三章閑話:ミキオ=マツカタ
ふわりと優しい花のような匂いが鼻孔をかすめる。
その匂いは彼の胸に温かさを抱かせた。
『……起きなさい!』
次いで聞こえた声に、彼は懐かしさを感じる。
ずっとずっと、遠い昔、こんな声を毎朝聞いていたと思い出す。
あの時は本当に、毎朝ご苦労なことだ、と思っていた。
ありがたみなんて微塵も感じていなかった。
しかし失って、無くして、そして初めて思い知った。
彼女は彼にとってとても大切な存在だったと。
しかし幾ら嘆こうとも、彼はもう二度と彼女には会えないのだと。
きっと目を開けてしまえば、自分は子供のようにわんわんと情けなく泣き叫んでしまうはず。
だから決してこの目は開けたくない。
そう思えど、意思に反して、残酷にゆっくりと目が開かれてゆく。
自分の身体の筈なのに、まるで映画か何かを見ているかのように、世界は彼の意思を無視して進み続けた。
『いつまで寝てるの、バカミッキー! 遅刻するわよ!?』
彼女は眉間に皺を寄せて、まるで母親のように叫んだ。
背中まである艶やかな長い黒髪と、丸い黒曜石のような綺麗な瞳。
眉はいつも通り、気が強そうに尖っていて、いつも通りギャンギャン煩い。
でもそれは、今になって思えば、格好を付けたがる彼女の愛情の裏返しなのだと思った。
『幹夫くん、姉さんの言うと通り、そろそろ起きないと本当に遅刻しちゃいますよっ?』
今度は栗毛色をした髪の、彼女に瓜二つの妹が声を掛けて来る。
顏は全く同じなのに、妹の眉はいつも困ったようにへの字を描いていた。
姉よりも臆病で、弱虫だが、心優しい双子の彼女の妹。
――やめてくれ……
彼は心の中で、悲痛な叫びをあげ、瞳を閉じようとする。
すると瞳を閉じるよりも早く、懐かしい二人の像は霞のように消えた。
次に見えたのは視界を埋め尽くさんばかりの桃色の花だった。
サクラ、といっただろうかと、彼は古い記憶を掘り起こす。
そんな花々の間には真っ直ぐ道が通っていて、その先にも懐かしい二人の姿があった。
『よっ、幹夫! おはようさん!』
少年のように見える同い年の男友達が挨拶を投げかけ、
『お早う』
隣にいた長身痩躯の男友達も、ぶっきらぼうな挨拶をしてきた。
――もう、やめてくれ……!
彼は再び、心の中で悲鳴を上げる。
それでも世界は彼の意志を無視して動き続ける。
『のぞみん! アレ読んでくれたか?』
『はい! 読みました! 流石、風太くんセレクションだって思いましたっ!』
『すまない、森川妹……例のブツは俺のセレクションだ……』
『はぁ……貴方たちまた児童書の話? 望を巻き込まないでくれる? ねぇ、ミッキーからもきちんと言ってあげてよ。私の可愛い妹を変な世界に巻き込まないでって!』
桜並木の下、彼女は艶やかな黒髪を風で揺らし、彼を瞳に映す。
未だ彼の髪は”白”では無く彼女と同じ”黒”だった。
……
……
……
――ミッキー! 目を覚まして! ミッキーッ!!
「ッ!?」
彼を呼ぶ別の声が響き、彼は目覚めた。
冷やりとした空気が彼の肌を撫でた。
先ほどまで見えていた桜並木は霧散し、代わりに岩と砂ばかりの荒れ果てた荒野がミキオ=マツカタの周囲に広がっていた。
「シャギ? 俺は一体……?」
彼の肩を抱いていた黒衣の魔導師:シャギ=アイスは安堵の息を漏らした。
「良かったわ、戻ってきてくれて。全部、アイツの幻惑のせいよ」
脇に禍々しい翼を持つ、白色の巨人が浮かんでいた。
羊の頭に禍々しい角を生やした風貌は、タロットカードなどで見る、バフォメットそのものだった。
序列一位迷宮バエルの守護者の一体:セルバンテスデーモン。
セルバンテスは幻惑を破られたために魔力放射を止め、黄金の瞳でミキオとシャギを見下ろす。
「ミキオ様っ! 姉様っ! ご無事ですかっ!?」
ミキオの横へ白衣の魔導師:オウバ=アイスが降り立ち、
「リーダー!」
忍者のような風貌の暗殺者:シャドウが音もなく現れる。
「んったく、デーモン野郎。昔の嫌なこと見せやがって……!」
いつの間にか現れた荷物係:ウィンドは忌々しそうに、セルバンテスを見上げた。
どうやら悪夢を見せられたのはミキオだけではなかったようだった。
栄光のブラッククラスパーティー:グリモワール。
今でこそ世界の頂点に君臨しているも、リーダーのミキオを含め、全てのメンバーが過去で心に深い傷を負っていた。
そんな過去を掘り起こされ、嫌がらせのように見せられては黙っていられない。
「おっし、みんないつものフォーメーションで行くよ! んでトラウマ穿ってくれたこいつを叩き潰そう! 俺たち、グリモワールが!」
「了解よ、ミッキー。叩き潰してやるわ。うふふ……」
アイス姉妹の姉のシャギは右手に持つDRアイテム、三位魔神ヴァサーゴが宿る【悪魔軍教典】に黒い魔力を宿らせ、
「姉様とミキオ様の仰る通りですっ!」
妹のオウバは左手に握った二十九位魔神アスタロトの魂が込められたDRアイテム【崩壊塔棒】に白い魔力を宿らせる。
「目標、バエル守護者:セルバンテスデーモン……殲滅!」
シャドウは兜の奥で、赤い双眸を輝かせた。
彼の持つ七十二位魔神アンドロマリウスが眠るDRアイテム【正義毒蛇】が鋭い刃を吐き出し、戦闘態勢を整える。
「へへっ、オイラ達のトラウマを抉ったこと後悔させてやるぜ!」
そしてウィンドは巨大なリュック型のDRアイテム、六十九位魔神セエレが封じられた【次元背嚢】から、魔石を加工して作った爆弾を取り出した。
その時、セルバンテスが野太い咆哮を上げた。
野太いその声は、荒れ果てた大地を震わせ、波立たせる。
地面の中からキノコのように次々と、オーク、オーガ、食人鬼が姿を現す。
グリモワールの眼前に一瞬で地獄の大群が現われ、行く手を塞ぐ。
食人鬼。
その存在を認めたミキオは憎悪を募らせる。
彼は憎悪をそっと胸に秘め、そして七十一位魔神ダンタリオンの宿るDRアイテム【幻影仮面】で顔を覆った。
モンスター軍団が怒涛のようにミキオ達、グリモワールへ押し寄せる。
「おらーッ!」
ウィンドの放った魔石爆弾が綺麗な放物線を描いて飛ぶ。
「ギガサンダーッ!」
そしてシャギがDRアイテムから空気中の塵さえも焼き尽くす、壮絶な黒い稲妻を放った。
稲妻が魔石爆弾を飲み込み、破裂する。
途端、荒野は眩い輝きに包まれた。
輝きをまともに浴びたモンスターは目を焼かれ、その場に蹲る。
そんなモンスターの前へ躍り出たのは、オウバ=アイス。
「ストームスネーク!」
オウバが軽く振った杖からら、文字通りの大蛇のような嵐が巻き起こった。
大蛇はあらゆるモンスターを飲みこみ、風の中で翻弄する。
「ギガフレイム!」
そしてシャギが鋭く腕を振り下ろせば、彼女の腕から紅蓮の炎が湧いて出た。
風を受け、燃焼力を増した炎は一瞬でモンスター共を燃やし尽くす。
息の合った姉妹だからできる、魔法の重ね技。
それぞれの属性を理解し、重ね合わせることで威力を増大させる――これこそがアイス姉妹が最も得意とする戦い方であった。
一瞬でモンスターの壁が灰燼に帰し、残ったセルバンテスはたじろぐ。
「シャドウッ!」
「応ッ!」
ミキオとシャドウは地を蹴って、飛んだ。
しかし二人の行く手を生き残った食人鬼の軍団が塞ぐ。
先行するミキオが姿勢を僅かに屈める。
彼の背中を踏み台にして、後続のシャドウが一気に飛んだ。
「殲滅ッ!」
蛇の剣が横なぎの軌跡を描き、目前の食人鬼の全てが一瞬で首を跳ねられた。
魔石を動力とするホムンクルスであるシャドウ。
故に彼が稼働以外で使える魔力は極めて僅か。
だがシャトー家に製造された時から刷り込まれた戦闘ノウハウと、彼自身がこれまでの戦いで培った戦闘経験。
それをDRアイテムが潤滑油となって、密接に結びつける。
太刀を握れば相手を選ばず、暗殺のように一刀の下、駆逐、破壊、殲滅。
これがシャドウの最良の戦闘方法であった。
「行け、リーダー!」
「はいよー!」
ミキオはセルバンテスデーモンに肉薄し、
――いくよ、ダンタリオン!
『心得た、ミキオよ』
【幻影仮面】に宿るダンタリオンの声を合図に、彼は分裂を始めた。
一人だったミキオは二人に、四人に、八人にと、最大魔力で形成した幻影は、本体と変わらない質量を持って、セルバンテスへ襲い掛かる。
フック、アッパー、ストレート、複数の幹夫は様々な拳を繰り出し、セルバンテスを袋叩きにする。
更に、トーキック、踵落とし、回し蹴りを叩きつけた。
一方的で圧倒的な攻撃。
もはやこれは戦いではなかった。
一方的に相手をただ叩きのめす、蹂躙でしかなかった。
白い巨体があっさりと宙を舞い、駒のようにグルグルと回転する。
そして地面へ思い切り叩きつけられた。
セルバンテスの全身にひびが入り、ガラスのように砕け散る。
一位迷宮バエルの守護者の一体はあっさりと、ミキオ達【グリモワール】に蹂躙され、無数の魔石に姿を変えるのだった。
「っしゃ! 守護者撃退っと! さぁさぁ、この調子でどんどん行くよぉ!」
ミキオ達は荒野のような一位迷宮バエルを突き進み、天辺を目指す。
――あと少しだ。もう少しで、俺たちの悲願”世界破滅計画”実行に移せる。
この時をどれほど彼は待ち望んだことか。
このためにどれだけ長い時間を過ごしてきたことか。
唯一邪魔者だった、黒皇こと、ケン=スガワラは今、五十六位迷宮グレモリーの攻略中。
もはや、今のミキオを阻むものは何もない。
――見ててくれ、みんな。俺はみんなの分も、今の仲間を、家族を幸せにする。必ず!
ミキオがかつての仲間たちに会うことは、もう二度と叶わない。
だからこそ彼は今の仲間を愛し、かつての仲間たちへ想いを馳せながら、自身の最終目標のために、迷宮を突き進んでゆくのだった。




