゼル、君はここで皆を退避させろ。あと他の師範、クレイド先生に知らせろ」
そう言いながら部屋を出ようとする。ナーゼルは遠くで聞こえるレイシェの叫び声が自分を呼んでいるようにしか聞こえなかった。実際、そんな事はない事は分かっていた。しかし…… 体が止まっているナーゼルにコーフィンが怒鳴りつける。
「ナーゼル、わかったのか!」
叫び声しか聞こえないナーゼルは訓練用の剣を掴み、コーフィンの後を追う。
「俺も行きます」
開け放ったドアの向こうで、コーフィンは真剣な視線を向け、親指を突き立てた。
林に走り込んだナーゼルは、急ぐ気持ちと同時に不安を感じて始めていた。レイシェをどうやって助ければいい? 宿舎にいた時に見えていた二本の手は、レイシェを掴んだまま林内に消えてしまった。林を破壊するような音を頼りに先を走るコーフィンに、声をかける。
「コーフィンさん。あのモンスターって一体何なんですか」
「わからない。でも、行かなきゃいけないだろ」
徐々に遠くなるコーフィンの背中に頼もしいものを感じたナーゼルは、気づいた。決して足は遅い方ではない。そのはずなのに、コーフィンはどんどん遠くなる。よく考えるとコーフィンは尋常じゃない速さだ。以前、訓練で走っているのを見たことがあるが、ここまで速くなかった。
「コーフィンさん、俺にも行動速度上昇魔法を――――」
コーフィンは急旋回し横道に消えた。
「だ――――! 自分ばっかり」
消えた薄情者を追いかけ、横道に入ったナーゼルはとうとう見つけた。林内に流れる川から二本の手が生えている。その片方には、レイシェが意識朦朧としている。呼吸を整え終えたコーフィンが
「レイシェ、安心しろ」
と腰に手をやる。
「………………」
腰を探る。開いた手を閉じると、汗が握られた。
「…………安心しろ…………」
同じ事を繰り返すコーフィンにナーゼルが
「剣、持って来てないじゃないですか、コーフィンさん」
「………………」
レイシェが弱弱しい声で
「役立たず……」
言った。言われた当人よりもナーゼルの方が硬直してしまっていると、レイシェを捕まえていない方の手の姿が揺らいだ。その残像を捕らえられなかったが為、ナーゼルの体は宙を舞う。
「ナーゼル!」
コーフィンの叫び声が聞こえたような気がしたが、衝撃が強すぎて返答など出来なかった。大木に叩きつけられ息が止まった。動けない。やられる。そう思った時、剣が無い事に気がついた。ナーゼルの剣は、弾かれコーフィンの足元に転がっている。それを拾ったコーフィンは
「僕の教え子を返してもらおう」
構えると、訓練用の木刀の剣先に光が灯り、炎が吹き上がった。それは刃全体を包み、鬱蒼とした林の闇を払った。
「はっ!」
短い呼気と共に飛んだコーフィンの炎の剣が、レイシェを捕らえている手に振り下ろされる。波飛沫をあげ剣をかわした手を、炎の軌跡が渦を巻いて追っていく。コーフィンが剣を振り上げると、炎の渦が水飛沫を飲み込み、レイシェを捕らえている手に迫った。そして、消えた。
「がぁぁぁ――」
もう片方の手がコーフィンの背中を弾き飛ばした。激痛の苦しみを発しながらも、宙に浮いたコーフィンの体が川に沈んだ。
「コーフィンさん!」
木にもたれて立ったナーゼルに、今コーフィを襲った手がじりじりと迫ってくる。その指が、獲物を狙う肉食獣の牙のように狙いを定めるなか
「ナーゼル…………助けて……」
レイシェの声が聞こえる。ナーゼルには視線を返すこともできない。目の前の異形から逃れる術を思いつかないのだ。逃れる? 疑問がナーゼルの頭をよぎった時、牙が刺さった。手と木に挟まれ、ナーゼルの背骨が悲鳴を上げる。圧迫した腹を解放し、二撃目を狙う手が鎌首を上げるのを、視界に捕らえる。が、ナーゼルの体は動かない。それどころか、衝撃で意識が遠のいていく。風景がぼんやりとし、体中の力が抜けていく。
「やられる」
直観か天の声かわからないが、ナーゼルは薄れる視界の中、思った。動かない体が崩れ、腰が地についた。自分を狙う鎌首がやけに大きく見れる。その後ろから天使が迎えに来ている。ナーゼルはそんな気がした。狙いを定め終わったらしい手が、ゆらりと下を向いた。来る。動かない体をどうにか操り避けようとするもダメだ。言うことを聞かない。手が残像になった。
「ゴン!」
かわそうと首をよじったナーゼルの頭が地面に落ちた。振り下ろされた鎌首は木を突き抜けている。
「――――――」
ナーゼルはほとばしる痛みを、額に感じた。地面にぶち当たった額に。かわした。攻撃を食らっていない。我に帰ったナーゼルの体中は、いまだ痛みを訴えている。それにも関わらず、いや、痛みとは無関係に動く。上体を起こすと、レイシェと目が合った。
「……感謝するくらいじゃ……足りないんだから……」
行動速度上昇魔法。痛みを耐え、ナーゼルは駆け出した。本来であれば動かないであろう体は、さらに悲鳴を上げる。明日が来るのなら、尋常でない苦しみに襲われることだろう。が、ナーゼルにとっては関係ない。たとえ死んでも、今やらなければならない事がある。
「くらえぇぇ――――」
コーフィンが落とした炎の剣を拾い上げ、レイシェを捕らえている手にめがけて飛んだ。川岸から渾身の力でジャンプし、たなびく紅蓮の噴流を、振り下ろした剣から炸裂させる。灼熱の塊はものすごい勢いで加速し、触れたものを瞬時に焼き斬った。赤い血を蒸発させ生臭い悪臭を放ちながら、手は重力の支配を逃れられない。傾いた瞬間には、もうなす術無く水面に飲まれていく。
「きゃ――――」
レイシェの悲鳴が落下する。ナーゼルがその方向を見るが、もちろん自分自身も落下している。自分の方が早く水面に捕らえられてしまう。暗く、底の見えない揺らぎが間近だ。悲鳴に気を取られながらも、この下にヤツの本体がいる。川はただ、音をたてて白波が流れていく。もうすぐ目の前だ。剣だけは濡らすわけにいかない。右手を高く掲げたナーゼルは、その足で黒く流れる川の流れの冷たさを感じた。緊張感に襲われているなか
「ぷわっああぁ…………」
レイシェが落ちていくであろう水面が盛り上がった。黒い水が広がり、落ちてくるレイシェを捕まえた。それ以上、ナーゼルは見ることが出来なかった。視界に光が奪われ、全身が冷たい水に包まれた。
「早く戻らないとレイシェが――」
まとわりつく黒い水に、ナーゼルは必死に抵抗した。焦る気持ちと裏腹に沈む体。暗い視界。しかし、まだ動く。これまでの人生でこれほど必死になったことがあったろうか。意識せずと決めていた自分の限界を、ナーゼルは初めて超えた。行動速度上昇魔法の効果はとっくに切れているはず。ナーゼルの強い意志が肉体を動かしていた。何も見えない水中を月の光にめがけて泳ぎあがる。水面から顔を出した瞳がレイシェを捉えた。
「は?………………」
レイシェと、その隣にコーフィンが立っていてナーゼルを見ている。いつもの緩い笑い顔のコーフィンには緊迫感の欠片もない。
「あれ? 敵は…………」
水中から出した剣を構えつつ、聞くと
「いや、見事な太刀筋だったね」
コーフィンが平和そうに続ける。
「すごい。訓練をつけた人が」
「自画自賛?」
「うん」
レイシェのつっこみに平然と答えた。ナーゼルは完全に、その状況に置いてけぼりを食っている。理解できない。
「…………あの、敵の本体は? まだ川の底にいるはずじゃ?……」
その問いに、レイシェが軽く笑ったような気がした。結構な高さから落ちたはずなのに、平気だったようだ。心配していたナーゼルは胸を撫で下ろしたが、まだ安心できない。ヤツがまたあの暗い川底からレイシェに襲い掛かってくるかと思うと、ナーゼルの剣を持つ両手は力を込められた。素早く周囲をうかがうと、木に突き刺さったあの手がぐったりとしている。
「?…………」
その手に沿って視線を走らせると、レイシェたちの足元の水面に沈んでいった。
「レイシェ! そこにいるぞ」
二人は平然としている。腑に落ちないナーゼルだったが、今更、自分とレイシェたちとの違いを理解し始めた。二人は膝上までしか浸かっていない。するとレイシェが
「そっちだけ深いみたいだから、とりあえずこっちに来なさいよ」
ぶっきらぼうに言った。コーフィンも
「こっちに来れば全部わかるし」
言う。
「……?……」
言われるままにナーゼルは泳いでいく。レイシェの言うようにすぐに浅くなり、駆け足で二人の元に近づいた。
「わかるって、一体……」
水面下へと沈んで見えなくなる手が今にも動き出しそうで、腰が引ける。それを我慢しながらレイシェのそばへ来たナーゼルは、虚を突かれた。レイシェのビンタがクリーンヒットした。
「な? 何すんだよ」
目尻を上げたレイシェが
「何すんだ、じゃないわよ。あんた、私がここに落ちたらどうなると思うのよ。こんなに浅いのよ。コーフィンさんが受け止めてくれなきゃ、死んでたわよ!」
足をバシャバシャしてさらに続ける。
「殺すつもりだったんでしょ。何? 日ごろの恨みなわけ? そんなに私の事嫌いなの」
「ち……違うよ……」
頬を押さえながら、自分の本当の気持ちをどう伝えるべきか困惑していた。すると、コーフィンがレイシェに
「ナーゼルがモンスターを倒してくれたんだから、まあ、良いじゃないですか」
なだめるが、レイシェの睨みがきつく、ナーゼルは目を逸らした。すると、コーフィンの手に魚が掴まれている事に気づいた。なぜ今、魚を? ナーゼルの様子を察したらしいコーフィンが
「これ。何だと思う。僕はびっくりしちゃったよ」
と言いながら、差し出したそれは今日食べたアレだった。
「…………テナガウオですよね……?」
手は切り落とされているが間違いない。中指ほどの全長のテナガウオだ。乾燥させる前の今は青々しい鱗が月光を反射している。
「えっと……」
ナーゼルの疑問にコーフィンが興奮した声で答えた。
「この乾燥させて食べるテナガウオがモンスターの正体だったんですよ。あの手はこのテナガウオのものです」
ナーゼルは驚くしかなかった。テナガウオの手は本来、その全長より短い。レイシェを襲ったあの手は、林の木々より遥かに長かった。あり得ない。
「あり得ないです。こんなに長い手のテナガウオなんて。しかも、自然のテナガウオは草食です。人を襲うなんて話は聞いた事がない。これは異常事態だよ」
珍しく勢いづくコーフィンにナーゼルは呆気に取られる。
「もしかしたら、魔法技術の実験体かも知れない。よく分析する必要があるな。魔力が残っているかもしれないし、何か一つでも異変が見つかれば…………きな臭い……これは何かの始まりなのだろうか……」
コーフィンが月を見上げ、何かを考えている。ナーゼルはそんなコーフィンをただ黙って見ていたが、横からの睨み視線がまだ続いている事を知っている。沈黙した場はそれぞれの想いを包んでいくが、ナーゼルの恋心はもやもやが大きくなるばかりだった。
「皆、おはよう」
コーフィンの声が訓練場に響く。
「皆、知ってると思うが昨日モンスターが出現した。そして、ナーゼルが見事に討伐してくれた。ナーゼル、立って。はい、皆、拍手」
コーフィンの合図で拍手されナーゼルは恥ずかしくなった。下を向くと、隣のレイシェが、まだ、睨んでいる。助けたのに、恨まれているのは何故。医務室で寝た昨日の夜も考えていたが、わからない。視線が合ったレイシェはプイと横を向いた。
「ナーゼル、座っていいよ。で、モンスターの出現率が最近高くなってきている事は皆知っているだろうけど、そろそろ訓練生にも対モンスター戦闘の知識を与えるべきでないかと言う意見が師範陣にも出ていて、今日はペア戦闘訓練は中止して――――」
その言葉に複雑なものを感じたナーゼルがレイシェの方を見ると
「……なによ……」
睨まれた。
「何でもない……」
これが、夕方まで続いた訓練での最後の会話だった。
訓練が終わり一人で部屋に戻ったナーゼルは、レイシェが戻ってくる前に出て行こうと荷物をベッドのそばに投げ出した。ペア訓練でなかったといえ、言葉を交わそうと思えばできた機会は何度もあった。しかし、レイシェの大きな瞳がそれを拒否していた。助けたら少しは何かが変わると言う期待があったはずだったが、二人の仲は悪くなった。
「どうして……」
ナーゼルは独り言を残して部屋を出ようとした。すると、ドアノブをつかもうとした時、向こう側からノブが回された。
「!」
驚いたナーゼルの顔を見たレイシェが、出口に立ち塞いでいる。今朝からの睨み顔で
「…………どこ行くの」
ナーゼルは返事に困った。
「いや、ちょっと…………」
行く先は考えていないが、具体的な嘘が思いつかない。
「……ふーん……」
疑うような声色でこっちを見ている。ナーゼルが立ち尽くしていると、驚いたことにレイシェは素直にドアから廊下側に離れた。道を開けてくれた。
「……いってらっしゃい」
目を逸らして言う。その態度はナーゼルが知っているレイシェのものではなかった。だが、何故今のレイシェがそんな態度を取るか、ナーゼルにはわからない。そして、促されるまま部屋を出た。
夕食が済み、誰もいない食堂でナーゼルは昨日からの事を考えていた。ペア訓練で喧嘩し、一瞬だけの共同生活を送り、モンスターに襲われたレイシェを救い出した。いや、モンスターを倒しただけで、レイシェを助けたことにはならなかった。ナーゼルにとっては同意だが、レイシェにとっては違ったようだった。わからなかった。モンスターを倒せばすべてがうまくいくとしか思っていなかった自分が、ナーゼルは情けなくなった。溜息が出る。
「やあ、どうしたの。こんなところで」
コーフィンが来た。間が悪い。今は一人になりたいのに。
「別に…………」
珍しく、コーフィンに対して無愛想に答えた。その態度に何かを感じ取ったらしいコーフィンが
「また喧嘩したのかい」
隣に座った。ナーゼルは何も答えない。
「今度は深刻のようだね…………共同部屋、やめようか」
「…………」
ナーゼルは何も答えない。問題は、部屋が一緒だろうが別だろうが同じだった。レイシェの態度が、考えがわからない。
「…………」
コーフィンはナーゼルの返答を待っているから、場が静かだ。今日は夜鳥の声が聞こえる。その声を聞きながらナーゼルが
「昨日と違うんですよ……」
呟いた。
「何が?」
「…………レイシェです」
「レイシェが? 僕にはいつもと同じに見えたけど?」
「違いますよ。いつもなら喧嘩を吹っかけてくるのに、今日は無視したり、急によそよそしくなったり…………僕、変な事したんでしょうか?」
ナーゼルは、助けを求めたコーフィンの目を見た。コーフィンも真剣な眼差しをまっすぐ返している。茶化すかと思っていたナーゼルは少し意外だった。
「そうか、いつもと違うか…………どうしてだと思う?」
コーフィンは訓練の時のように、成長する機会を得ている少年に向かい合った。その雰囲気を感じたナーゼルは
「正直、わからないんです」
「うん……昨日何があった?」
「モンスターがでて、レイシェを助けに行きました」
「助けたんだから、感謝されるはずだよね」
「そうだと思ったんですけど……」
「今日の態度は感謝してないみたいだったかい?」
「そうとしか思えません。あの時、ただモンスターを倒せばいいと思っていて、レイシェを助ける事をしてなかった事に怒っているのかも。殺すつもりかって言われましたし」
「うーん……そこが問題なのかなあ……」
「そうです。きっと」
「……じゃ、こういう考えはどうだろう」
「?」
「モンスターを倒す事と助ける事が同じでない。つまり、本当の目的は助けることだったけど、君は、そのためにはモンスターを倒さないといけないと思った。確かにその通りだ。でも、レイシェを助けて逃げてもよかったんだよ。まあ、ホントに逃げたらかっこ悪いけど。ここで言いたいのは、目的は一つでもそれを達成するための方法は沢山あるって事。当事者が思う以上に。でも、当事者は一つの考えに囚われてしまう」
「はい、そうでした」
「思い込みが目を曇らせてしまう。助けたから感謝されるべきと思い込んでいる君と、何らかの理由で感謝を表さないレイシェ。どんな非常識な人間だって命を救われたら、ありがとうくらい言うさ。レイシェは非常識な人間だと思うかい?」
「非常識ではないです」
「そうだね。でも何も言わない。それはきっと言えない理由があるからだと僕は思うな。彼女の今日の態度の目的は、その理由を隠すためのものじゃないかい。周りから見ればそんな態度を取る必要はないのに、彼女はそれしか思いつかなかった」
「レイシェは思い込みが激しいから……」
「そういう君も思い込んでる状態にあるよ。囚われているね。僕が何かしたんじゃないかって。理由は君にあるとは限らない」
「僕じゃなかったら……?」
「レイシェ自身さ。何かがレイシェを、君に対して無愛想にさせていると僕は思う。彼女はモンスターからは助けられたけれど、まだ何かに心が囚われている」
「囚われて……それってモンスターの魔法にかけられたとか?……」
「それは…………」
コーフィンが真剣な眼差しを向け
「わからない」
「……そうですか……そりゃ、レイシェに聞かなきゃわからないですよね」
溜息をつきそうになったナーゼルだったが、ついたのはコーフィンだった。
「やっとわかった?」
「え? 何がですか」
「僕に相談してる場合じゃないよ。レイシェの事はレイシェに」
「コーフィンさん。レイシェに聞けないから、相談してるんじゃないですか。無理なこと言わないでください」
「無理なことはないよ。やるかやらないかだけ」
やれない。ナーゼルは思った。勝手に結論を出したコーフィンは、席を立ち
「僕、クレイド先生に呼ばれてるから、行かなくちゃいけないんだ」
と立ち去ろうとする。ナーゼルはその名を聞いただけで凍りついた。
「クレイド先生ですか…………」
「うん」
ご愁傷様ですと心の中でだけコーフィンに言う。コーフィンは溜息をつき
「たぶん、ばれちゃったんだよね。怒られるだろうなあ」
と背中を向けたまま、言う。
「? 何がですか」
「ん、君とレイシェのこと…………個室に二人きりでいられる時間はもうないよ。いいの? こんな所にいて?」
と最後の言葉を告げ、コーフィンは行ってしまった。その背中を見送っているナーゼルは、部屋に帰る決意がつきかねていた。
暗い宿舎を一人歩いていたナーゼルは、中庭に腰を下ろした。月が煌々と辺りを照らしている。昨日の事が嘘のような静寂だ。流れる雲を眺め、ナーゼルは悩んでいた。雲が次々と形を変えていく。その軽率とも思える変化が羨ましく感じたナーゼルは、視線を大地に下ろした。と、誰も居なかったはずの中庭に動くものがいる。モンスター? 不安がよぎり、目を凝らした。雲が月を隠し暗くなっていた中庭で、それはナーゼルを見ている。何だ、あのピンクの生き物は? ナーゼルは中腰になり、いつでも逃げれるように構えた。それはゆっくりした足取りで近づいてくる。と、聞き覚えのある鳴き声を聞いた。
「…………なんだ、猫か」
胸を撫で下ろしたナーゼルは、次第に自分が情けなくなった。ただの猫一匹に恐れを感じるなんて、一体どうしてしまったというのか。少し考えて、コーフィンの言う通り、自分は何かに囚われているのだろうかと思うようになった。何に? 自問する。自分は何に囚われていた? 今日、昨日、一昨日、考えている内に、また月明かりが辺りを照らし始めた。猫すらモンスターに思わせた暗闇は消え去り、本来の中庭の姿を見せる。当たり前の中庭がそこにはある。あるものが見える。それ以上でもそれ以下でもない。ある物があり、無い物は無い。当然の事だ。それに気づいたナーゼルは自分を囚えていたものがわかった。恐怖心だ。今日も昨日も、いや、ずっと前から怖かった。自分の頬を叩き、ナーゼルは決意を固め、中庭を後にした。その後姿をピンクの猫が暖かい視線で見送っている。
……ような気がする。しかし、よく見ると怒っているようにも見える。ま、そもそも、猫の表情は読み取れないが、もしかしたら、ただの猫呼ばわりされたから怒っているのかも知れない。その辺はご想像にお任せします。
自分達の部屋の前に来たナーゼルは、深呼吸を一つしてドアを開けた。
「!」
白い肌に薄いグリーンの下着。状況が理解できた瞬間には、レイシェの叫び声が発せられた。
「ごめん!」
言いきらないうちに廊下に出、ドアを閉める。と、閉まったドアに何かが投げつけられた音がした。無駄に怒らせてしまった。昨日までのナーゼルなら、レイシェに嫌われたりしないかと心の奥で怯えてしまっていただろう。が、これは事故だと自分に言い聞かせながら、ナーゼルはドアが内側から開けられるのを待った。しばらくして、部屋の中から足音が近づいて来た。ナーゼルはドアに向き直り姿勢を正した。ノブがかすかに動くとカチャッと音がした。緊張を隠し、ドアが開かれるのを待った。
「…………」
いつまでも閉められたままのドアの向こうで、足音が遠ざかっていく。しばらく待って、気づいたナーゼルがあわててノブを回すが、ドアは開かない。
「開けてよ、レイシェ……」
鍵をかけられた。ノブを回す音が廊下に響く。
「レイシェ。謝るから、開けてくれよ」
部屋の中から返事はない。しつこくノブを回したが開かない。当然。いつコーフィンが戻ってくるかわからない。時間が無いのに、こんなところで終わるわけにはいかない。ナーゼルは
「悪かったよ。見てない。着替えしてるなんて知らなかったんだって」
見たから知ってることを言っている事に気づかないナーゼル。開くはずはない。このまま、謝っていても開かない予感を感じたナーゼルは違う方向から攻める。
「……レイシェ。普段は気づかなかったけど……あー……結構……スタイル良いん――」
ドカッ! 何かがドアにぶち当たった。振動がノブを握る手に伝わる。かなりの重量物だった気がする。
「えっと…………レイシェ、聞いて欲しい……」
ナーゼルは生唾を一つ飲み込んで
「君の事が……好きだ」
沈黙は続いた。言い換えれば無視された。
「………………」
返事を待つナーゼルは思い切って言ったというよりは、言ってみたという感覚を持っていた。なんだか罪悪感を覚えるが、それは引きずらない。このドアを開けることだけを、今は考えている。しばらく、返事を待ってみたが、変化はない。
「レイシェ……開けて……」
優しげな声を出してみる。反応はない。いっそ、切れてみたらどうなるだろう。そんな考えがよぎったが、それは止めた。
「……レイシェ?……」
いないのではないかと思わせるほどに返事がない。
「……………………」
ナーゼルは時間が過ぎていくのがもどかしかった。ドアノブから手を離し、咳払いをした。もうここでいい。返事はないが聞こえているはずだ。ナーゼルは静かに本題に入った。嫌われるのを恐れて、本心を伝えないでいることはできない。
「レイシェ。僕は昨日、君がモンスターに捕まっているのを見て、僕が助けなきゃって思ったよ。誰かから言われたからとかじゃなくて、心がそう感じたんだ。君は僕が助けるって。別に、何か見返りを求めてたわけじゃない。けど、君の今日の態度は……僕には理解できない。僕が何か気に触ることをした? もしそうなら謝るよ。でも君は何も言ってくれないし、僕はどうしたらいいんだい」
ナーゼルは言葉を止め反応を見たが、目の前には閉じられたドア。
「……どうして僕を無視する? 君にそうさせているのは一体何なんだよ。誰かに言われた? もしそうだとしても、何で言うことを聞くんだよ。そんな事をしても得することなんかないじゃないか」
さらに続ける。
「僕は君の事が好きだけど、けど、君が僕をそう思ってないことくらいわかってるさ。何も望んじゃいない。そうだとしても、無視されるのは耐えられない。しかも、そんなことされる理由が全然わからない。どうしてなんだ。レイシェ」
返事は、ない。
「………………この、僕の君を理解したい気持ちは無駄なのかな。僕はできない事を求めているだけ? そうなら、求めないよ。ただ、僕は…………」
言葉に詰まったナーゼルはうつむいた。なんだか自分の要望しか言ってないじゃないか。こんなのでレイシェに伝わるわけがない。一体どうしたらいいんだろう。両の拳を握りしめ、瞳を閉じた。暗闇が襲ってくる。それを振り払うように瞳を開けると、眩しかった。室内の光が顔を照らす。
「聞いてるこっちが恥ずかしいわよ。馬鹿……」
レイシェがいた。その頬が赤みを帯びている。
「レイシェ…………」
「何してるの…………入ったら?」
白とピンクのかわいいパジャマを着たレイシェが無愛想に部屋へと促す。
「あんた、よく廊下であんな事言えるわね。どうかしてるんじゃない?」
「……思ってる事を言っただけだよ」
部屋に入りながら言う。
「何、いつもあんな事ばっかり考えてんの。やっぱりスライム並みね」
「だから、スライムはしゃべらないってば」
いつものレイシェだったことがナーゼルには嬉しかった。たった一日でもレイシェがいない生活は、自分には考えられない。
「またそれ? あんたやっぱりスライム並みの――」
「それ、パジャマ?」
「そうよ……文句ある?」
レイシェが薄く睨む。
「別に…………」
「な、なによ。言いたいことがあるなら言いなさいよ。あれだけ廊下で勝手な事ぶちまけておいて……」
「……いつもそんなパジャマなんだ…………」
「悪い。何着ようと私の勝手でしょ」
「……そだね」
「そだねって……なんか腹立つぅ……特別に聞いてあげるから、思ったことを言いなさい」
夜にパジャマを着たレイシェに詰め寄られ、ナーゼルはその姿を一瞥し、
「なんでもないよ」
と思ったことは口にしなかった。レイシェはまだ騒ぐが、適当にあしらう。レイシェは荒々しいことを口にするが、結局ナーゼルにはかわいい子がかわいいパジャマを着て一生懸命になんか言ってるようにしか見えなかった。その姿に釘付けになっている。
「聞いてるの、私の話!」
「……ああ…………」
「ああ…………って聞いてないでしょ」
「……ああ…………」
「ガ―――― 何なのよ、あんた」
突然ドアがノックされた。時間切れ。ナーゼルは溜息をついた。向こうから声が続く。
「クレイドだ。ナーゼル、レイシェ両訓練生、開けなさい」
レイシェが凍りついたのを感じた。そうなるのはナーゼルも同じだったが、動いた。ドアを開け訓練所所長を受け入れ、威圧的な無表情で告げられる通達を聞き入れた。二人の共同生活は、ほとんど時間を共有せず終わった。
よく晴れた朝。訓練開始の時間になってもコーフィンが来ない。訓練生達は全員集まっている。ナーゼルはレイシェに話しかけた。
「遅いね、コーフィンさん」
「そうね」
「……クレイド先生にまた怒られてたりして……」
「うわっ……あの人の事、想像したくもないわ」
「怖いよね。無表情だし、なんていうかオーラが出まくってて」
「負のオーラがね。あれで所長なんて信じられない。訓練所より牢屋の方が似合うんじゃない? あ、もちろん牢に入ってる方よ」
レイシェが腰に両手を当て、言う。レイシェは不満を訴えるとき、一言ではすまない。止めても無駄だ。気が済むまで言わせてやればいいんだ。ナーゼルは適当に相槌を入れておいた。そうしながら、いつものように活発に不平を口にするレイシェを見ながら思った。レイシェの中で一体何が変わったのだろう。考えてもわからない。だからと言って、またレイシェに聞こうかとも思わない。昨日も結局は答えは聞けなかったけれど、レイシェの中で何かが変わった。それだけがわかれば、ナーゼルには十分だった。
「あ、来たわよ」
レイシェのさす方向を見るとコーフィンが走ってくる。
「なんか真剣な顔してるね、コーフィンさん」
「……ちょっと怖いわ……」
その言葉通り、いつものコーフィンではないようだ。クレイドによほど叱責されたのだろうか。勝手に見当をつけているナーゼルと訓練生達の前まで着いたコーフィンは
「いや、ゴメンゴメン。ちょっと会議が長引いてね」
咳払いを一つし
「一昨日のモンスター出現を受けて、講師陣で訓練内容を改めるべきでないかという意見が出たことは、前に話したね。で、その会議の結果として、今日から訓練項目を増やすことにした。その名もずばり、孤立状況下戦闘訓練」
訓練生達はポカンとしている。
「時間が無いから、さっと説明したら始めるよ。……あ、僕が遅れたからって意味じゃなくて、この訓練は時間がかかると思うんだよね。で、その理由も含めて説明すると、これはペアでやってもらう」
その言葉に、ナーゼルは嬉々としてレイシェを見た。レイシェの表情はいつもと変わらないような気もするが、喜んでいるに違いない。ナーゼルは根拠はなくても、その読みに自信を持っている。
「孤立だから、基本は一ペアの訓練になる。けど他の皆は休みじゃないぞ。敵役になってもらう。皆でね」
「え? 皆……」
思わずレイシェが高い声をあげる。
「そ。つまり、一ペア対他全員。それも連戦じゃなく乱戦形式ね」
「それって……訓練というよりリンチじゃ……」
「しかも、敵全滅させなきゃ最初からやり直し。全滅させるまでやるからね。勝敗は、いつもの帽子ね」
皆、唖然としている。
「早速、始めようか。なにせ、今日で何組がクリアできるか分からないからね。最初のペアは誰が良い?」
しーん……
「誰も立候補しないか……じゃ……ナーゼルとレイシェから」
「! そんなぁ……」
ナーゼルの情けない声にレイシェが
「あんた、私とペア組んで負ける気なわけぇ」
睨んできた。
「……そういう事じゃなくて……」
「じゃなくて?」
「…………頑張ります……」
「何よ。頑張るだけ? そんなの私が望んでるとでも?」
「勝ちます」
「何回目?」
「…………」
「ん?」
「一回目」
満足したらしいレイシェの満面の笑みを見、やれやれと呟いた。そう簡単なもんじゃないとの考えがよぎるが、レイシェの笑みで考えを変えた。
「君は僕が守る」
突然の言葉にレイシェは目を見開き言葉を失ったが、頬を赤らめ頷いた。
ピンクの猫が訓練所の端に丸まっている。その影は長く伸び、朱色の大地を制している。
退屈そうに欠伸をするその顔は、太陽の光に赤く染まっている。
「ぱさり」
尻尾を振りながら、訓練の様子を眺めている。猫の目には金髪の少女が少年にがなりつけている光景が写っている。
「ぱさり」
猫が見ている光景は、いつも同じ結末を迎える。
「ぱさり」
金髪の少女の帽子が落ちるのは、一体何度目だろうか。その度に喧嘩を繰り返す。仲が良いのか悪いのか。猫は自分の肉球の匂いを嗅いでいる、がなり声を聞きながら。ふぁ〜とまた、欠伸をしてから背伸びをした。
「ぱさり」
いつまでも続くような光景に飽きたらしい猫が太陽に向かって去っていく。その背後で、またがなり声が響いた。
「ナーゼルの馬鹿。役立たずずずずう――――」
夕日に染まった少年は、赤い汗を流しながら賢明に大事な人を守ろうとしていた。言うは易し、行うは難し。がんばれナーゼル。
おわり
読んで頂きましてありがとうございます。
これからも勉強しながら頑張っていきますので
宜しくお願いします。
……堅いかな?