≪第二九話≫ No.31‐Ⅱ
≪第二九話≫ No.31‐Ⅱ
4人は、辺りを警戒しながら、狭い階段を下の通路に向かって降りて行った。一人がやっと通れる狭い通路を3間半(6m)程行くと、鉄張りの丈夫な扉が有り、その錠前の部分に3寸四方で漆塗りの木枠があった。
そこに仕掛けが施されていて、これを解かねば扉が開けぬ様に成っていた。先頭の橋本宮司が、袂から紙切れを出して灯りに照らして見せた。「ここの仕掛けも、『地の巻物』の暗号を解読して、解けたのだ。」と源芯が俊高に説明した。
「元の漢文は『玉水下宝殿 四方木目 日木合右三 星極下二 酉取一左一 三並上三』とあった。これは、宝殿下に玉水 木目の四方形 日木合とは東、星極とは、極星即ち北極星で北を指す。酉引く一は、西の事、三並とは、ミナミ 即ち、南となり、これは、この錠前の仕掛けを解く暗号である。
即ち、東に右三つ、北に下二つ、西に左一つ、最期に南に上三つの木の板棒をうごかすと、・・・」橋本宮司がその通り、3本の板棒を動かすとガッチャンと音がして、錠が開いた。
重い扉を開けると中は広さ1間四方の土間に成っていて、その中央に白亜の大理石の棺があった。3人の男はその白い石の蓋を開けた。
中に木箱が有り、宮司が丁重に朱の紐を解くと、中から透き通った大きな水晶玉が出て来た。「これが、真清水の玉水でありまする。」と橋本宮司は、少し震えながら3人に見せた。
源芯が受取り、「この宝玉に、残りの2つの秘宝の在り処が示されているという。」と云って俊高にも手渡した。
俊高は稲島家が6代にも亘って、護り続けて来た秘宝を目の辺りにして、これがどんな力を持っているのか、驚嘆と共に不思議で有った。
宮司の持つ灯蝋の明りで宝玉を透かして見たが、余り良く判らない。その時、千春が「壁に何か映っておりまする。」と指をさした。3人が正面の土壁を見ると、確かに僅かだが金色に霞んで文字の様な、模様の様な何かが映し出されていた。「ここでは、良く判らぬので、屋敷で確かめようぞ!!」と源芯が奨めた。
外に出た時には、夜は、とっぷり更けて子の刻(午前2時)を過ぎようとしていた。俊高は宝玉の秘密は気になったが、早急にやらねばならる事が多く有り、後は父・俊景源芯と橋本宮司に託して、千春と2人の従者を伴い、城に帰って行った。
強兵訓練が始まった。高喜・良高と玄斉・燕の法師が組合って、錬成予備隊だけでなく、全軍の教練とした。足軽を中心に200人づつ、6組に分けて2日毎に朝寅の刻(午前5時)から始まり、未の刻(午後5時)まで、丸12時間みっちり武道鍛錬がされた。
戦のあらゆる戦況を想定して、訓練が施された。ここでの強化は、組織としての強化よりも、兵一人一人の武術の向上であった。矢尽き、刀折れても、身一つで戦い抜く!! 鉄壁の越後・稲島武士を創る為である。
故に、教練の中には、剣術は勿論、柔術・空手・棒術も可なり採り入れられていた。白兵戦になれば、最期は力と力、技と技、気力と根性とのぶつかり合いとなる。
また、当時の戦は、重い甲冑を着けて、歩兵は日に何里も走り回った。時には、10里(40km)・15里(60km)と走るのである。侍大将の騎馬武者団に遅れては戦いにならない。
その為、遠距離を走り貫く体力を身につけなければならなかった。俊高は、教練の中に遠駈け・早駈けも入れさせた。
中之口川から、長者原山の頂上まで、凡そ4里(16km)を走らせた。慣れてくれば、往復・2往復であり、御山を越えて角田浜までも行かせたのだ。200人の集団が野原を駈ける様を周囲の里人が見詰めていた。
そんな中6月の10日、草日部領の越前浜の船着場に4隻の北前船が着いた。陸奥の相馬から津軽沖を周って凡そ12日程でやって来た。俊高が待っていた100頭の早掛け馬である。
皆1歳馬でまだ鞍を懸けた事もない若駒達であった。俊高は事前に、平沢城と鷲の木砦の間の丘陵に、約1里半(6km)の馬場を造り、連れて来た相馬馬を放牧させたが、頃を観ていよいよ、調教が始まった。