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≪第八十話≫  その3.  No.116 ≪第八十話≫  その4. No.117

≪第八十話≫  その3.  No.116

 5月2日は八十八夜と云って、立春(2月4日:旧暦の元旦)より88日目に当り、その前後に新茶を紡ぐ。故にお茶は、草冠に八十八と書くので有るが、実はお米も同じく八十八と書くのである。正しく田植えもこの前後から行うのが今日の風習と成っている。当時はまだそれ程、稲の改良が進んでいない時代で有る為、田植えは全国的に6月の雨季に集中しておこなわれたが、越後の地は多少早く、5月20日前後が目安であった。

 しかし、稲島の農民達は、この時期になっても、長引く戦の為に誰一人苗を植えられずにいた。三ヶ所の避難所にいる領民達は、予想はしていたが、長引く戦に気を揉んでいた。

そこに、高喜・良高・勘平ら5人の城方が合流して、五ヶ浜の避難所は活気が出た。特に高喜と清水良高が手塩に掛けて育てた錬成予備隊の若者達が200人程ここにはいたのである。

 避難所に来て見て、高喜達が想像していた様な流民の生活苦は()(ほど)なく、防柵で囲まれて不自由さはあるが、皆互いに助け合い、明るく元気であった。ここ五ヶ浜の避難所は周囲1里(4km)の囲いを作り、山際には、五ヶ浜砦があって、3つの避難所の中で一番規模が大きなものであった。

 戦が始まり、一ヶ月半が過ぎ様としていたが、食料は持参の米や粟を主食に、時折小舟で海に出て漁をもしていたし、また長者原山の山の幸を集めたりもしていた。そして、2,800人を越す群衆を何人かの村長が湯の腰の仁平を中心に良くまとめていた。

 又、毒消しの調合小屋や鍛冶場小屋を作り、戦後の準備に余念がなかった。更に錬成予備隊の若者を軸に防衛の訓練もされていたのだ。高喜は、郷人達が皆前向きに、厳しい環境を乗り越えている事を安堵(あんど)して、今までの戦況を(つぶさ)に話して聞かせた。

 高喜達が合流して、5日目に笹川行(ゆき)(さだ)が笹川勢150人を率いて、この五ヶ浜避難所を攻めて来た。山のあちらこちらに、見張りの者を立てて致し、また光の合図であっという間に連絡が出来た。正に俊高が投石器を破壊した後、高喜と良高を避難所に送ったのは、敵の攻撃に対応する為でもあった。

 俊高は、亀城が何とか持ち(こた)()れば、必ず敵方の目が避難所に向けられると見ていた。案の定、兵が差し向けられた。しかし、高喜・良高・勘平又、権坐の忍び7人衆と200人の錬成予備隊の活躍により、3度の執拗な攻撃にも、屈する事なく乗りきれたのだ。

 ところが、6月に入り、雨季となった頃、亀城の中で思いも()らない、試練が待ち受けていたのである。

≪第八十話≫  その4.    No.117

 亀城に籠城して、丸2ヵ月が過ぎていた。季節も雨季に入り、殆ど毎日鬱陶(うっとう)しい雨が降り続く。今日、様々な地球環境の影響にて、昔の様に(筆者の子供の頃)四季がはっきりしていない。冬は寒く、夏は暑い。当たり前の様な事だが昨今はそれが曖昧(あいまい)である。

 暖冬で有ったり、冷夏で有ったり、台風も20以上襲来したと思えば、春先に来て夏・秋には0。記録的な大雪が何度も起こり、ゲリラ豪雨が局地を襲う。梅雨も最近は、空梅雨が多い。何時始まって何時終ったのか、日本列島に梅雨前線が停滞しないのだ。

 以前の天気予報図は、必ず日本の真上に停滞前線が凡そ40日前後居坐ったものである。やはり、地球規模の環境汚染が大きく影響していて、その何割かを我が国が元凶と成っているからであろう。

 勿論、俊高の時代にも其れなりの天候異変はあった。しかし、そのスパンス(範囲)は10年,20年であり、更に大きな変化は、100年に1度というものであった。

 ある日、稲島の20歳程の若い兵士が吐き気と高熱が続き、下痢の症状が出た。以前お話しした様に、当時の病は腹下しが大半で有ったので、周りの者達も然程(さほど)、気に留めずにいた。しかし、3日3晩苦しみ、下血して死んだ。

 そして、同じ症状の者が次から次へと増えて来出したのである。今でいう『赤痢(せきり)』であった。当時は『血くそ』と呼んだ。血便が大量に出るからである。城内の40人近くが(かか)った。

 健康面や衛生状態には、長期の籠城戦に十分配慮していたが、亀城の弱点でも有る、囲い式の城構えの為、風通しが悪く、時折は大屋根の扉を開けていたが、雨季の為,閉め切りになって、季節柄、湿気が多く(かび)易く,また負傷した兵士の傷口にハエが停まり、雑菌を振り撒けば様々な病気の原因を作る。

 症状の出た者たちは、直ぐに隔離(かくり)されたが、今残っている戦力の内、十分の一近くに成って、これ以上感染者が出れば、勝負は付いたも同じであった。俊高は、30人の女達に命じ、城の隅から隅まで酒を染み込ませた布で拭き清めさせた。そして、食事の前に必ず、手洗いをさせ、炭火に手を(かざ)して消毒させた。

 当時でも、傷口が化膿しない様に酒の消毒の風習はあったし、また病の正体が細菌であるとは認識がない時代でも、何か目に見えぬ毒が潜んでいる事は、可なりの昔から知られていた。

 (かわや)は、内堀の一部を使って城内から大小とも流していたが、大量の血便が流れれば、敵方に知れてしまう為、新たに地下蔵の横を掘らせて土に埋めて行った。

 幸い戦の方は6月の雨季の間、敵方は避難所の攻撃以外殆ど動かなかった。『赤痢』も一端終息したかに見えたが、用意してあった毒消しの薬が無くなっていくと、再び感染の猛威が始まってしまった。


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