アスモデウスとの約束
『さぁて兄弟、いよいよ来た。覚悟はできてるな?』
アスモデウスの声にケンは、
――あ、ああ……
『んだよ、その気のない返事は! 今日を置いて他はねぇだろ?』
――まぁ、確かに……
八位迷宮バルバトスでのグリモワールとの決戦から、早数日が経過していた。
幸か不幸か、ラフィは今後のことで、リオンと共に一泊二日で出かけている。
タイミングとしては絶好。
加えてムートンは隣の部屋に終日引き籠っていると聞く。
――アスモにはずっと世話になってばっかだし、願いは叶えてやりたい。
以前、アスモデウスと交わした約束。
それは自分の身体を魔神アスモデウスへ一時預け、ムートンと事に及ぶこと。
――ムートンと俺が……
第一に浮かぶのはラフィの泣き顔と、そんなことは良くないという否定。
しかし根っこの部分では何故か興味惹かれる自分がいることを思い知らされる。
『ほらほら、おめぇもムートンに興味あんだろ?』
――う、煩い!
『まぁ、前に言ったと思うけど安心しな。俺は色欲の魔王って肩書もあんだ。誰も傷つけやしねぇし、上手くやっからよ! なっ?』
文字通りの悪魔の囁き。
迷っていてもアスモデウスにも悪いし、自分自身のモヤモヤも気になる。
ケンは男の覚悟を決めた。
――分かった。でもアスモ、約束してくれ。絶対にムートンやラフィを傷つけないってな!
『おうよ、任せな! なんなら二人とも昇天させてやらぁ』
――バカ! ラフィには手を出すな!
『ひひっ、冗談だってよ。それはお前さんの役目だ。んじゃ、早速行くぜ!』
ケンの意識が急激に遠のき始めた。
まるで深い落とし穴へ落ちるような感覚に身を任せる。
暫くすると、意識が戻ったが、自分の体が自分のものでは無いように感じられた。
腕を動かそうにも、思い通りにならない。
「おっし、準備完了!」
外側から自分の声が聞こえる違和感。
「もし気分が悪いようだったらスキルライブラリへ引っ込んでてくれ。そうすりゃ何も見聞きしなくて済むぜ?」
――いざという時はそうさせて貰う。
ケンの体を借りたアスモデウスは、軽快な足取りで部屋を出てゆくのだった。
廊下に出てすぐ隣にあるムートンの部屋の扉を軽くノックする。
少し間があってから、扉が開いた。
「どなたですかぁ……」
髪はボサボサで、寝間着姿の、明らかに寝起きな様子のムートンが気の無い返事をしながら扉の向こうから現れた。
「よっ!」
「し、師匠!? 何か御用ですか!?」
しかし目の前にいるのがケンと分かるや否や、眠気眼をぱっちりと開いて、
背筋をシャンと伸ばして答える。
「ちっと出かけようと思ってな。付き合え」
「お出かけですか? どこへ?」
「へへっ。それは行ってからのお楽しみだ。さっさと支度して来いよ」
「分かりました! では下で少しお待ちください!」
「おう、待ってるぜ」
そして下で待つこと十分少々。
「お待たせしましたー!」
元気な挨拶と共にムートンが姿を見せる。
ボサボサだった髪は綺麗に整えられ、まるでドレスのような青いワンピースに着替えている。
――似合うな。
「おっ? 良いじゃん。似合うじゃん! 気合入れて来たか?」
「はい! だって師匠のお誘いですもの! 変な恰好では筈をかかせてしまいますので!」
「へへっ、そりゃいい心がけだ。そんじゃ行くぜ」
「お供します!」
早速ケンの体を借りたアスモデウスと、ムートンは夜の街へ繰り出してゆく。
そうして雑踏の中を暫く二人で歩き、やがてオレンジ色の光を放つランプが掲げられた店の前で足を止める。
二人は小洒落たバーの前に立っていた。
――ここって……?
「美女と美酒。これほど旨めぇもんはこの世にねぇぜ。今はここで我慢してやっよ」
――アスモ、お前……
「まっ、この先からはムートン次第だけどな。もしもそういうことになったら諦めてくれよな」
いきなり宿屋なんかに連れ込むのかと予想していたケンは、一旦ホッと胸を撫でおろす。
「師匠? 何か仰いましたか?」
「いや、なんでもねぇよ。子弟水入らずで、この間の祝杯と行こうぜ」
「はい! 喜んで!」
ケンとムートンは意気揚々と、
カウンターのみの落ち着いた酒場へ入ってゆく。
そして数時間が経ち……
「おうえっぷ……」
「し、師匠? 大丈夫ですか?」
「あ、おう……」
ムートンは心配しながらも、琥珀色をした蒸留酒の現役で唇を湿らせる。
対するケンの体を借りているアスモデウスはぐったりとカウンターに項垂れていた。
決してアスモデウスが酒に弱い訳でも、ましてやケンの体にアルコール耐性が無い訳でもない。
「あの、師匠、ワイン飲んでも良いですか?」
――こいつ、スゲェ酒豪だ。
ほんのり顔が赤く、若干テンションが高い以外は、ほとんどいつも通りのムートンだった、
しかしその前に店主もにっこり笑顔を浮かべるほど、ボトルで酒が消費されているのが現状だった。
「お、おう……好きにしろ、弟子」
「ありがとうございます。マスター、リストを見せて下さい」
ムートンは本当に楽しそうにワインリストを眺めている。
そんな楽し気なムートンの横顔に、ケンは温かい気持ちを抱く。
「わりぃ、兄弟、もう限界だ……体、返す」
――このタイミングでか!?」
「あとはよろしく!」
――ッ!?
急激に体の感覚が戻り、店内の仄かに温かい空気を肌に感じる。
だがそれは一瞬。
突然視界がぐるぐると回り、そして視界が暗転した。
「師匠!? 大丈夫ですか、師匠ぉーッ!?」
遠くでそんなムートンの声が聞こえたような気がした。
……
……
……
「うっ……」
瞼の裏が赤く、耳には清々しい小鳥の囀りが響いた。
ゆっくりを瞼を開けると、
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
何故か穏やかな表情のムートンが迎える。
この状況はなんだと、記憶を掘り返すと、バーで突然アスモデウスに体を返されたところまでは覚えているが、その先が曖昧だった。
しかし近くにムートンの顔があって、この状況。
――まさか、これは所謂”朝チュン”ってやつか!?
「いっつ!」
慌てて起き上がろうとしたケンだったが、頭を激痛が遅い、再び倒れ込む、
そんな状況でケンは、初めて自分がムートンの膝に頭を預けていると知った。
「楽になるまで無理をなさらないでください」
「ここは……?」
「街のどっかにあるベンチの上ですよ。昨日、師匠大変だったんですから」
「へ、へぇ……」
全く記憶が無く、下手なことは言えないと思ったケンは曖昧な返事を返す。
「だっていきなり倒れちゃうんですもの。まともに歩いてはくれませんでしたし、私もそこそこ酔っぱらっていましたら帰るに帰れなくて……」
「そうか、悪い……」
しかしムートンは笑顔を浮かべた。
「いえ、そんな。これぐらいして当然です。だって、私は師匠に感謝してるのですから。本当なら私はバルバトスの枝洞で死んでいた筈です。でもそんな私を師匠が助けてくださって、ラフィやリオンちゃんに出会わせてくれて……今、私は毎日が凄く楽しいです。全部師匠のおかげです。こんなに素敵な時間を与えてくださって、ありがとうございます」
ムートンの艶やかな髪が朝のそよ風に吹かれて、緩やかに揺らめく。
まるで女神に抱かれているような安心感と、充足感がケンを満たす。
――良い顔するな。ホント、アスモの見立てに間違いはないな、全くよ……
「帰るか」
「ですね。じゃないとラフィに私も怒られてしまいます」
「そうだな……手貸してくれ、弟子!」
「はい! 喜んで!」




