≪第十四話≫ No.16-Ⅱ
≪第十四話≫ No.16-Ⅱ
斎藤の黒い騎馬隊を核にした別動隊が去った事を確認したが、暫くは防衛の為の陣形を解かずにいた。俊高は、負傷兵などの生き残りの友軍を岩室の高野館を開放し、手厚く女達に世話をさせた。その中には、妹の三和を始め、高喜の妻となった芳葉や稲島・笹川・柿島の家々から40人が集められて、介護をさせた。凡そ200人もの死者が出て、300人に及ぶ重傷者が出た。味方にとり、大打撃であった。
3日後、俊高は長者原城に帰った。留守をしていた筆頭家老の佐野高兼や情愛に一通りの経緯を伝えた後、3日間、祈念の間に籠り、ひたすら読経と座禅をして食を摂らなかった。情愛が心配して何度か、食膳を運んだが一切、手を付けないでいた。
その3日目の夜、西の丸・当主館に笹川常満と柿島信政がやって来た。二人とも何時になく真剣な顔付であった。
祈念の間に通された二人は、壇に6代・稲島家の位牌が並べてある祭壇に座禅したままの俊高の背に、黙って深く礼をした。そして、暫くの間、二人とも瞑想した。どの位時間が経ったのか、静かに俊高が振り向いた。頬が少しやつれて目が空を視ている様な俊高を見て、二人とも少し、驚いたが部屋に入る前に、情愛から事情を聞いていたので、慌てず先ず常満が語り出した。
「俊高殿、本日我ら二人、貴殿に伝えたき事あって、参った。わしらの思いを受け止めてくれ。わしは、話が上手うない。信政が話すので聞いてくれ。・・・・」豪胆な性格の常満だが、彼もあの戦で頭を金槌で叩かれた様なショックを受けていた。
「俊高殿、吉田ヶ原の戦、常満より詳しく聞き申した。更に朱鷺の権坐の報せでは、あの黒江勝重という男、生れは信州・伊那の小豪族の次男であったが、人質として他家に預けられ、その後、甲斐の武田家に仕えたそうだ。
武田は騎馬隊で有名だがその武田の中で、山県政景率いる赤備えの騎馬軍団は、天下無敵と評判である。黒江はその騎馬団に10年居て山県10騎と云われるまでになった。
しかし、武功を上げ過ぎ、嫉妬をかって武田を出た後、関東の北条氏に仕え、そこでも独自の工夫で騎馬100騎にて、1000余の敵を殲滅して、一時は小さいながら、城持ちとなったそうだ。
しかし、武田方の諜略により、武田と内通しているという噂が出て、やはり、出奔せざるを得なかったようだ。その後、妻の実家のある越後・田上に引きこんだ後、斎藤家の筆頭家老・石田七衛門芳時が噂を聞いて、召し抱えたのだ。そして、駒込の戦と良い、この度の戦と良い、見事な采配であった。」ここで、信政は一呼吸置いた。
「今、勝重は1軍を任され、斎藤の侍大将となっている。権坐の話では、騎馬300・弓隊200・長槍隊200の計700の黒染め組を動かしている様だ。100騎で、1000を倒せる男だ。我らが立ちゆか何だのは、至極当然の事。しかし、世には凄い奴が居るものよ。」
「わしも、あの戦いで肝を潰した。今でも手が震える思いよ。」と常満が上目使いで俊高の顔を覗き込んだ。
俊高は終始無言で、二人の言葉を聞いていたが、まだ目は定まって居ない様だった。少しの沈黙後、また信政が静かに話し出した。「本日、我ら揃って参ったのは、俊高殿との義兄弟の絆を切りたいと願った故である。」信政の冷静で低い声に、表情を変えないで聞いていた俊高も、さすがに眉を寄せた。
「信政、その様に申せば、我らが縁を切ると云わんばかりぞ。」と常満が、割って出た。「うぬ、そうじゃな。誤解があっては、申し訳ない。
我ら二人、義兄弟ではなく、臣下の誓いを立ててやって参った。」「おゝ、そうとも、俊高殿、いや御屋形様、我ら両名今日より領土一切を俊高殿に献上致す。・・・・斎藤氏の力を見れば、我ら一つになって、強国を築き、対抗せねばならぬと決断して参った。」
信政も更に続けた。「5家の結束で長者衆とまで云われた我らであったが、三条・斎藤家が白根を取組み、全盛期の勢力に成りつつある今、我らも力を一つにして備えなけらばならぬ時であろう。
岩室も、反乱制圧により稲島領となった。これを機に西蒲原の覇者として、俊高殿に立って貰いたいのだ。