自由を手にした、その後で
闇に沈む深い森の中。
木々の間から、柔らかい薪の炎が見えた。
ケンはその赤く揺らめく炎の明かりを頼りに、広葉樹の幹へ背中を預けながら、素早く手を動かし続ける。
スキルライブラリから自力で探し出した【手芸】のスキル。
縫物など学生時代の家庭科の授業でやって以来。
しかしスキルはケンの指先を鮮やかに動かしている。
綿によく似た植物を刈ってスキルで紡績した淡い色合いの生地は、袖口となり、裾となってゆく。
生地の調達も、それを縫い合わせるのも、スキルライブラリを使えば難しいことではない。
しかしケンは出来上がったソレを見て深いため息をついた。
ただ生地を縫い合わせただけの粗末なワンピース。
飾り気も無ければ、可愛さなんて微塵も無い、地味で酷い出来のものだった。
――やっぱ俺、こういうのセンスないな……
こんなことになるんじゃ、ちゃんとファッション誌とか読んどいた方が良かったかな。
苦笑いを浮かべるも、後の祭り。
そもそも近接武器が剣で、迷宮やゴブリン・オーク等のモンスターが存在するファンタジー風の世界にファッション誌があるかどうかさえ怪しいところ。
今更センスとか、情報が乏しいからとか言ってはいられない。
だからケンはせめてもの飾り気と思い残った生地で外套を作ることにした。
――やべ、生地が足りない
しかしスキルの影響で自動的に動き出した手は止まらずどんどん外套を縫ってゆく。
「ケンさん、たくさん獲れましたぁ!」
弾むような声が聞こえ森の奥から籠を持ったラフィが戻ってきた。
彼女の抱える籠の中では、捕まえたばかりの川魚が今にも飛び出さん雰囲気で飛び跳ねている。
「お、お帰り」
ケンはラフィを直視できず視線を逸らす。
脱出の時は必死過ぎて気づかなかったが、ラフィが着ていたた粗末な服は、既にボロボロだった。
おまけに魚獲りへ行ったために水で透け、下着を着けていない胸元の柔肌が見えている。
「どうしたんですか? 具合悪いんですか?」
しかし当のラフィは気づいてないらしく、尻尾を横に振りながら背中越しに声を掛けてくる。
「あ、いや、その……お前の服……」
「服ですか?」
「その、透けて……」
「あっ……す、すみません!」
ようやくラフィは自分のあられもない姿に気づいたようで、魚の入った籠を落とすと、羞恥で顔を真っ赤に染める。
「とりあえず着替えろ。風邪ひく、から」
そう云ってケンは繕い終わった中途半端な長さの外套と、ワンピースを投げ渡した。
「えっ? これ、わたしの? 良いんですか!?」
「どう見たってラフィが着るやつだろうが。早く着替えてくれ!」
「は、はい!」
ゴソゴソと背中に衣擦れの音が響く。
目に見えない分、想像力が働いて、直視するよりも恥ずかしい気分で一杯だった。
「お、終わりました! もう大丈夫です!」
ラフィから合図が出て、ゆっくりとケンは振り返る。
寸法はぴったりで、今まで着ていたものよりも遥かに質感は良い。
しかしあっさり過ぎるデザインと、地味な色合いはやっぱり残念な出来と言わざるを得なかった。
「ごめんな、こんなものしか用意できなくて……」
「そんなことないですよ! サイズはぴったりですし、すっごく動きやすいです! ありがとうございます! えへへ」
当のラフィは満足しているのか、尻尾を盛大に振りながら、ニコニコと笑顔を浮かべてくれている。
喜んでくれているのは嬉しい。
だからこそケンは、ラフィにもっと喜んで貰いたいと思う。
――ラフィにはもっといい格好をさせてあげたい。
いつか必ず……
「ご飯の支度しますね!」
ラフィは真新しい布のワンピースと外套を翻して、魚の入った籠へと向かう。
「手伝うよ」
ケンもラフィに倣って魚の入った籠へと向かう。
「うっ……!?」
途端、籠の中から臭った魚の生臭さに強い吐き気を覚えた。
全身に鳥肌が浮かんで、額には一瞬で冷や汗が浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、問題……ぐっ……」
魚を見ているだけで、どんどん具合が悪くなって、血の気が引いてゆく感覚。
――なんだこれ……俺、魚苦手だったか?
「きっと疲れてるんですよ。ここはわたしに任せてケンさんは休んでてください」
「悪い……」
ケンはラフィの言葉に甘えて大人しく引き下がるのだった。
少し離れたところで再び木の幹に背中を預けたケンは、石を砕いて作った簡易包丁を握り締め、ご機嫌な様子で、魚か捌くラフィの背中をみつめた。
ここには屋根もないし、藁の布団もない。
しかしケンの心の内は、この世界に来てから初めて、大きな安らぎ包まれていた。
――こんなに穏やかな気持ちになるの、いつぶりだろう?
突然、この世界に連れてこられ、道具にように扱われた日々。
ラフィのところへ帰る、その気持ちを心の支えにして、ケンは今日まで生き続けてきた。
命が消耗品のように使い捨てられ、人としての尊厳を呪印で奪われていたこれまでの日々。
しかし、彼を縛る呪印は既になく、彼を支配していたアエ―シェマンはもう存在しない。
人としての尊厳を取り戻し、自由を手にした解放感。
もうケンとラフィを縛るものは何もない。
「できました! どうぞ!」
ラフィはニコニコと笑顔を浮かべながら、焼きたての川魚を差し出してくれた。
「ありがとう。いただくよ」
少し匂いが気になるが、腹の虫は食事を要求していたので、構わず一口頬張る。
「……かはっ、げほっ、ごほっ!」
「ケンさん!?」
突然ケンは咽こみ、ラフィは心配そうに背中をさすった。
口の中に感じる魚の匂いは至極不愉快で、吐き気を催す。
――なんなんだよ、さっきから!
『あーわりい、言い忘れてた。俺様、魚嫌いだから!』
突然アスモデウスの声が頭の中へ響き渡る。
『俺様と合体した時点で、俺様はお前さんで、お前さんは俺なんだ。だから嫌いな食べ物のも一緒。つーことだから!』
――そういうことは早く云え!
頭の中で強くそう念じるが、ケンの中のアスモデウスは「ひひっ」っと笑うだけだった。
「ごめんなさい。もうちょっとちゃんとしたものが作れれば……」
ラフィは尻尾を下げ、申し訳なさそうに頭を垂れる。
「あっ、いや、そういう訳じゃ……」
なんとかフォローしようとするが、上手い言葉浮かばない。
『なら、俺様に任せろ! ひひっ!』
アスモデウスの声が響いたかと思うと、意識が後退するような感覚を得た。
まるで体と意識が切り離されたかのように自由にならない。
ケンの手は彼の意志とは関係なく動き、そしてしょげているラフィの頬へ手を添えていた。
――なんだ急に!?
『しょげてる可愛い子ちゃんにゃ、優しくすれば良いってことよ。このアスモデウス様に任せな! なに、ちゃんと感覚は共有してやからよ。安心して俺様に身体を貸せ。ひひっ!』
アスモデウスの声が聞こえた。
「ケ、ケンさん? どうしたんですか、急に……?」
ラフィは顔をほのかに朱色に染めて、彼を見上げながら目を白黒させている。
「食事よりもさ、ラフィ。俺、この間の続きがしたいんだけど」
「えっ? この間って?」
「キス、したじゃねぇか。だったらその続きってのはもうアレしかないだろ?」
ケンの意志とは関係ない言葉が出て、ラフィの背中へ手を回す。
視界が大きく動いて、ケンの身体は力強く、しかしそっと、ラフィを下生へ寝かせて覆いかぶさる。
「あ、あのぉ、えっとぉ……」
「良いだろ、ラフィ?」
囁くようなケンの声に、ラフィは肩を震わせながらも、コクンと小さく頷いた。
「は、はい……ケンさん、さえ、良ければ、わたし、は……」
ラフィは目をきゅっと瞑って、肩を震わせながらも胸の前で組んでいた腕をそっと解く。
真新しい布のワンピースの内側にある身長の割に存在感のある胸につい目が行ってしまう。
「良い子だ。じゃあ、遠慮なく」
意志とは関係なく、ケンの手がラフィの存在のある胸へと伸びる。
――止めろッ!
『おわっ!?』
強くそう念じると、慌てたアスモデウスの声が響いて、身体の自由が戻った。
急いで身体を引いて、ラフィから距離を置き、背中を向ける。
「悪い! 急になんだ、その……」
「……」
ラフィの視線を感じる背中が痛い。
「ちょっと、なんだ、たぶん俺疲れてるんだ。だから、その……先に休むわ……」
羞恥と罪悪感に耐えられなかったケンは、横になろうとする。
すると、ケンの肩をラフィが後ろ方そっと抱いた。
視界が無理やり落ちて、ラフィの膝の上へケンの頭が落ちる。
「硬い地面の上なんかじゃ疲れ取れませんよ?」
ラフィは未だ少し赤い顔で、それでも優しく囁いた。
「ラ、ラフィ、これは……?」
「使ってください。わたしの膝でも良かったら、ですけど」
「良いのか? だって今、俺、ラフィのこと……」
そう云うと一瞬でラフィの顔が真っ赤に染まる。
でもそこに浮かんだのは柔らかい笑顔だった。
「気にしてませんよ。ちょっとびっくりしちゃいましたけど、その……嫌じゃなかった、ですし……。あの……もし、わたし、なんかで良かったらいつでも大丈夫ですよ。ケンさんがわたしの命を救ってくれた日から、わたしは貴方のものです。だから、ケンさんが欲しがってくれるなら、わたし……」
ケンは指をラフィの唇へ当てて、言葉を塞ぐ。
「バカ。あんまし自分を安売りすんな。って、まぁ、疲れのせいであんなことした俺が偉そうなこと云えないけどな」
「変なケンさん。急に襲ってきたり、優しくしてきたり」
「すまない……」
「でも」
ラフィの細い指先がケンの髪を撫で始めた。
「どんなケンさんだってわたしを必要としてくれてるの分かりました。とっても嬉しいです」
「ラフィ……」
「ゆっくり休んでください。今日も、これまでも本当にありがとうございました。もし、ワガママを聞いて貰えるのだったら、これからも一緒に居てください。お願いします」
「ああ、そうだな……」
ラフィの膝の上が気持ちよく、ケンの意識が微睡の中へ落ちて行く。
ケンは改めて、ラフィの存在にありがたみを感じながら、深い眠りに落ちて行くのだった。
●●●
意識が覚醒すると、ケンは無数の蔵書が書架に並ぶ、見知らぬところにいた。
書架に収まりきらない蔵書や巻物が乱雑に積み上がり、絶妙なバランスで塔を形作っている。
始めてくる場所。
しかし何故か既視感のあるソコ。
「ようこそ、スキルライブラリへ!」
アスモデウスの声が聞こえ、本の塔の間から、赤紫色をした蛇が姿を見せる。
感覚でその蛇がアスモデウスと理解したケンは、
「てめぇ、さっきは良くもラフィを!」
ケンは本の塔が崩れるのも気にせず、赤紫の蛇へと飛び掛かる。
しかし蛇は素早く身体をくねらせて、本の間をスイスイすり抜けてゆくのだった。
「うわっ!?」
身体が一際高く、大きく積み上がった本の塔にぶつかった。
バサバサと本の雪崩に巻き込まれ、ケンは身動きを封じられる。
そんな彼の目の前へ、赤紫の蛇が現れて、あざ笑うかのように舌をチロチロさせていた。
「嬢ちゃんも全然ヤル気だったぜ? 据え膳食わぬはなんとやら、だろ?」
「据えさせたのはお前だろうが!」
ケンは本を払いのけながら蛇のアスモデウスへ叫ぶ。
「まぁまぁ怒るなって。結局俺様はお前さんに払い退けられて何もできなかったんだから良いじゃねぇかよ」
「黙れ! ラフィを傷つけようとする奴は例え誰であろうと許さなねぇ! それがアスモデウス、お前だったとしてもな!」
本の中から這い出たケンは勢い任せに赤紫の蛇へ手を伸ばす。
蛇はあっさりと捕まった。
「そうか。お前さんがラフィを大事にしてぇ気持はよーく分かった。なにせ、俺は別のところじゃ”好色の魔神”なんて言われててよ。なのにめっちゃ長い時間、薄暗い迷宮に閉じ込められててご無沙汰だったで、ついな。悪かったよ」
本当は蛇を書架へ投げつけようと考えていたケンだったが、素直に謝られ腕から力を抜く。
「まっ、いつか決める時が来たらキチンと決めてやりな。満足させられるか不安なら、俺様が手伝ってやっても良いぜ、ヒヒヒッ!」
「チッ!」
頭に血が上り、ケンはやはりアスモデウスの蛇を投げた。
しかし蛇は空中でひらりと身をよじると、勢いを減殺して、ひらりと本の上へ舞い降りる。
「まさかこんなくだらない話をするためだけに呼んだんじゃないよな?」
ケンは蛇を睨みながら、鋭く訊く。
「おう! ちょっとお前さんにこれからのことを聞きたくてな」
蛇はそう云うと、蜷局を巻いて、体勢を落ち着けた。
「お前さんは俺様アスモデウスが宿る「星回りの指輪」と、魔神の力を手に入れた。その上で、お前さんがこれからどうしたいか聞きたいんだ」
「これからのことだと?」
「そうだ。お前さんはもう自由の身で、すげぇ力を手に入れた。その気になりゃスキルライブラリからスキルをみつけて元の世界へ帰ることもできる。なんなら力を隠してどこかでひっそりと暮らすことだってできるだろうよ。そんな中でどんな選択をお前さんがするのか、聞きたくてな」
アスモデウスの例えを聞き、ケンはにやりと笑みを浮かべる。
彼の胸中にあった答えは、どの例えも”NO”の印を押す。
元の世界へ帰る……その気はもうさらさらない。
元の世界へ帰るということは、ラフィをこの最低な世界へ置き去りにすることになる。
例え連れ帰ったところで、耳や尻尾の生えた人間が静かに暮らせる筈がない。
なによりもケンはラフィと離れるのが嫌だった。
だったらこの世界でラフィと二人、大人しく暮らして行くか……それもNOだった。
力はあるが、今のケンとラフィは文無しで、貧乏だ。
いつまでもこんな状態ではいたくない。
ラフィにはいつも柔らかいパンを食べ、温かいスープを飲み、
年相応の綺麗で可愛い格好をして、何不自由ない生活を送らせたい。
そう強く願っている。
だからこそ、答えはケンの中で決まっていた。
「俺は……アスモデウス、お前の力を使ってこの世界で成り上がる! ラフィや俺を見下し続けたこのクソみたいな世界を見返す! これが俺の答えだ!」
「合格ッ!」
ケンが強く宣言をした途端、アスモデウスの蛇が声を張り上げた。
「合格? なんのだ?」
「何って、俺の力をこのまま使わせるかどうかだよ。ネタバレすっと、もしお前さんが元の世界への帰還や、大人しく暮らすことを選んでたら、そのまま呪い殺して新しい憑代を探そうと思ってたからよ、ヒヒヒッ……」
いつもの通りのアスモデウスの声。
しかしケンの背筋は凍りつき、喉が一瞬で乾く。
――今のは脅しじゃない。本気だ。
「なにせ長い間、つまんねぇ迷宮に封じられてたから退屈だったんだ。だから頼むぜ、面白いもんを見せてくれよ」
「あ、ああ……」
――どこまでが嘘で、どこまでが本気なのかが分からない。
これが魔神という奴かと、ケンはアスモデウスの認識を改める。
「それにだ、一番気に入ったのは嬢ちゃんのためってとこだ! 分かるぜ、その気持ち!」
「好色の魔神のお前がか?」
「おうよ。俺様だってかつて惚れに惚れ込んだ女がいたんだ。まぁ、でも、大事にし過ぎて手を出す前に逃しちまったんだけどな……だからお前さんは、決めるときはキチンと決めて、嬢ちゃんを幸せにしてやれ! そのためだったら俺様はどんな力だって貸すぜ!」
今の言葉だけは何故かアスモデウスの本気を感じた。
不安は確かにある。
だけどラフィを幸せにしたいという想いは、共通認識。
それだけははっきりとわかった。
「ありがとう、アスモデウス。これからもよろしく頼む」
「へへっ、そう硬くなるなって! もう俺たちは契りを結んだ兄弟みたいなもんだろ?」
「そうだな」
「おっし、決めた! 俺は今度からお前さんのことを”兄弟”って呼ぶぜ。兄弟は俺のことを好きに呼んでくれ! アスモでも構わねぇぞ!」
まるで任侠映画のような展開に口元が緩む。
そう云えば昔、義兄弟の絆に憧れを抱いた時期があったと思い出す。
「わかった。改めてよろしく頼む、アスモ!」
「おうよ、兄弟!」
アスモデウスの頼もしい返答にケンは胸を躍らせる。
ここに人と魔神の絆が相成った。
――俺は必ずラフィを幸せにするために成り上がる。絶対に!