第四章 中越の主(ぬし) (一)真の父 ≪第一話≫ No.1-Ⅱ
第四章 中越の主
(一)真の父
≪第一話≫ No.1-Ⅱ
弥彦山と並んで、ほぼ同じ高さである多宝山の横合いの道を、越後のまだ冷たい春風を受けながら5人の山伏が溶けかけた雪を踏みつつ、小走りに長者原山の観音堂を目指していた。この弥彦連山は、全国でも有数な修験者達の荒行の聖地でもあった。雪が無ければ、国上山から長者原山までの凡そ4里(16Km)を尾根に沿って行ける行者道がある(現在も観光ルートになっている)。
さすがにこの時期はまだ雪が残っている為、この手馴れた5人の荒法師達も、越後一宮・弥彦神社の奥殿からの山道を選んで登山してきた。時は朝日が昇りかけた卯の刻半ば(午前6時半過ぎ)になっていた。5人は、全国の山々を歩きまわった修験者で、引き締まった体格に鋭い眼差しで、息も荒げずほぼ等距離で黙々と山頂を目指していた。
その中の一人に、名を清水坊・源芯と呼ばれた法師がいたが、40半ばのこの男の本名は、稲島三郎俊景と云い、俊高の父・俊秋の兄であった。3年振りに故郷の山を踏んでいた。
ほぼ同じ頃、俊高・高喜・真島良高の三人と護衛も兼ねた7人の若武者たちが、白い息を吐きながら長者原山の中腹を登っていた。弥生3月の山間は、残雪もあり、可なり底冷えするが、慣れた稲島登山道は朝靄と雪解けの滴が霧雨と成って肌を濡らした。
俊高は登りながら、あの激しい亀城攻防戦後の今日までの経緯を思い浮べながら歩んでいた。あの7月21日の激戦の後、5家の当主達が集まり、戦後の対策を海見寺にて合議した。全員の一致で奪われた柿島領と笹川領を直ぐに取戻す事を決め、柿島の味方城には柿島信政を先頭に草日部軍合せて500人が出動し、奪回を確認した2日後、笹川勢を先陣に稲島軍・高野軍合せた600人が中之口城を囲み、これも奪回出来た。
これにより、亀城攻防戦の前の領土は、完全に取り戻す事が出来、新津の秋葉軍の報復や三条の斎藤氏の介入を防ぐ事が出来たのだ。一方、7月21日の決戦後、敗れた白根・佐藤家は当主の政時を始め、重臣たちを悉く亡くし、下半身不随の政綱だけが500人ほどの家来たちに守られて、白根城に籠っていたが、軍を率いた児玉監物の行方も判らず、俊高ら5家衆の総攻撃に怯えて眠れぬ日々を送っていると聞いた。
長者原の合同葬儀が終り、破壊された様々な建物も長者原城以外はほぼ修復が終えて、年を越えた今日3月17日は、父・俊秋の命日であったので、久しぶりに山の頂上を目指していた。8カ月を経たこの日、俊高は新たな決意と進むべき行方を、祈念すべく山を登っていた。
頂上には、膝程の雪がまだしっかり残っていたが、藁靴で彼らは勢い良く、観音堂を目指した。薄曇りの空に海からの冷たい潮風が山を駈け上がって来て、汗を掻いた身体に心地よく流れた。先頭にいた真島良高が、両手で一行を塞いだ。「誰か、ここに来ている!!」と周囲を見ながら叫んだ。確かに観音堂の周囲に幾つもの足跡が残されていた。
一同は用心深く、周囲を見渡しながら御堂の周りを囲んだが、人影は見えず「この山は修験者の修道の山でも有りますれば、彼らのものかも知れませぬ。」と高喜が俊高に告げた。足跡は御堂の周りだけで、来た道を引っ返して云った様だ。一行は安心して御堂に入り、穏やかな半眼をした百済観音像に向けて手を合わせた。先代・俊秋の命日である為、持参した蝋燭と線香に火を付け、生花と供物を捧げた後、全員で『般若心経』を唱え、暫く合掌した。それが終ると二人づつ組になって武芸の稽古を始めたのだった。
四半時(30分)程、動き廻って皆、喉の渇きを山の雪で潤していた最中、突然四方から矢が飛んで来た。「わぁ~!!」と供の者が胸に矢を受けて倒れた。「三郎太!!」と近従の仲間が叫んだ時には、いつの間にか30人程の甲冑に黒頭巾の男たちが囲んでいた。「何者だ!!名を名乗れ~」と高喜が叫んだが、小槍を持った10人が先ず躍り出た。狙いは明らかに俊高であった。半間(50m)程間合いを置いて、6人の弓隊が的確に味方を倒していく。そして、次第に俊高と味方の距離を離して行った。
彼ら刺客は、巧みに訓練された一団で有った。味方は5人に減っていた。




