(七)鎧潟の戦い Ⅰ ≪第三十話≫ No.32-Ⅱ
(七)鎧潟の戦い Ⅰ
≪第三十話≫ No.32-Ⅱ
越後の国・三条の名の由来は、この時より150年前に京から移り住んだ斎藤家の初代・義尚が都の地名を取って三条と名付けたものであり、三条の街・全体もそこから、越後の小京都とさえ云われて来た。
この時代、越後の国都は越後高田(府中)で約7万人の人口があり、北陸第一の都市でもあったが、それに続く街は、長岡の5万、3万5千の三条が第3の都市で有った。当時、都の京でさえ10万人程であったので、越後の街々は可なり大きな街並でもあったのだ。
その三条のほぼ中央に河濠に囲まれた三条城があった。10町(約1km)四方の城構えに、常時1千人の城兵を有し、籠城の際は2千が立て籠もれる規模で有った。
城内には、京風の書院創りの庭園もあり、城の北の丸の一室には、京都・東山書院の流れを催す茶院が有って、今、その一室に斎藤家3代の当主親子と筆頭家老・石田吉衛門芳時が集まっていた。
茶筅を廻しながら、義政が渋い声で石田芳時に命じた。「吉衛門、稲島の近況を伝えよ。」
「はっ、畏まってござる。・・・・吉田ヶ原での合戦に負けて、暫く籠っていた稲島俊高で有りましたが、先月から動き出し、また、御承知の様に、笹川・柿島の両家が俊高の臣下となりましたので、併せて、27,000石・2,300の兵力となり、同盟する草日部氏を合わせれば、ほぼ3,000に及ぶ勢力となっておりまする。更に、今は日夜、兵の教練と騎馬隊の増加を進めており申す。」
「騎馬隊の規模はどのくらいか?」と義政の孫で、斎藤軍の軍を掌握している義興がズッかと、話に入った。「はい、報せでは従来の180騎に、200頭の駒を陸奥・相馬より運ばせて、平澤辺りで放牧致しておりまする。」
「200とな!!・・・ならば併せて400騎近い騎馬軍団を組織致す事になるのかの?」とやや呆れ顔で当主の義兼が吐息を吐いた。
「父上、俄か仕立ての騎馬隊など幾ら集めても我らの【黒騎隊】には、手も足も出ますまいよ。御安心下されい。はっはっはっは!!」
「義興、楽観視してはおられぬぞ。」と義政の眼力に、義興は少し身を竦めた。「吉衛門、続けよ。」「はっ。喇叭(忍びの者)の報せでは、何処よりか、騎馬の調教師を雇い、馬場で訓練が始まってござる。」
「一体何者であるのか?・・・芳時、素状を調べさせよ!」と義兼が渋い顔付で命じた。義興が「大殿、何れにしても、直ぐには連戦練磨の黒江軍団には、追い付けますまい。早くても丸2年は懸ろうと云うもの。その間に、寄せ集めの稲島軍など、一挙に撃破致して御覧に入れる!!」と息巻いた。
「若いがあの俊高と云う男、甘う見てはならぬぞ、義興。この数年で、西蒲原一帯を統べらした者ぞ。秋葉との連結で、外周りから、徐々に攻めていけ。義兼、良いな。決して焦ってはならぬ。」「はい、心得ておりまする。父上。」と義政の言葉に、頭を下げて義兼が平伏した。
義政が「吉衛門、策を述べよ。」と命ずる。「はっ。先ずは占領した白根城の強化と、取戻した旧領地からの年貢米の徴収、更に兵力の徴役を行い、領内の基盤を固めまする。その後、稲島の弱き所から、徐々に崩して参る所存。」
「稲島の弱き所とは、何処じゃ!?」と義興が少し憮然として口を尖らせた。「先ずは出来たばかりの国構えにて、俊高・常満・信政の3人は絆が強いでしょうが、その他の者たちは未だ未だ纏っておりませぬ。その綻びを少しずつ、崩して参りまする。」
「まどろっこしいの! 稲島が纏らない内に、一挙に叩けば良いのだ。」 「確かに、義興が申す事が、一番かも知れぬ。・・・だが、白根の二の舞は踏みたくは無いものじゃて・・・」と呟く様に義政は吐いた。
「今は、もう少し時を見て、秋葉とも合せて懐柔策も含め、決戦に備えよ。」と皆に告げた。最後に義政が、ギョロッと眼を見開いて、膨らんだ頬を歪めて石田吉衛門を睨んだ。「吉衛門、新津のあの女を上手く仕え。出来るだけ、稲島を揺さぶって内部を乱させよ。良いな!!」「はっ。畏まってござる。」