≪第七八話≫ その6. No.101 ≪第七八話≫ その7. No.102
≪第七八話≫ その6. No.101
俊高は、毎朝戦評定をする為に必ず重臣達を集めた。次の敵方の出方を常に心得ていなければならない。又、外の連絡を密かに朱鷺の権坐から受けていたので、その内容も皆に知らせた。
その中には、高野家の当主夫婦監禁の事、草日部家も国境に秋葉軍の待機により、すぐには動けない事などの情報が伝わっていた。
亀城には籠城した時の総兵力は640人であったが、それ以外に凡そ70人の者たちが共に入った。40人の武器造り・城の修繕の為の職人衆と、30人の賄い及び怪我人介護の女たちであった。その女たちは、情愛を中心に結束して男たちを小まめに補佐してくれた。
その中には柿島から来た10人の女達がいて、信政の正室と妹が束ねていた。名を希恵と芳葉と云った。早朝5時から戦評定があり、その後城内の兵士達が三班に分かれて、順に朝下を取る。総勢700人を越えているので、30人の女たちは、戦場と同じく忙しく働いた。
朝下は稲島家の伝統で、戦場では上下なく一同が揃って飯をほうばった。籠城戦のまだ初期であったので、初戦の勝ちも有り、城内は活気立っている。そこに10人づつ色分けされた鉢巻と襷を付けた女相たちが、甲斐甲斐しく朝働きをする姿は、血気立った猛者たちの目にも、微笑ましく心が浮いた。
緊張した評定が終って、重臣一行も直ぐに朝下に向っていた。俊高はふと、笹川常満と柿島信政が何やら、にやにやと耳打ちしながら立ち話している視線の方向を見詰めてみた。そこには、弟の高喜と近従の清水寅之助が兵士たちと並んで粥を貰うのを待っていた。その先に芳葉がはち切れる笑顔で、椀に粥を注いでいたのだ。
俊高は常満と信政に近づき「二人とも何を視ている?」と判らぬ振りをして話し掛けた。常満が顎と肩で示した.「俊高殿、戦が無事に終ったらあの二人を夫婦にさせて上げましょうぞ!!のう信政殿。」顔を向けられた信政は、返事をせずただニヤニヤ笑っていた。あの二人とは、弟の高喜と芳葉である。
最初の攻防は何とか凌いだが、次の寄せ手は甘くはなかろう。・・・10日が経って敵の出方が不気味である。月日は4月の25日になっていた。俊高が睨んだ通り、児玉監物は本格的に城攻めを進めてきた。
≪第七八話≫ その7. No.102
その日は小雨の降る朝であったが、法螺貝と太鼓の音で始まった。白根方の先方隊が一丸と成って亀城の外堀に進んで来た。矢を避ける為、雨除けとなる民家の板戸を立てながら、細長い屏風の様に並べて、一斉に外堀の淵に向って来た。一瞬に防壁が出来た観である。そこに後ろから2本づづ6間(10m以上)はある長い角型の柱木で堀を跨がせ、稲島方の防壁に立て掛けた。
そして、次々に立て掛けていた板戸を寝かせる様に2本の長い角柱に合わせて重ねていった。柱には板戸を支える止め金が均等に打ち付けられていて、白根兵は登りながら板戸を上に並べていく。恐らく、何度も練習したのであろう。あっと云う間に、板戸と角柱の渡り廊下が出来上がってしまった。その数、40本。先回の竹梯子と違い、丈夫で安定感があり、一度に10人程が攻め込めた。
稲島軍は先回と同じく弓矢と長竹竿で防戦したが、白根軍の怒涛の攻撃に耐えられず、乗り込んで来た敵兵に圧倒されていた。僅かな時に3~400人が雪崩込んで来たのだ。内堀の中央で戦況を視ていた俊高は、騎馬隊を用意させ、内堀の門を開いて味方の援護に100騎を投入させた。
暫しの合戦で何とか活路を見つけて外堀の守備軍を内堀に招き入れたが、攻防の2回戦は圧倒的に白根方の勝利であった。この戦で60人以上の味方がやられた。大きな犠牲であった。
三回目の攻城戦は、時を置かず、二日後には押して来た。内堀は1.5間(約3m)であったので白根方は、更に勢い付いて板戸橋を渡して越えて来た。稲島勢は内堀の守備を諦め、城内から、一斉に弓矢の嵐を浴びせて侵入を防いだ。それでも数に優る白根方は次第に亀城の城壁に近づいて来ていた。
城壁の10間(約20m)程に来ると、白根兵達は腰に吊るしていた布袋から拳大の土団子を取出し、各々が城壁や城屋根に向って放り投げ出した。壁にぶつかるとグチャッと潰れて中から液状の黒い汁が飛び散った。そこに向って後方から、火矢が跳んで来た。
火矢が黒い液体に刺さると、真黒な煙を出しながら、大きく火が付いた。外堀でこの有様を視ていた児玉監物は、小さな声で呟いた。「小天狗よ!。目には目を、火には火を報いよだ・・・ふふふふ・・・」
昔から、越後七不思議という謂れがある。
<越後の七不思議>
1.如法寺の柄目木の「火の井戸」
2.黒川・沸壺の「燃える水」
3.三日市の「燃える土」
4.北蒲原郡・小島の梅護持の「八房の梅」
5.中蒲原郡・鳥屋野の「倒竹」
6.北蒲原郡・安田孝順寺の「三度栗」
7.南蒲原郡・田上の「繋ぎ榧」
であるが、1~3は所謂、石油の事である。今でも、排出量は僅かながら、新津や五泉市などで石油が採れている。
児玉監物は、この黒い液体(燃える水:石油)を用いて、土蜘蛛と呼ばせた土団子を作らさせたのである。俊高が用いた油袋に対抗した策であった。亀城のあちらこちらに火の手が上っていた。